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シャーマンは熊になる・・中沢新一「熊から王へ」(3)

2012-06-10 | 野生の思考・社会・脱原発


ちょっと更新が滞ってしまいましたが、まだ続きます。


中沢新一氏の「熊から王へ」を読んでみました。

熊とは自然の力を、王とは社会の力を現していると思われます。

しかし、人間は熊になることもできるし、熊はまた自然界の王でもあります。

人間と熊を分かつものは何なのか、そして人間と熊を結んでいるものは何なのか。

大変興味深い考察が述べられています。


リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


           *****

        (引用ここから)


はじまりの意識は、世界を詩のようにして、とらえています。

そのことは、「有用性」を大事なものとしだすと、たちまち見えなくなってしまいます。

しかし、心を澄ませてもう一度世界を見つめ直してみると、私たちにだって、表面では分離され、孤立しているように見えるものを、現実の深い層でつなぎあわせている通低器の働きが感じとれるようになり、

世界が一つの全体として呼吸しているようすをとらえることができるようになるでしょう。

フランスの詩人が言ったように、まさに世界は「象徴の森」なのです。


神話の思考も、比喩の能力をフルに活用しています。

それによって、神話は詩の場合以上に雄大な哲学的意図をもって、この世界を「象徴の森」につくりかえようとするのです。

現実の表層では、人間は熊を追い、殺して、その体から毛皮と肉を採って、自分達を養おうとしています。


ところが現実の「詩的な層」では別のことがおこっている、と神話は語ります。

偉大な自然の首長である熊が、気に入っている自分の友人である人間に、気前よく毛皮と肉を贈り物として与えてくれようとしているというのが、現実の「詩的な層」でおこっている事実なのだ、と神話は言うのです。


熊が人間と一つにつながっている世界の「詩的な層」においては、日常の意識が捉えているものとは別の過程が進行していて、その層に踏み込んでみると、動物も植物も鉱物も水も風も、ありとあらゆるものが一つの全体性を呼吸しているのが理解され、

残酷と友愛が同居し、現実性と詩とが結びあいながら、「贈与の霊」がその全体性を動かしている様子をありありと実感されているのがわかります。

「神話的思考」はこのようにして、現生人類の脳におこった飛躍の瞬間の記憶を今に留めているわけです。

それは人類におこった最大の革命の生きたモニュメントです。


熊は自然界の偉大な治癒者でした。

そのために熊はシャーマンであり、シャーマンは熊であるとも考えていたのです。


北方の世界には、シャーマンと呼ばれる特殊な能力をもった人々が、かつてはたくさん活躍していました。

シャーマンになるための訓練はとても厳しいものだったといいます。

シャーマンになるための試練は、冬眠する冬の熊の行動様式にとてもよく似た手順を辿ります。

シャーマン志願者は、“冬の熊のように”ものも食べず、飢えと寒さに耐えながら、“冬眠”・・生きているのか死んでいるのかさえ定かでない精神の状態の中に留まらなければなりません。

そのやり方はシベリアやアメリカインディアンの世界の、文化や社会の構造の違う場所でも、ほとんど同じスタイルで行われています。

同じやり方は仏教やイスラムの神秘主義的な伝統がおこなわれているところでも踏襲されているのです。


この普遍性は、いったいどこからくるのでしょう?

わたしはそれがきわめて古い、おそらくは旧石器時代以来の伝統につながっているのだろうと推測しています。


シャーマンは「熊になる」ことのできる人間なのです。

実際にシャーマンたちは熊の毛皮を全身に身にまとって、人前で踊ることさえありました。


この時シャーマンは動物霊の領域に足を踏み込んでいます。

それは普通の思考では追いついていくことも、捉えることも出来ないような、力や速さでできている領域ですので、日常生活にとってはとても危険な領域であるともいえます。

シャーマンの持っている特別な力とは、普通の人間には近付くこともできない自然の力の源泉に、身をもって触れることができることからもたらされたものです。

シャーマンは、とても矛盾をはらんだ存在です。

彼らは「熊」になる能力を身につけることによって、「自然」の奥に潜む力の源泉に触れるのですが、そこからほんの一歩を外に踏み出すだけで、

今度は熊たちが守っている「自然」の柔らかく優しい体を引き裂いてしまう力を持った、高エネルギーの状態をひっぱりだしてしまうような、危険な存在に早変わりしてしまいます。


現代の世界をつくりあげたのは技術の力です。

またそれを破壊することさえできるのも、技術の力です。

現代世界はこういう技術を手に入れたのはいいですが、それをコントロールできなくなっています。

そういう人類にとっての“大問題の発生する臨界点のような場所”に、シャーマンという存在は立っていると言えます。


シャーマンは「自然」の力の秘密を知っています。

そういうシャーマンは、人々の暮らしからは離れている必要があったでしょう。

日常生活は別の原理によって成り立っていないと、シャーマンが身に帯びている危険な力は、人間の「社会」の内部に侵入してきて、そこに危機を作りだしかねないからです。

シャーマンはどんなにすぐれた能力をもっていても、そういう「社会」ではいつも周辺部にいて、社会的な「権力」の中心に近づくことは出来ないようになっていました。


では、「対称性社会」の智恵に選ばれ、その中心部にいたのはいったいどんなタイプの人達だったのでしょうか?

