犬鍋のヨロマル漫談

ヨロマルとは韓国語で諸言語の意。日本語、韓国語、英語、ロシア語などの言葉と酒・食・歴史にまつわるエッセー。

慰安所日記を読む(7) 同業者と慰安婦

2014-06-04 22:34:45 | 慰安婦問題



 韓国人の人間関係の特徴に、ウリ(我々)とナム(他人)の区別があります。

 ウリと認定した人には限りなく情をかけ、それ以外の人々(ナム)には冷たい。友だちにも他人にも同じように親切にする日本人と対照的です。

 日記の筆者にとって、自分の家族がウリであるのは当然として、同じ朝鮮出身の慰安所経営者たちも、このウリに当たるようです。

 それに対し、異国のビルマ人や、内地人(日本人)はナム。

 日記の中の登場人物は、ほとんどが日本名ですが、安教授が解題で書くとおり、固有名詞の出てくる人物はほとんどが朝鮮半島出身者のようです。

 日記には、ビルマだけで20か所以上の慰安所名とその経営者、従業員が出てきます。初出個所では、「同郷の」とか、「朝鮮からいっしょに渡ってきた」などの修飾語がついている場合が多い。筆者は、1942年7月10日に釜山を出港した「第四次慰安団」で、いっしょに来た人、その中でも特に大邱出身の「同郷人」に親しみを感じているようです。

 筆者は、学校では日本語で教育を受け、日本語の読み書きには堪能なはずですが、やはり生活の中では、同じ朝鮮語、それも慶尚道方言で話すときがいちばんくつろげるのでしょう。

 1943年1月に、自分の慰安所のあったアキャブを離れ、2月からその年の9月まで、ラングーン周辺で過ごしますが、そのときの交友関係は、同郷の人々が中心です。

 筆者は、義弟の経営する慰安所の手伝いに飽き足らず、何か自分で事業を始めようとしてラングーンに出てきたもようです。当初は、ラングーン会館という慰安所を経営する大山氏とともに将来の事業経営について議論し(2月1日)、一時は食用油製造工場を共同経営する話がまとまりかけましたが、うまくいかない。

 4月になると、家族の遭難という大事件が起こり、それどころではなくなります。義弟が事故死したあと、アキャブの慰安所はどうなったんだろうと思って、日記の記述を探しても書かれていない。筆者はアキャブには戻らず、慰安所の経営は他人に任せたようです。ただ、任せた相手の個人名が出てこないので、もしかしたら一時的に軍の直営になったのかもしれません。

 その後、一時はペグーで慰安所を経営する同郷人の金川氏のところに身を寄せますが、6月からはラングーン近郊のインセンの慰安所、一富士楼で帳場の仕事をするようになります。

 この年の後半になると、朝鮮からいっしょに来た朝鮮人の中にも、慰安所を他人に譲り、帰国したりシンガポールに行ったりする人が出てくる。そして筆者も、大山氏に誘われてシンガポール行きを決めます。

 その間、朝鮮人慰安所経営者の間では、家に泊まらせてもらったり、食事をともにしたり、お寺を見物にいったり、ときにはお金を融通し合ったりという、濃密なウリのつきあいが続きます。

 では、ウリの範囲はそこまでなのか。

 日記には、慰安婦についての記述が少ないのですが、私の見るところ、朝鮮半島出身の慰安婦たちもやはり筆者によってウリ認定をされているように思います。

 ビルマにおける主な通信手段は、朝鮮との間では電報、ビルマの中では人づてに託す手紙です。筆者はアキャブを離れたあと、アキャブに残した家族以外に、別のところにいる慰安婦に手紙を出したりしています(たとえば43年3月7日、22日に金井慰安所の烏川弘子宛)。もしかしたら、自分が朝鮮で募集した慰安婦かもしれませんし、長い船旅の間に親しくなったのかもしれません。

 4月の「遭難」では、義弟と共同経営者以外に2人の慰安婦が犠牲になり、もう1人が重傷を負いました。筆者は、生き残った慰安婦の澄子(張○岳)を手厚く介護しています。

5月4日
イラワジ川を渡り、プロームの蓬莱亭の野沢氏宅に行った。負傷者をプロームで軍医にお願いし入院治療をしてくれるよう、ビルマ人看護婦一人をつけて、蓬莱亭で夕食を食べた後、21時に車で出発しラングーンに向かった。

11日
プロームで治療を受けている張○岳(澄子)の簡単服を新井、山本の両氏夫人にお願いし、作ってもらうことにした。

 「簡単服」とは、ビルマの伝統的な衣装(腰巻き)、ロンジーのことと思われます。

14日
張○岳の簡単服を、山本氏の夫人からもらい受けた。また女性用の下着を4枚くれたので、いただいた。

18日
10時頃にプロームに着いた。蓬莱亭の野沢氏のところに行って治療をお願いしていた張○岳に会った。それまでの治療がよかったらしく、よくなっていた。治療をしてくれた軍医にお礼の挨拶をして、食事その他いろいろお世話になった野沢氏に感謝の礼をした。野沢氏のところで夕食を食べ、張○岳を連れてプローム駅発の21時半の列車で、ラングーンに向かった。

