再投稿記事<2004年5月4日より転記>
===================================================
思い出日記より:2004年11月中旬
確か一週間ほど前でした。
夕食抜きで、予定より早く仕事を終え、久しぶりにサントリーモルツの500ml缶ビールを抜き、あらかじめキッチンで作らせた夜食(仔牛頬肉のビーフシチュー)で一人宴会、すなわち一人で一杯やる事にしました。
そこで、平素あまり観ないテレビのスイッチを無意識にオンしたところ、興味深い番組に遭遇しました。番組はすでに進行途中でしたが、画像と音声が飛び込んできた瞬間、まさに自分の興味をそそるものと判断できました。
おそらく再放送番組なのでしょうが、我輩にとって初めての番組でした。
NHK・BS放送で「人類の起源?」らしき内容について放映している番組を約20分間集中し、その間、缶ビールも夜食も忘れていました。
人間誕生は?まず、地球上の生物の起源から進化し、なぜ?どのようにして現在の人間にまで至ったのか?こんなストーリーの最終段階を観たのです。
興味深く切り取った内容は下記の通りです。
1) 猿は、未だこの地球上に歴然と存在する。どこで人間と猿が分岐したか?
2) 大枠としての猿の類(たぐい)から枝が分かれ、さらに人類へと、すなわち「ホモサピエンス」が発生する過程で、同時進行的に「ネアンデルタール人」が主として現在のヨーロッパ地域に存在した。が、明らかに現在の人類=ホモサピエンスとの進化の過程に存在したものではない。(ホモサピエンスと時期を同じくして、別種類に区分されるネアンデルタール人が存在していた、と云う、、、)
3) 現在の人類より異なる種類のネアンデルタール人は既に過去の歴史の過程で滅び去り、現存しない種となっている。例えれば、現在の「象」と、化石として冷凍ミイラとして発見発掘される「マンモス」とは、異なる種類の生物である。象とマンモスが同類別種であるように、ネアンデルタール人と現代人の祖先(ホモサピエンス)は同類別種である、と云う。
ここでストーリーは、第二段階に移る。
* ネアンデルタール人は滅び去ったが、何故、ホモサピエンスは現存するか?現存して今日に至ったか?
という番組のあらたな問いに対し、番組が答える、、、。
おおよそ下記のような内容でした。
(A) ネアンデルタール人の咽喉部の化石と現存する猿のそれがほぼ同じであるが、
(B) 現人類の祖先=ホモサピエンスの咽喉部ならびに現存する人類の骨の咽喉部の形態と、上記(猿やネアンデルタール人)のそれを比較すれば大いに異なっており、
(C) ホモサピエンスの化石の咽喉部形態なればこそ、ホモサピエンスの末裔である現在の人類が、言葉を操れる形態になっている。結果、さかのぼって今の人類の祖先はおのずと咽喉部で発せられる音声により、言語表現可能となり、
(D) 言語を操るが故、以って比較的他の動物より体力攻撃力の少ない人類が生きていく為の「団体共同生活」を可能にし、今日まで生き残った。しかし、ホモサピエンスより体格がよく生存競争力が高いと思わるネアンデルタール人は、その咽喉部の不出来により、言語となりうる音声が発せられなかった。その事が原因で滅亡したとしか考えられないという。生き残った人類は、音声の相互交換を以って「経験・発明・知恵」を周囲に伝達し、且つ、次世代に先達のそれらを伝授し、さらにより高度の技術と知識を構築できたことにより、現在に至り、
