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定年後の伊豆高原 バラと酒と音楽と

伊豆高原に終の棲家を建築し永住。カミサン、愛猫ジローとの伊豆での老後は如何に。薔薇・酒・音楽・日々の徒然。

セレモニーとしての葬儀のむなしさ

2007年02月06日 | 定年後の徒然日記
誰しも親の死に目にあたって葬儀のあれこれを計算する子供はいないだろう。しかし、親の死が現実になると同時に、自分の思いとは全くかけ離れた仕組みが極めて事務的に、かつセレモニー的に、あれよあれよと展開してしまう。
病室で医師から臨終を告げられて悲しみに打ちしがれる時間は30分もなかったのではなかろうか。看護婦が淡々と説明を始める。
母の体を清めていわゆる旅支度をさせること、病院費の清算、死亡届、そして実家への搬送について。
「当病院には霊安室の用意がありませんので出来るだけ早くお引取りをいただきたいのですが・・・葬儀社はお決まりですか?」
「えっ?いえ・・・」
「よろしければご実家までのご遺体搬送の業者を呼びましょうか?」
「あ、はい、よろしくお願いします」

もちろん、搬送業者の選り好みをしている時ではない。
あっという間に業者が飛んでくる。「あの~、搬送はおいくら?」などと聞く余裕も無い。
かくして遺体と共に実家の客間に母は安置された。
家族の悲しみが一段落したところを見計らうように業者がつぶやく。
「お悲しみの時に何ではございますが、斎場の手配など、直ぐにでもおこなわないといけませんので・・・」

まずは斎場の手配である。一月はことのほか葬儀の多い時期らしく、いずこの火葬場も満杯状態。やっとの思いで火葬場と斎場(葬儀式典)を予約したところでてんやわんやが始まるのである。
葬儀屋をどうする?葬儀の手順は?葬儀費用は?誰に連絡するの?連絡先知ってる?お写真はどうする?そもそも喪主は誰が?祭壇の種類、大きさ、通夜の返礼品、僧侶へのお布施(そもそも我が家の宗派は何だったっけ?)・・・もう判らない事に加え、判断しなくてはならない事を次々と業者が攻め立てる。
女系家族の我が家は口うるさい小姑の塊である。(勿論、我が娘までもが)
ああでもない、こうでもない、と意見を述べ始め、葬儀しきたりの薀蓄を語りだす始末。
で、葬儀社はどうするの?
「差し支えなければ、ご遺体を搬送させていただいた弊社にお任せを・・・」
遺体搬送から実家での安置や斎場手配まで、テキパキとやってくれて、今尚、じっと隅にかしこまっている業者に頼むほか無いではないか。
「あの~、葬儀っていくらくらい掛かるのですか?」
「こちらをごらんくださいませ」
そそくさと写真つきのアプローチブックを取り寄せ解説が始まる。
またしても、ああでもない、こうでもないと侃々諤々の論争が・・・

ところで、葬儀費用っていくら位が相場だかご存知ですか?勿論ピンキリでございましょうが、まあ、相場みたいなものが存在するのです。因みに、葬儀の見積もり内訳はこのようになっております。
(画像が小さすぎて見えませんね。大きくする方法を知らないもので・・・)
インターネットで検索すると、低価格料金から様々な見積もりが表示されていますが、60名位の会葬者で葬儀費用は120万前後が普通というところでしょうか。それに僧侶へのお布施やら49日の費用やらで・・・。
そして、通夜の席も、告別式も、火葬場も、斎場も、ある意味極めて事務的に、かつセレモニー的に粛々と事が進められたのであります。
葬儀とは本人の意思に関係なく進められるものですね。そして母を亡くした悲しみは、臨終の前後1時間、そして、今頃になって思い出と共にやってくるのです。







母を偲ぶ

2007年02月04日 | 定年後の徒然日記
平成十九年一月二十九日 午後四時三十六分 母は逝った。
享年八十七歳であった。

 四年前、実家玄関先で転倒、打ち所悪く脳挫傷となり救急車で板橋T大学付属病院へ搬送。緊急手術をおこなったが意識不明のまま。執刀医からもう意識を回復することは無いだろうと冷たく言われ、三ヵ月後に追われるように転院。以後、脳死状態のまま三ヶ月ごとに病院を転々とし一年が過ぎた。転院先の病院では積極的な治療は全く無く、ただ脳死状態の人間への栄養剤点滴と痰の吸引のみをおこなうだけであった。

知人の紹介で東京女子医大のある教授に見せる。水頭症の状態だから手術をすれば意識は回復するだろうとの診断で再手術。なんと直ぐに意識回復で口も聞けるようになったではないか。震える手でスプーンを口に運ぶ母の姿を見て奇跡を感じた。あの時は本当に嬉しくて女子医大の方々が神様に見えた。それに引き換え、最初に入院手術をした医師の未熟さに腹が立ったものだ。実はその時の板橋T大学病院執刀医の未熟さが、四年後の母の死去に少なからぬ影響を与えていたのだ。

以後、板橋の民間介護老人ホームに一年、実家の近くに出来た新しい介護老人ホームに一年とホームにおける生活が続いた。その間、数日おきに親父や娘(小生の妹)の見舞いを受けながら昨年末に至った。そして年末に気管支に痰がつまり窒息状態に陥り緊急入院、回復と窒息を繰り返し、最後は肺炎を併発して逝った。担当医によれば、四年前の脳挫傷手術時の人工呼吸気管支切開手術の後遺症で、気管支道が変形して痰や唾がつまりやすくなった事が原因であり、逆に今まで窒息を起こさなかったのが不思議なくらいとの話であった。

母は87歳の生涯を閉じたが、息子から見ても幸せな人生であったと思う。気が強く、見栄っ張りで竹を割ったような性格だが、面倒見がよく人に慕われた。とりわけ、晩年の母は、海外国内と元気に旅行を繰り返し、グルメを楽しみ、茶の湯、料理、菓子造りなどは免許皆伝。多くのお仲間に恵まれ晩年を豊かに過ごすことが出来た。

悔いの無い人生で大往生であったと思うが、やはり母を偲ぶと泣けてくる。

ブログ再開。タイトルが変わりました。

2007年02月04日 | 定年後の徒然日記
長いことお休みしましたが、ブログを再開することとなりました。
改めて、皆様、よろしくお付き合いの程お願いいたします。

再開のきっかけは、母を亡くした事。そして念願のデジカメが届いた事。
再開にあたり、「ジローのローズガーデン」にタイトルを変更しました。
主人に代わり、ジローからバラ日記と日々の徒然を気が向くままに発信します。

再開第一報は「オフクロの死」です。寂しさと悲しさを誰かに聞いてもらいたくて・・・第一信が滅入る話で申し訳ありません。
それでは後程