松尾清晴オートバイ夢ひとり旅・世界走行中・5年10ヶ月・102ヶ国(訪問111カ国)・28万km走破・総集編

2000年10月~2008年11月まで5年10ヶ月・102カ国(訪問111カ国)1500ccで28万km走破

葉隠れフォーラム・・・嘉村 孝 氏 主催

2013年05月21日 | お知らせです
Ⅰ 日時 平成25年5月24日(金)午後4時30分(会費500円)
Ⅱ 場所 〒102-0032中央区八丁堀2-14-4ヤブ原ビル 
℡03-3551-9335 株式会社アヅマ 3階会議室
(1階右側のエレベーターより3階。左側エレベーター4階より3階へ)

Ⅲ 今回のテーマ「三国志的戦いと葉隠」

Ⅳ 前回のご報告と今回への取り組み

前回は、「伊達政宗と葉隠、遣欧使節」と題してお話ししました。

伊達政宗は、文禄・慶長の役に伴い、唐津近郊の名護屋城に彼がやってきたことなど、葉隠とも様々な関わりがあります。名護屋城の城門が戦のあと仙台に運ばれて、第二次世界大戦の末期に爆撃によって焼失するまでは仙台城大手門として使われていたことも、その関わりの1つです。

葉隠の中には、例えばこんな話があります。伊達政宗がその頬を打った相手・兼松又七郎を「日本に隠れなき伊達政宗の頬を打った其の方は曲者に似たる者なり」と褒めて、それを黙視した小姓を切腹させたという話しです。ところが、この話し、もう少し詳しく書いてあるものとして「見聞談叢」があり、そこでは、単純に兼松又四郎(葉隠では「又七郎」)が頬を打ったのを、小姓が黙視したという話しではなくて、内藤左馬介の邸で能狂言の催しがあるときに、政宗も招かれ、つい臨席にいた兼松の膝頭を政宗が蹴ったことによって、兼松がその無礼に憤り、政宗の肩頭を後方から三つ、四つ打ったこと、それに対して政宗が「卑怯なり。それほど腹が立つのならどうして早く切らなかったのか」と兼松に迫って、今にも大事となるべき形勢となり、ようやく双方なだめて仲直りの杯を交わすことになったところ、政宗がその土器の酒を飲み干して、一節舞を舞い、「打て腹だに癒るならば、いくらも打てよ兼松め」と長く引いて謡ったところ、兼松は再び憤激して、全身ぶるぶると震えて手に持った土器を思わず2つに掴み割った、という話になっています。こちらのほうがよりリアルで面白いのではないかと思います。

さて、それはそれとして、当日もっと力を入れたのは支倉常長の慶長遣欧使節でした。天正の少年遣欧使節がいわば宗教に基づくものであったのに対して、キリスト教禁止令がひたひたと押し寄せてきていたこの時期、政宗は貿易上の利益を得ようとしてそのような派遣をしたということは間違いないところでしょう。

政宗がローマ教皇に宛てた文書、その他セビリアの主教に宛てた文書など沢山残っており、特にローマ教皇に宛てたものは非常に面白いものです。貿易のためならばローマ教皇に膝を屈してでもどころか、「五番目之はっは・はうろ(パッパ・パウロ)様の御足を、於日本奥州の屋形伊達政宗、謹而奉吸申上候。」などと、何が何でも貿易を始めたいという意志が極めて強く出ています。180人もの人間を送るような大事業をどうしてしたのか、またそのための土木事業として貞山堀を作ったり、月の浦を整備したことの理由についてはいろんな説があって、最近新幹線に乗ったところ、「1616年に起きた地震の復興資金を集める為」などというものも出てはいましたが、やはりもっと大きく見なければいけないと思います。

これで幕府を潰そうとまでは考えていなかったとしても、西の佐賀までやってきて松浦や長崎方面の国際的大名がポルトガルらとの交易によって相当な利益を得ていることを見た政宗は、自分は東からヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)との交易路を開いて経済的な利益を得ようとした遠大な計画だったのではないかと思う次第です。そして、このような彼の計画の背後には、ヨーロッパにおけるポルトガルとスペインのいわゆるデマルカシオン(世界分割)が大きく機能しているというのもまずは間違いないのではないかと思います。やはり当時の人間は極めてグローバルな視点を持っていたということが考えられるだけでも大変面白い話ではないでしょうか。

さて、次回(5月24日)は、葉隠の戦いと、できれば三国志、諸葛孔明の語録の話しまで検討してみたいと思います。参加の方は嘉村までご連絡ください。嘉 村  孝 (℡03-3261-5860 fax03-3264-8456 kamura@eurus.dti.ne.jp)■武士道バーチャル博物館http://hagakurebushido.jp/ ■東方からの見聞録http://kamura-lu.jp/


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