(E) 加えて地球上のあらゆる「生物」に抜きんじて高度な生物に到達するを可能とした。
という内容になる。で、あろう。
そんなストーリーを勝手に想像しながら観ていたら、何と、わずか数十分の間にビールを飲み干しただけで夜食を食さず、うたた寝しまいました。肝心要の結論を見ずして、目が覚めた時には、すでにその番組が終わってしまっていたのです。
ここからは後日からの想像も加わります。が、お聞き下さい。
つまり、上述の人類起源から今日に至るまで、他の動植物と違う人類の特性は「音声言語」による相互伝達能力である事、あらためて認識しました。
人間の音声表現能力がさらなる発展進化を重ねることにより、音声を文字にあらわし後世に伝達可能としたのか。あるいはより遠距離に位置する近隣の人間集団から更なる情報の伝播を可能とし、地球世界に生存する同時代の人類に伝達可能となったのでありましょう。
すなわち、(我輩、言語学の専門分野における全くの素人ですが)音声言語イコール、人類同士の会話による意見交換と伝達=文字による伝達=文字による伝承、イコール、文字による自己表現(宗教・技術・科学・思想・政治・芸術などなど、、、)であるか、と。
さて、想いおこせば近年、特にこの十数年間、世の中が急速に様変わりしました。
知識経験体験の蓄積の努力無く、まともな言葉(日本語)がろくすっぽしゃべれない「人達」が五万といて、彼ら、ただ単に日常会話レベルの感覚で持って指先でワープロのキーを叩くことにより、簡単に「文字表現と伝達」が可能となりました。
これにより、
文字による安易安直な、暴言・失言・誤解・思い上がり・下種(ゲス)な感情表現・などなど、文字表記可能となりました。ことにIT技術の驚異的発明に次ぐ発明、進歩に次ぐ躍進のおかげで、国境を飛び越え地球表面のあらゆる地域へ文字情報があふれ返し、くわえて時間時差を超越し、瞬時に情報拡散してしまう状況下、超利便性を裏返せば、文字乱用による、予測していなかった弊害も数多く発生しているのではなかろうかと思います。
文字を使い切るには、
1) まず使う人間のレベル人生の知識蓄積、および経験的体験ありき、であり、その密度の違いが「文字使用結果のグレード」を左右するのは明らかであり、
2) 次に、確たる「証」を踏まえた言語表現あってこそ、それをより緻密に組立て、さらにより広範囲な世界に、あるいは次世代や異世代に継承伝達の目的で「文字表現」があり、
3) ために、他人の表現したものを、まず「読み」、健全で確かな解釈をおこない、
4) ようやく自らの「判断・志向」を文字に表すことが可能となり、
5) しかる後に、誠意と熱意をもって相手に「それ」を伝える、、、。これをくり返し、互いに切磋琢磨する。
6) 文字による伝達方法、その頂点?(いや、一番下か?)に立つものが「小説」かな?
等と、
整理してみました。
今、あらためて、
a) 仕事を通して現場を見る、
b) 書籍としての「先達の知識」を紐解き、自身の経験と体験にソレを織り込み、
c) 自身の通読努力の度に、先達の豊かで繊細にして鋭い「表現方法」に触れ、触り、消化したい。
d) 読書の繰り返しを以って、さらに精度と芸術性に秀でた自己表現可能となるよう、役立てる。
報告文書・稟議・専門的分野の小論文など、相手に分りやすい精緻にして理論構築の完璧な文章ができればそれ以上のものは無い、十分である、と考える。
しかし、文学となるとそれ以上のモノを求められる。が、好き嫌いもある。当然である。
結果、今、今から、
小説を書いてみたい!