「首長」とよばれている人たちがそれに当たります。

シャーマンと「首長」は、いろいろな点で対立する存在です。

シャーマンは人々の暮らしから離れて、人間の能力の限界を超えようとしている人々です。

人間の限界の外と言えば、それは「自然」の奥にひそむ力のことを指していますから、シャーマンを支えている力の源泉は、「自然」の内にあると言えます。

これに対して、人々と一緒に暮らしながらみんなが抱える問題を解決に導こうとするのが、「首長」なのです。

「首長」はむしろ「自然」に対立する「文化」の原理を、自分のよりどころとしていますので、シャーマンや戦士のように流動性あふれる力の領域に踏み込んでいくことを避けて、「文化」を成り立たせている規則や良識にしたがって、「社会」を平和に保とうとしています。

人類学の研究がすすんで、新石器時代の思考法をつい最近まで保ち続けてきた社会についてのたくさんの正確な情報がもたらされるようになって以来、こうした社会の「政治」がどのように行われていたのかがよくわかってきました。

それまでは多くの人は、そういう社会の政治には理不尽や非合理がまかり通り、呪術師や占い師のご託宣によって、事が決められていたかのように考えていましたが、

実際には意外なほどに 「民主的」な方法によって、政治が行われていたらしいことが分かってきたのです。

この「社会」のリーダーは、思考のレベルでも現実の生活の場面でも、「対象性」を保ち続けようとする、およそ政治権力などをもたない「首長」と呼ばれる人物で、

この人物は人々に強制するのではなく、むしろ「全員一致 」を原則として、気長な交渉を行いながら、力や緊張の偏りを社会から取り除いていこうとしていました。

「首長」にはたしかにある種の「威信」というものがありましたが、それは「首長」が何かの力を行使できるからという理由で得られたのではなく、自己の利害を離れて、不偏不党の立場に立つ事が出来る「正しい心」の持ち主であることから、もたらされるのです。


しかし、首長によるそういう調停が、いつでも成功するとは限りません。

そうなると首長には手のほどこしようがなくなります。

最悪な場合には部族間の戦争が発生してしまいます。

その時には、「首長」とは別の人物「戦士」が戦争のリーダーに選ばれて、男達を率いて戦争に出かけるのです。

戦時のリーダーには「首長」の政治原則とは違う原理によって活動をおこなう別の人物が立ち、二つのタイプのリーダーは完全に分離されるというのが、こういう社会では一般的なのでした。

「戦士」のリーダーは実際的な勇気と判断力によって評価され、文化を成り立たせている言葉の原理よりも、「自然」の力とわたりあう狩人と同じように、流動的な力を取り扱っていくために、技術の原理の方を重視します。

しかしその戦いが終われば、たちまちにしてこの戦士のリーダーは任務を解かれて後ろに引っ込んで、再び平和時の「首長」が元の場所に戻ってきます。

「対象性」の社会では、この二つのタイプのリーダーは画然と分離されているのが普通の在り方です。

こうして平和が保たれている限り、社会は「首長」の行動様式に代表されるような「理性」によって運営されることになります。

 
          (引用ここまで)


           *****

wikipedia「シャーマニズム」より

シャーマニズムとは、シャーマン(巫師・祈祷師)の能力により成立している宗教や宗教現象の総称であり、宗教学、民俗学、人類学(宗教人類学、文化人類学)等々で用いられている用語・概念である。巫術などと表記されることもある。



シャーマンとはトランス状態に入って超自然的存在(霊、神霊、精霊、死霊など)と交信する現象を起こすとされる職能・人物のことである。

「シャーマン」という用語・概念は、ツングース語で呪術師の一種を指す「醇}aman, シャマン」に由来し、19世紀以降に民俗学者や旅行家(探検家)たちによって、極北や北アジアの呪術あるいは宗教的職能者一般を呼ぶために用いられるようになり、その後に宗教学、民俗学、人類学などの学問領域でも類似現象を指すための用語(学術用語)として用いられるようになったものである。

シャーマニズムという用語で、上記の現象自体に加えて、その現象に基づく思想を呼ぶこともある(ミルチャ・エリアーデなど)。

広義には地域を問わず同様の宗教、現象、思想を総合してシャーマニズムと呼ぶ。



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