とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

束縛と自由意志と内発発露と学習性無力感

2024-08-27 23:07:44 | 雑感
私は幼児から少年期にかなりあれこれの命令を受けていたクチの子供なので、その反動で自分から動かない子供になっていた。
自分で何かをやろうという内発性が無かったのである。

これまでの日本文化に従った日本社会からは「うだうだ言っておらずに働け」と言う具合になっただろう。
しかしこれは人間の自然に持つ性質であるので、これをサイエンスし、対応しないと、今後の日本社会は疲弊し、部分的破綻からの部分的崩壊、そして緩やかな衰退を持つことになる。自分のことながらこれをよく考えたい。

心理的な作用機序は大雑把に言って次の通りだ。
まず子ども自身はああしたいこうしたいという内発的な行動原理を自尊心と共に持つようになる。
一方大人はそれを制限する。あるいは強制的な交通誘導をし、「正しい」方向への道に向かわせる。
これが健全な程度であればいいのだが、子供の心をそっちのけで強制するようになると非健全だ。

一定の心の無視のラインを超えた時、子供は「自分の内発性がない方が良いのだ、自尊心も顧みられないのだ」と自分の気持ちを諦め、その対抗として「ああそうですね、あなたの言うことは絶対ですよ、ではあなたの言うこと以外は従いませんよ」とルールに従った上で、ルールに反抗しようとする。
即ち、その時点で大人が必要としている子供の自尊心を子ども自身が切り捨てたのだ。
これは学習性無力感が内発で存在するが、それだけは咎められないので、それを保持しつつ、それを武器に社会行動様式の所作を強制してくる人物に対して反抗しているのである。

よって内発性を育てるか、あるいは親元を離れた時に内発性を発露させるような指針の提示と基礎体力をそこまで育てるかと言う形が良いのではないかと思う。


個人的な事情をここで書けば、私は長年学習性無力感に苛まれていた。
それは周囲の環境からの強制性が起因となる。
それはお前の根性が足りないのだろう? と言うご指摘があるかもしれないが、当時小学1年生の私がそれに対抗できるような利発さを持てただろうか? あるいは小学一年の子供はそういうものを標準装備しているのか? 私はそうは思わない。

構造としては

他者に矯正する周辺社会
 ┗自他の起因によって発生した抜け出せない学習性無力感
  ┗苛まれ悩む自分

と言うものになって、ここからは対抗も出来ないし、進捗もしないので、新たな構造的枠組みを認識し直す必要がある。
下記の(a)から(b)へ。

世界
 ┗(a)他者に矯正する周辺社会
 ┣┗自他の起因によって発生した抜け出せない学習性無力感
 ┣ ┗苛まれ悩む自分
 ┗(b)自己が周辺社会を利用できる社会
  ┗内発性を発露できる社会
   ┗実態としてのリードできる現実、実現する現実




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