という意欲に駆られています。
たたみ掛けますが、
語学としての英語の世界も同じことです。
巷で、よく取り交わされている日本の平均的一般常識人(知識人?)の会話の中に、
「うん、相手の話していることは聞き取れ、そうさな~・・・ 約7割程度は理解できる、が、喋り慣れていないので、喋れないよな~」
又は、
「いやいや、読み書きはできるが、会話は慣れていないからね~ 日本人だよな、俺は、、、。ま、今からでも遅くはねえさ。アメリカ駐在2~3年でもやってりゃ~、な、大丈夫さ、、、。何せ、俺たち日本人はな、大学卒業して、一応読み書きができるわけでさ、基礎は出来上てるからよ~」
こんな会社人間同士の会話、全て、英語力(語学力)に関する見栄の突っ張りあいでして、嘘八百です。今の学校教育では、基礎が全くできていないのです。今から文部省がどうするのか、知りません。好きにやっていただいてけっこうですが、お役人のセンスで一億?総日本国民の教育のみで「事態」に大きな変化は、まず無いと思います。
我輩、まだまだ未熟にして未熟ですが、経験上、
第一に:喋ること(会話ではなく)、自分が音声として英語を発すること。これが一番簡単です。相手に通ずるか?通じないか?は、別として、、、。
第二に:相手の話を聞き取ること、そうとう難しいです。狭い日本の端から端まで「方言だらけ」のように、また年齢によって、男女性別や職業の別など、棲む世界の違いによって、百人百色、人はそれぞれ話し方、テンポ、音質(高い声や低い声)の違いがあり、初めて会った人の会話は聞き取りにくく、慣れてしまえばどうって事はなくなります。
英語世界であっても、人それぞれ、喋り方に特徴があり、(小生の場合は特に)初めて会った人との会話の聞き取りは大変苦手であります。しかし慣れる。分らなければ聞き返し、こちらの伝えること、何度もリピートでき、表情や体のアクションで伝達をより緻密に行うこと可能です。
第三に:表紙が擦り切れるまでに辞書を気に引きまくり、読んで読んで読みまくること。これ、「砂を噛む」如くに苦行です。英文を読めば読むほど大変難しく、際限なく「読むこと」を継続し、文体を蓄積し、日本語と同じように(母国語ですら読めない御仁が多い中)過去に出てきた表現の形、語彙の蓄積のボリュームを基盤にもつ以外、何も解決方法はありません。すなわち読解は難解です。
第四に:加えて、自分が自分で「英文を書く」事、最も難題です。
これはすなわち、母国語である日本語に置き換えても、同じ『事象』が起きるのは、科学的に当然ではありませんか。
いま、小説を創作したく、小説を書けば(必ずや)他人様に読んでもらいたい。ソレが目的であるから、、、、。世の中の人間全員に読んでほしいとは、決して思っていません。確率的に全く不可能です。ですから、一部の人に読んでもらえば結構です。
なぜなら、
熟達したものも未熟者も「物書きになりたい人間」を嗜好した途端、「自己顕示欲」に駆られるわけであります。自己顕示欲がどこかに潜んでいるから、ソレを「自分の著作した物」で自己表現したいのです。
<・・・完・・・>
今後いかなる時間がかかっても「物書きプロ」にならねば、、、
そのため、日々絶え間なく「修練」が必要であると確信します。
<以下、不肖エセ男爵の私的なる広報記事なり!>
ブログ全国区ランキング(Blog.with2)に参加しています。ランキングアップにご協力いただく為、下記バナーをクリック願います。
*人気ブログランキング参加中!人気blogランキングへ
<添付画像>:ロード・オブ・ザ・リング/二つの塔
THE LORD OF THE RINGS:THE TWO TOWERS
(ご承知のとおり、この物語は想像上の世界ですが、おおむかしのヨーロッパ世界の言語の違い、(日本人には同じに見える)ヨーロッパ人種の微細な違い、口頭伝承による「記述歴史」以前の「神話世界」に手を届かせて創作されたすばらしい「エンターテインメント文学」を原作とし、映画化するための脚本と演出は優秀で、さらにIT技術を駆使して創作された超優秀映画です。日本の業界も、それなりの人材がいるのですからもっとこういう文化芸術に投資し、さらにがんばって日本発の優秀作品を制作してほしいな。
===================================================
思い出日記より:2004年11月中旬
確か一週間ほど前でした。
夕食抜きで、予定より早く仕事を終え、久しぶりにサントリーモルツの500ml缶ビールを抜き、あらかじめキッチンで作らせた夜食(仔牛頬肉のビーフシチュー)で一人宴会、すなわち一人で一杯やる事にしました。
そこで、平素あまり観ないテレビのスイッチを無意識にオンしたところ、興味深い番組に遭遇しました。番組はすでに進行途中でしたが、画像と音声が飛び込んできた瞬間、まさに自分の興味をそそるものと判断できました。
おそらく再放送番組なのでしょうが、我輩にとって初めての番組でした。
NHK・BS放送で「人類の起源?」らしき内容について放映している番組を約20分間集中し、その間、缶ビールも夜食も忘れていました。
人間誕生は?まず、地球上の生物の起源から進化し、なぜ?どのようにして現在の人間にまで至ったのか?こんなストーリーの最終段階を観たのです。
興味深く切り取った内容は下記の通りです。
1) 猿は、未だこの地球上に歴然と存在する。どこで人間と猿が分岐したか?
