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犬鍋のヨロマル漫談

ヨロマルとは韓国語で諸言語の意。日本語、韓国語、英語、ロシア語などの言葉と酒・食・歴史にまつわるエッセー。

慰安所日記を読む(6) 家族

2014-06-02 23:37:30 | 慰安婦問題


 安教授が解題でも書いたとおり、この日記は「筆者の個人的生活に関する記録」なので、ここに慰安所や慰安婦の実態を見出そうとする読者にとっては、物足りないかもしれません。

 また、日記の内容は、ほとんどが現地での生活を淡々と綴ったものであり、筆者の気持ちや感情が記されること少ない。それでも、何カ所かで、感情の表出が見られる場面があります。だいたい、家族に関して述べられている所です。

1943年1月1日
…私は遠く故郷を離れ、ビルマはアキャブ市の慰安所、勘八倶楽部で起床し、東の方、宮城に向かって遥拝し、故郷の両親、兄弟、妻子を思い、幸せを祈った。

1月19日
出発して以降、アキャブの我が慰安所一同は無事よく営業しているだろうか。どうか健康と幸せを祈ってやまない。

2月2日
昨夜、故郷の夢を見たからか、午後3時頃に電報が来た。…みな無事だというが娘の病気が相変わらずだというので心配だ。

2月19日
陰暦正月15日、月見の日なので、故郷の両親、兄弟、妻子は月を見て、数万里離れた異国にいる私のことを思ってくれているだろう。東の空高く昇る月を見て、思郷の遥拝をした。この地のこの時期は、一点の雲もなく澄み渡った空に、月がいっそう明るい。

3月19日
アキャブの義弟と新井君の二人が慰安所の仕事で忙しくてひどく困っているだろうことを思うと、一日も早く帰らなければと思うのだが、なにせ険路に加えて遠いので、途中での苦労を思うと、また考えてしまう。義理を思えばぜひ帰るべきだが。


 そして、筆者が、義弟の経営する慰安所を離れラングーンで生活するようになってしばらくしてから、事件が起こります。

4月24日
このたびプロームのほうへ行ってきた文野、広田の両氏が伝えてくれたところによれば、アキャブのほうから慰安所の主人が女の子二人を連れて出てくる途中、遭難して主人と女の子一人が死に、一人は重傷を負ったそうだ。ひょっとして義弟の山本氏ではないかと心配だ。

4月26日
慰安所の東亜館と蓬莱亭を訪ねて義弟の消息の大略を聞いたあと、蓬莱亭主人の野沢氏と病院に行き、義弟と同行してきた傷痍軍人に話を聞いて、事実を確かめた。しかも、○桓君と女の子2人、ぜんぶで4人だ。胸が詰まり、どうしていいかわからない。

4月27日
…心が痛み、胸が張り裂けそうなのに加え、車も遅れるので、死にそうな気分だ。どうしたらいいのだろう。故郷の家族に、どんな顔をして対面できようか。一緒に死なずに生き残ったのは間違っている。この不幸な報せを両親、妻子が聞いたら死のうと思うだろう。しかも、○桓君は24歳の前途洋々たる青年なのだ。

4月28日
…終日どこにも出かけず、義弟の不幸な運命を思って、ため息ばかりついている。数万里離れた異国で、激浪に抗ってビルマまで着て、無事に過ごしていたのに、帰国しようとしていた途中に遭った不幸は、本当に胸が痛む。私一人で故郷に帰ることを考えると、本当に気が狂いそうだ。

5月3日
…まず患者療養所を訪ねて張○岳に会い、悲しみを禁じ得ないと言った。遭難に至った事情もよくわかった。義弟と○桓君、年若かった奉順、金○梅の4人は、不帰の客となったということだ。…自動車輸送部に便乗の許可を得、張○岳を連れて、ふたたびアラカンの山道を越え、バトンに向けて、くねくねとした道を通過した。この道程がいかに切なかったことか、胸にあふれる悲哀がアラカン山の雄大な姿に重なり、千秋の後まで消えることはあるまい。


 1942年の年末から、連合軍はアキャブ奪還作戦を発動、最前線のアキャブは危険な状態になったのでしょう。筆者に続いて、義弟たちもアキャブの慰安所を引き払って帰国しようとしたのかもしれません。ところが、ラングーンに向かう途中の山道で「遭難死」してしまう。朝鮮から行動を共にしてきた義弟ほか同僚と慰安婦二人の、合わせて4人です。この遭難が、敵の攻撃によるものなのか、険路で崖から転落したのか、日記には記述がありません。著者が後から知ったところでは、義父(妻の父)も、息子の悲報に接した後、嘆きの余り、後を追って亡くなったということです。

