未来への便り アドバンス

学校職員を定年前に辞めました。そして株式会社を設立しました。AIを学びながらブログの記事をアップします。

夏の家庭教師の思い出

2007年07月19日 23時34分36秒 |      +ブログ
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 鹿児島から東京の大学に進んだ私は、それまで受験勉強に明け暮れていたので、アルバイトということをしたことがなかったが、大学に入ってすぐに歯医者さんの息子のアルバイトを頼まれた。ちょっとした知り合いの家で、奥さんは料理研究家の副業を持つくらいに料理の上手な人で、おそらく、鹿児島から出て下宿ずまいの私のことを心配して息子の家庭教師を口実に家に呼んでくれていたのだろう。その息子は、柔道をやっていて、練習を終えて帰宅する頃にはへとへとで勉強どころではなかった。睡魔と戦いながら、必死で問題を解くのだが、こちらが申し訳なくなるくらい眠そうであった。いまでなら、おもしろい話の一つでもして、目をあけさせるくらいはできるだろうが、鹿児島から出てきたばかりの青年には無理な話だった。申しわけなく思いながら奥さんの作ってくれる料理をいただいて帰るのであった。

 さて、初めての夏休み。初めての帰省になるので休みになるのを待ってすぐに帰 省。

 帰ってすぐにアルバイトを探した。家庭教師は割りのいいバイトだったし、そこそこの受験校の出身だったので、すぐに家庭教師先はみつかった。掛け持ちで二つのバイトをこなし、家庭教師にも自信を持つようになっていた。そして、東京に戻っても先輩の紹介で、これまた社長の令息を教えた。

 そして、2年目の夏、また鹿児島に帰ったが、好事魔多しの例えの通り、家庭教師に自信を持ちかけていたときに、とびこんできたのが、中学3年生の女の子。あまりおりこうさんではないのだが、妙に肉感的な子だった。父の職場の同僚の娘さんで、両親は共働き。彼女の待つ家に中古で買ったホンダのカブで出かけていくのである。夏である、熱いので薄着の上、中3といえば妙な色気のある年頃。必死で数学と英語を教えながらも、彼女の頭の中に入っていってないという無力と色気と戦いながらの2時間はきつかった。

 いまでも、その時のことを思い出すくらいだから、相当強烈だったのだ。おそらく父の知り合いの娘さんでなかったらどうなっていたことか…。

 それで思い出したことがある。夏ではないが、高校3年生の女の子を塾で個別指導したことがある。数学を教えていたのだが、どういうわけか、家までバイクで送っていくことになった。背中に彼女を乗せて家まで行った。その時の背中の感触を思い出したのであるが、なぜ、そのような状況になったのかは思い出せない。その後大学生になった彼女と一度だけデートしたことがあったが、それはそれっきりだった。

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さてpingoo! そろそろping先登録を始めよう!

2007年07月19日 22時31分03秒 | PCネタ-ハードウェア
とりあえず登録するだけで18か所のpingサーバーには更新を通知してくれるpingoo!はアクセス数のアップを目指す私にはありがたいサービスだが、本当にそれだけでいいのかということを考え始めた。

確かに更新するとアクセスは前の倍になった。ということは倍のpingサーバーを登録すれば倍近くのアクセスが期待できるかもしれない。有力なpingサーバーは18でカバーできているとしても、小さなpingサーバーも数を集めれば結構なアクセスを集めることができるはずだ。

明日から実行することにしようっと。

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たったの27歳でアフィリエイトで成功し夢の沖縄移住を果たし、セミリタイアしたこの人を紹介します。

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遅い就職

2007年07月19日 22時25分07秒 |      +ブログ
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実ははじめて就職したのは42歳の時、24歳じゃないよ。42歳。それから10年が経ったわけだ。しみじみ。

なぜに就職が遅かったというと、大学を出るあたりから自分で事務所を持ち、いろいろな雑誌の立ち上げを手伝っていたのである。大学を出るころはバブルのはるか以前だったが、それでも日本経済は力強い成長をしていて、結構、企画屋のようなことで個人事務所を持っていて、やっていけた。屋号の前に「発想をかたちカタチに」というキャッチをつけて、とにかく、思いついたものを目に見える形にしようと必死にやった。それは、それで面白かったし、大学時代にのめりこんだ大学新聞のノリでやっていた。

当然バブルの時は、絶好調で、考えたことを企画書にするとすぐに形になるので怖くもあった。バブルがはじける直前は、これでいいのかと思い始めていた。

しかし、バブルがはじけてしばらくは、それでもよかったが、いわゆる失われた10年といわれる頃の最後の方は、さすがに仕事がないという状態にはまった。

それでも、自分の企画力を信じて、いろいろとやってみたが、だめ。30歳も後半になり、身も固めねばと結婚。そして長男誕生。

やっと父親の自覚が出てきて、同窓会に出た妻が、そこで私のことを話したらしく、母校の募集広報の仕事を頼まれてきた。はじめは外から手伝うつもりでいたが、なぜかそのまま就職することとなった。これが私の遅い就職体験である。

自由にやってきただけに組織のしきたりには戸惑うこともあったが、なんとか10年を越すことができた。

これから、あと10数年。サラリーマンとして過ごすことになるのかな。
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