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気儘な旅人の「三文オペラ」創作ノート

「ジョンリースとBBC英国放送」の考察にあたって-(予習)・・・

2005-11-04 02:35:45 | 教養・文化・歴史
ウィキペディア・エンサイクロペディア、 (Wikipedia the free encyclopedia からの引用です)

廣淵先生の「BBC英国放送講座」の連載が始り、いいよ核心に入ってきました。 (廣淵先生のBlog、こちらから入れます・・・)
廣淵先生の魅力ある講義にはまってしまい、このところ、多大なる好奇心をもって連載記事拝読中です。
しかし、
全くもって事前の基礎知識なし・・・
(はずかしながら、過去の経験にあらざる事態となり、、、)

ならば我輩、さっそくにも
いかに不肖の「俄か聴講生」といえども、何らかの予習を致したく参考資料等入手したく思い、気ままにWeb世界を徘徊したところ、ありがたくも上記百科事典的サイトにたどり着き、さっそく「ジョン・リース伝記」に到達しました。少なからず、
幼少期、生い立ちから青年期、ならびにBBC支配人に至るまでの経緯、BBCの責任者としての創業時の「組織訓」等等、さらにBBCを去ってからの氏の活動など、項目別的レベルではあるが、資料収集できました。
となれば、
自己の予習記録の目的にて、上述参考資料により抜粋し得た「内容」を我がブログに書き留めておきたく、あくまでもメモ目的の記事として掲載いたしました。

J.リース伝記掲載に先駆け、リース氏の執ったBBC放送開始時点の「放送目的及び内容別項目」らしきアイテムがありました。
もって、創業時のターゲットを確認する上で重要な確認事項と考え、以下別途に抜粋しておきました。

Cpyright and performing rights; Marconi patents;
associations of

1. concert artists,
2. authors,
3. playwrights,
4. composers,
5. music publishers,
6. theatre managers,
7. wireless manufacturers.


以って、以下、
Wikipedhia フリー・エンサイクロペディアより、『伝記:ジョン・リース』抜粋

<抜粋本文>
John Reith, 1st Baron Reith
From Wikipedia, the free encyclopedia.
(Redirected from John Charles Walsham Reith)
Jump to: navigation, search
The Right Honourable John Charles Walsham Reith, 1st Baron Reith (July 20, 1889 - June 16, 1971),Sir John Reith (1927-), then Baron Reith (1940-) established the British tradition of independent public service broadcasting.

[edit]
Early life
Born at Stonehaven in Scotland, Reith was the youngest, by ten years, of the seven children of the Revd Dr George Reith, a minister of the Free Church of Scotland. He was to carry the religious convictions of the Free Church forward into his adult life. Reith was educated at Glasgow Academy then at Gresham's School, Holt, Norfolk. Reith was an indolent child who had used his intelligence to escape hard work but he was genuinely disappointed when his father refused to support any further education and apprenticed him an engineer at the North British Locomotive Company. Reith had been a keen sportsman at school and only learnt to tolerate his apprentiship through part-time soldiering in the 1st Lanarkshire Rifle Volunteers and 5th Scottish Rifles.

In 1914, Reith left Glasgow for London, largely in pursuit of a 17 year-old schoolboy, Charlie Bowser, on whom he appears to have formed something of a crush. Though he readily found work at the Royal Albert Dock, his commission in the 5th Scottish Rifles soon found him serving in World War I, being invalided out when struck in the cheek by a bullet in October 1915. He spent the next two years in the USA, supervising armament contracts, and became attracted to the country, fantasising of moving there with Bowser after the war.

On his return to the UK, Reith and Bowser both fell in love with Muriel Odhams. Reith won Muriel's hand but warned her that she must share me with C. He sought to redress the asymmetry by finding a partner for Bowser but Reith's subsequent jealousy interrupted the men's frienship, much to Reith's pain.

However, the end of the war saw a reconcilliation, with Reith's return to Glasgow as General Manager of an engineering firm and Bowser becoming his assistant. But the lure of London proved too much for Reith and in 1922, he again set out for the capital. Dabbling in politics, despite his family's Liberal Party sympathies, he ended up working as secretary to the London Unionist group of MPs in the United Kingdom general election, 1922. Perhaps prophetically, that election was the first whose results were broadcast by radio.

[edit]
The BBC
On December 14, 1922 Reith became the general manager of the British Broadcasting Company, an organisation formed by manufacturers to provide broadcasts to foster demand for wireless sets. In his own words he was:

... confronted with problems of which I had no experience: Copyright and performing rights; Marconi patents; associations of concert artists, authors, playwrights, composers, music publishers, theatre managers, wireless manufacturers.
Reith oversaw the vesting of the company in a new organisation, the BBC, formed under royal charter and became its first Director-General from January 1, 1927 to June 30, 1938.