30日
当分の間、張○岳はペグーの金川氏宅に滞在させることにした。


 6月には、アキャブの慰安所から照子という慰安婦が病気治療のためにラングーンに来ます。

6月28日
アキャブの我が慰安所の慰安婦、照子が、アキャブで食堂をしている葦原氏と一緒にやって来た。連隊の移動と同時に葦原も移動し、タウンジーで店をやっているそうだ。アキャブの消息を、葦原氏から詳しく聞いた。慰安所の女子たちも、部隊といっしょに、1、2か月もすれば(アキャブを)出るようだ。

30日
アキャブから来た照子は、軍医の診察を受け、当分の間、ラングーンにいるように言われた。

7月3日
照子を連れて、兵站司令部に行き、副官の紹介で軍医の診断を受けた。


 筆者はラングーンで、村山氏経営の一富士楼という慰安所で帳場の仕事を手伝うことになりましたが、一富士楼の元慰安婦の世話もしています。

16日
村山氏の慰安所で、以前慰安婦をしていた桃子は妊娠7か月だが、この数日、胎児が動き、今日鈴木病院に入院したが、流産した。村山氏の家で夕食をとり、遊んだあと、村山浩二君とともに桃子の傍らで泊まった。

17日
昨日鈴木病院に入院した桃子は、流産の後の経過が良好で、今日浩二君の自動車で帰ってきた。


 ときには、慰安婦同士の喧嘩から自殺騒ぎが起こることも。

8月16日
お客の自動車に慰安婦全員を乗せて金泉館に行って、検査を受けさせた。…夜3時頃、村山氏の夫人が、照子(松原分任)が毒を飲んだと言うので、行ってみると、過マンガン酸カリを飲んで苦しんでいたが、水を飲ませて吐かせ、命に別状はなかった。原因は、仲間の澄子との喧嘩の末だという。

 なお、慰安所の慰安婦たちは、定期的に軍医による検黴(けんばい)を受けます。性病や妊娠、その他の検査で、性病であることがわかれば営業停止で治療を受けなければなりません。慰安婦を検黴に連れて行くのも、経営者の仕事です。

 アキャブの自分の慰安所は、部隊の移動の都合で別の場所に移動させられることになり、筆者は彼女たちの移動先についての面倒もみたようですが、これは朝鮮から女の子たちを連れてきた者として当然の責任でしょう。

21日
ペグーで経営していた新井久治氏の慰安所を引きつぎ、アキャブに入っていた文野氏が、今日、インセンの新井氏宅に女の子を全員連れてきた。文野氏の話では、わが慰安所の女の子15人もアキャブから出てタンガップにいるが、2、3日中にプロームに着くそうだ。夕食を食べた後、遺骨と女の子を迎えに、夕刻インセン発の列車でプロームに向かった。

22日
慰安所の喜楽館に寄って挨拶をした後、弓部隊連絡所長の塚本少尉を訪ね、アキャブから出てくる女の子たちの周旋方を依頼し、喜楽館で夕食を食べて寝た。


 アキャブの慰安所の慰安婦たちが、4月に事故死した4人の遺骨を持ってきます。筆者は、自分の家族の遺骨も慰安婦の遺骨もわけへだてなく鄭重に取り扱い、本国へ送る手続きをとります。

26日
遺骨についての手続きを兵站に聞いてみると、一時的に預けることはできるが、本家への送付は所属部隊で手続きしなければならないそうだ。

29日
アキャブからやってきた小夜子、蘭子、○美子の三人が、義弟ほか3人の遺骨を持ってきた。遺骨を受け取った私は、実になんとも言いようがなく、悲愴な気持ちになった。遺骨を安置して焼香、再拝した。小夜子が引率してきた慰安婦一同は、今夜3時に車でタウンジーに向かって出発するそうだ。

31日
松原分任といっしょに、義弟の山本氏ほか3人の遺骨を持って、ラングーン兵站司令部に行き、遺骨係に預けて奉安を頼んだ。

9月5日
松原分任をカローのほうにあるアンバンの葦原のところに行かせた。


 そして、筆者がビルマからシンガポールに発つ前の日、慰安婦の一人は惜別の涙を流すのです。

9日
村山氏の家で、3、4か月も一緒にいて情が移ったのか、私が朝鮮から連れてきて一緒にいた澄子が惜別の涙を流すなど、胸にじんとくる離別だ。


 慰安所の経営者にとって、慰安婦は運命共同体であり、家族も同然なのでしょう。健診を受けさせ、病気になれば介抱し、不慮の死を遂げれば手厚く葬り、遺骨を本国の家族に送ります。酔客にからまれれば守り(これは実際にシンガポールの慰安所での日記に記述があります)、貯金をし、本国に送金の手続きをしてやります。

 稼ぎの半分を巻き上げていることにかわりはないし、それだけを見れば搾取といえるでしょう。しかし、日記の記述から見る限り、慰安所経営者が慰安婦を虐待したり、金儲けの道具として見下したりしているようにはとても見えません。これを性奴隷と呼ぶ人がいることが不思議です。


※ 日記の引用は、韓国語(現代韓国語/漢字混じりの原文)から訳していますので、日本語仮訳版と異なるところがあります。


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