 翌年、今度は朝鮮に残してきた家族も悲運に見舞われます。

8月30日
午後5時過ぎ、私宛の葉書が一枚届いたが、差出人は朝鮮にいる義弟(妻の兄弟)の山本○治だった。葉書の内容を見ると、出発以後、私の頭から片時も離れず、心配の種だった長女○○の病気が治らず、昨年2月頃に亡くなったということであり、長男○○も病気で、病院で治療を受けているという。私が南方に行くとき、病気の体で釜山埠頭に送別に来てくれた、私のまたとない一人娘が、今まで病気が治るように神様に祈らなかった日は一日もなかったのに、死んだとはなんということか。長男までも病気だなんて、これも信じられないし、私の家族はまったく滅びてしまった。溢れ出る涙をとどめようがない。ああ、一日も早く治って健康な体でちゃんと学校に通えるよう祈ったのに、神様も無情だ。私の今後からは、もはや幸福も栄華もすべて失われてしまった。○○は昨年16歳、女学校3年生だった。


 最愛の一人娘が病気で亡くなってしまったのですね。日記の別の個所には、著者は幼い子供を二回亡くしたことがあるが記されていますので、我が子の死に接するのは3回目かもしれません。

 そして1か月半後、さらに追い打ちをかけるような報せが来ます。

10月17日
故郷の進永の親族、○烈から電報が来たが、「妻死亡、子供困難、すぐ帰れ、返事をくれ」という電文だ。胸が張り裂けそうで、どうしようもない。妻まで死んだとなれば、私には本当にこれから先、どんな希望も、どんな幸せもない。今年の春、3、4月ごろに帰郷しなかったことが悔やまれる。どうして私の人生はこんなにも不幸、不運ばかりだろうか。神様も無情だ。


 故国での経済的苦境を打開するために、新天地で慰安所経営に乗り出し、それなりにお金は儲けたかもしれませんが、その間、義弟、義父、娘、そして妻までも亡くしてしまった筆者の悲嘆はいかばかりであったでしょう。

 慰安所の業者と言えば、貧しさにつけこんで、人身売買や誘拐まがいのやり方で女の子を騙し、連れ去り、搾取した極悪非道のイメージがつきまといますが、この日記を読めば、そんな業者にも家庭があり、家族がいて、激動の時代の中で、精一杯、自分の人生を生きていたことがわかります。


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4 コメント

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Unknown (belbo)
2014-06-03 16:37:50
この日記、募集の年度が無いのも理由かも知れませんが、自分の事業に対する後ろ暗さのようなものが全く感じられませんねえ。
その分、家族や自分の境遇への嘆きが目立って、どうも慰安所日記という色が弱い。慰安所の内情や、女性への言及は極少ないし、当時の朝鮮半島出身者の慰安所に対する感覚はこんなもんだったのかと思いつつ、もっと事例が無いとなと。

正月の度に今年こそはと決意しつつ、「一日中遊んだ」だらけな日記を見ると、家族の死と断片的な戦況以外、戦時中の日記と思えない長閑な日々です。
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遊ハダ (犬鍋)
2014-06-04 22:26:19
コメントありがとうございます。

ご自身のブログでも日記を取り上げているのですね。読ませていただきました。

「遊ぶ」ですが、原文は漢文式の「ユハダ(遊ハダ)」となっています。

現代韓国語訳では「ノルダ」。ノルダは、文字通り「遊ぶ」(酒色に興じる)という意味のほかに、「仕事をしないでいる」という意味もあります。

「ユハダ」のニュアンスはわかりませんが、たくさん出てくるユハダの一部は「仕事をしなかった」という意味かもしれません。
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Unknown (belbo)
2014-06-05 10:12:15
「遊ぶ」、なるほど、犬鍋さんの記事でもバーのママの話題で言及されてましたね。
とすると、「一日中遊んだ」は無為の日々への自嘲も込められているのか。などと推測するには語学の素養が不足し過ぎてもどかしいです。

私のブログ、勝手な深読みをあまり見直さずそのまま投稿してしまっていて、お恥ずかしい。ただ、普段技術職なので、こういう作業は新鮮で発見も多く楽しいです。
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バーのママ (犬鍋)
2014-06-09 01:37:33
彼女は日本語力を生かして観光ガイドの資格をとり、日本人観光客相手に仕事をしていましたが、昨今の日本人観光客激減のおりから、また遊んでいるかもしれません。

前回の韓国出張時には、残念ながら連絡がつきませんでした。
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