He expounded firm principles of centralised, all-encompassing radio broadcasting, stressing programming standards and moral tone. To this day, the BBC claims to follow the Reithian directive to "inform, educate and entertain".

The first regular television broadcasts (November 1936 to September 1939) started under Reith's stewardship.

[edit]
Later life
After leaving the BBC in 1938, he became chairman of Imperial Airways. In 1940 Reith was appointed Minister of Information in the government of Neville Chamberlain. So as to perform his full duties he became a Member of Parliament for Southampton. When Chamberlain fell and Churchill became Prime Minister his long running feud with Reith led to the latter being moved to the Ministry of Transport. He was subsequently moved to become First Commissioner of Works which he held for the next two years, through two restructurings of the job, and was also transferred to the House of Lords.

The BBC Reith Lectures commemorate Lord Reith.

<以上、本文抜粋終了>
 (ジョンリース関連の記事連載します)

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<写真>晩秋の富士東山麓を望む
    撮影日:2004年11月上旬


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6 Comments

コメント日が  古い順  |   新しい順
予習とは見上げたお心構えです。 (悠々)
2005-11-04 09:16:22
BBC講座の予習とは、恐れ入りました。

私は勉強嫌いですから勉強というものは学校内でのみするものと決め込んで、予習復習は一切しない人間でしたから、バロン様のお心掛けには、敬服いたします。

お探しの上、転載して下さったので、生い立ちからの諸々、ざっとですが読ませて頂きました。

これで、廣淵先生の「BBC英国放送講座」の受講準備は万全?です。

有り難う御座いました。

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人生、恥ずかしきことのみ多かりき・・・ (エセ男爵)
2005-11-05 11:53:46
あらためて「宿題」が覆いかぶさって来たにも関わらず、暇でもない暇を捻出し、ダンディーをモットーとしての「予習」など、、、。

笑いが止まらない!と、おっしゃる読者も多々おられる事か?



本来の我輩、怠け者にして足元の定まらない股旅者・・・



想えば遠く、山田洋次監督&わが師・渥美清先生の「名コンビ」織成す「男はつらいよ」の世界!

即ち、我が人生、車寅次郎先生を地で往きたく覚悟を決めているからには、時に「寅さん的美学」を以ってする・・・

我が残りの人生如何にと問われれば「そんな程度」、されば本気で、根元からの二枚目風真打三枚目に徹しよう!と、励み始めた今日この頃、、、。

当記事など投稿してしまえば、いともはずかしきことのみ多かりき・・・



「・・・?」

「渡世人として、未だ修行が足りません・・・」

「・・・!!」

「車寅次郎先生、お許し下さい・・・」

「・・・」

「恐れ入ります。ありがとうございます」



「注釈-1」:(すでに御承知おきかと思いますが)このコメント上の「車寅次郎」は、優先輩の配役ではありませんので、くれぐれも誤解なきよう願います。尚、車先生は我が心の中にありて、別人格として「キープ・熟成」致したきキャラクターなのです。
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柴又は 私のテリトリーでした。 (悠々)
2005-11-07 11:51:46
先日山梨の明野から真鶴へ抜けるのに、御殿場を通ろうかと思ったのですが、バロンさんのお庭先を通ることになるかと思い、不敬に当たっていけないと、白糸の滝廻りで御殿場は迂回しました。

バロンさんがどのあたりにご棲息されているのは存じ上げませんがもしやあの辺りでは?なんて推量をした物ですから。

柴又は住いからも職場からも至近の場所で、寅さんセンターなんかの建設に危うく携わりそうな気配があったから、一目散に逃げ出したこともありました。

明日の夜から三宅島に出掛けます。

友人宅訪問です。職場の先輩でもあり独居老人なので

ご機嫌伺いです。

良い釣りが出来たら言うこと無しですが、電話したらあまり釣果は良くないそうです。

返信する
お寄りいただいて感謝感謝です (地蔵庵)
2005-11-07 19:07:47
身にあまるお言葉を頂き返事のしょうがありません。

私は他人と比べての価値観より、自分の心に聞いた価値観の方を優先して

ものを書いてますので、世間の常識とは、かけはなれた部分もあるかと思います。

私の近況は風呂にも入らず一心にパソコンに向かって仕事に打ち込む

問題点は遠慮もなしに指摘して、飯はといえば詰め込むだけの事

時間は関わりなく過ぎ、いつも焦燥感で胸が詰まる思いをしてます。

そんな反面心の中にしまってある、弱い自分がもがきだす

あぁ何がくやしいかと言うと

今わたしがここにいる時

あの地では

時間がそれはもう贅沢に進み

海で戯れる子供達に大人気なく嫉妬したりします

今度生まれたらこの都会は知らないままに死んでいきたいとか

人生を真っ二つに切って、

裏と表を生きるてみたいとか。

弱音を少し漏らしてまた机に向かう日常です。

そんな私が書くブログです。

エセ男爵さんに読んでいただけるだけで大変励みになります。

お閑な時にまたお寄りください。
返信する
葛飾柴又は・・・ (エセ男爵)
2005-11-08 20:50:34
悠先輩お関わりの『地域』であったとは、。。

寅さんセンターなるもの、悠先輩は「関わり」から回避されたとの事、先輩の回避理由のほどは、さだかではありません。が、なぜか、正解なるご判断をなされたのではないか、と推察いたします。

そういえば我輩、いまだに車寅次郎先生発祥の地には、一度も立ち寄っていません。

なぜか、このまま放置しては、いかにも不敬なり!

来春あたり是非一度足を運びたいと思います。

寅さんセンターなるもの、事後的且つ人的に造作された俄か博物館にはさほど興味なく、矢切の渡しの地点確認及び帝釈天さまに一度お参りを、、、。等と、いかにも「・・・」にて単純なる行動計画を描いている次第であります。現在、NHKBS2の48回シリーズと銘打って毎週土曜日に「寅さん映画」を放映中。こうして年を重ねた現在、なぜかこの映画の観方、角度、受け止め方など、自分自身にて内部変化を起こしているから面白いのです。したがってついついブログのコメントなどに、車先生を引き合いに出した表現になるのでして、お許し下さい。



御殿場界隈は、生来の棲息地ではありませんで、不定期季節労働者として駆出され、立ち去り、又舞い戻る。最近になって、なぜか愛着を持ちはじめた不思議なる地帯なのです。



ところでなんと、また小旅行ですと。今度は三宅島。

先輩を訪ねられるとか、、、。

もう既に三宅島ご滞在中でしょうか。

このところ関東いちえんの天候不順、三宅島界隈はどうなっているのでしょうか、心配です。

道中くれぐれもお気を付け下さい。
返信する
地蔵庵さん (エセ男爵)
2005-11-08 21:19:29
コメント、たいへんありがとうございます。



ところでさっそく、



ムム!・・・



>自分の心に聞いた価値観・・・



上記、地蔵庵さんから頂いたコメント全文、何度も読み返しました。そして、中でも上記一節が印象深く、今尚自問自答しつつも地蔵庵さんの「ご心境」を窺い知ろうと思い立ち、ますます回転の遅くなった我が頭脳神経中枢内に各種信号を送ったり受け取ったり、思考を駆け巡らせているところです。



そして、

想いますに、

「世の中の常識からかけ離れる・・・」

大いに結構であると思います。

今や、世の中の常識たるや常識ではなく、

時間に関わり無く、自己の時間管理の中に自己を見出す事には大賛成ですし、

大切な自己確立のために過ぎ去る時間の経過には、なんら損失は無く、目一杯の時間をかけられ、考え、悩み、もがき、苦しみ、葛藤されてこそ、

真の「人間」のあるべき姿であり、加えて、能力ある将来ある「若者の特権」であると思うのです。

まずは自分自身との格闘からはじまり、時間の経過をものともせず、納得往くまで追及し尽くす。ある時、気が付けば、過去より現在の自分自身の成長に気付かれるはず。

人生、自分自身との葛藤・闘争・競争の繰り返しではないかと思うのです。

昨日の自分と比較し、今日の自分が克つ事、かっているkとの確認が出来れば、これが一番の幸せか。過去の自分に克ってこそ、明日のみずからが開け、歩むべき方角と道が、観えて来るのではないでしょうか。

そんな自分との葛藤は、いずれかに照らし合わせ表現されなければ、進歩も成長も見えてこない。あるいは、ぶつける対象物が無ければ反応無く、自覚症状も、無い。痛みなのか快感なのか?分らない。

地蔵庵さんの表現手段は、執筆・・・

パソコンに向かって作業、即ち執筆、

執筆を以って表現する。

表現し発信したものがどこかにぶつかり、反射された他からの反応を受ける・・・

反応に対し、さらに反応する・・・

密度の濃い「生き方」をなさってらっしゃるのだ。

まず、もういちど大拍手!

そして、これからもエールを送り続けさせて頂きます。
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