2) 大枠としての猿の類(たぐい)から枝が分かれ、さらに人類へと、すなわち「ホモサピエンス」が発生する過程で、同時進行的に「ネアンデルタール人」が主として現在のヨーロッパ地域に存在した。が、明らかに現在の人類=ホモサピエンスとの進化の過程に存在したものではない。(ホモサピエンスと時期を同じくして、別種類に区分されるネアンデルタール人が存在していた、と云う、、、)
3) 現在の人類より異なる種類のネアンデルタール人は既に過去の歴史の過程で滅び去り、現存しない種となっている。例えれば、現在の「象」と、化石として冷凍ミイラとして発見発掘される「マンモス」とは、異なる種類の生物である。象とマンモスが同類別種であるように、ネアンデルタール人と現代人の祖先(ホモサピエンス)は同類別種である、と云う。
ここでストーリーは、第二段階に移る。
* ネアンデルタール人は滅び去ったが、何故、ホモサピエンスは現存するか?現存して今日に至ったか?
という番組のあらたな問いに対し、番組が答える、、、。
おおよそ下記のような内容でした。
(A) ネアンデルタール人の咽喉部の化石と現存する猿のそれがほぼ同じであるが、
(B) 現人類の祖先=ホモサピエンスの咽喉部ならびに現存する人類の骨の咽喉部の形態と、上記(猿やネアンデルタール人)のそれを比較すれば大いに異なっており、
(C) ホモサピエンスの化石の咽喉部形態なればこそ、ホモサピエンスの末裔である現在の人類が、言葉を操れる形態になっている。結果、さかのぼって今の人類の祖先はおのずと咽喉部で発せられる音声により、言語表現可能となり、
(D) 言語を操るが故、以って比較的他の動物より体力攻撃力の少ない人類が生きていく為の「団体共同生活」を可能にし、今日まで生き残った。しかし、ホモサピエンスより体格がよく生存競争力が高いと思わるネアンデルタール人は、その咽喉部の不出来により、言語となりうる音声が発せられなかった。その事が原因で滅亡したとしか考えられないという。生き残った人類は、音声の相互交換を以って「経験・発明・知恵」を周囲に伝達し、且つ、次世代に先達のそれらを伝授し、さらにより高度の技術と知識を構築できたことにより、現在に至り、
(E) 加えて地球上のあらゆる「生物」に抜きんじて高度な生物に到達するを可能とした。
という内容になる。で、あろう。
そんなストーリーを勝手に想像しながら観ていたら、何と、わずか数十分の間にビールを飲み干しただけで夜食を食さず、うたた寝しまいました。肝心要の結論を見ずして、目が覚めた時には、すでにその番組が終わってしまっていたのです。
ここからは後日からの想像も加わります。が、お聞き下さい。
つまり、上述の人類起源から今日に至るまで、他の動植物と違う人類の特性は「音声言語」による相互伝達能力である事、あらためて認識しました。
人間の音声表現能力がさらなる発展進化を重ねることにより、音声を文字にあらわし後世に伝達可能としたのか。あるいはより遠距離に位置する近隣の人間集団から更なる情報の伝播を可能とし、地球世界に生存する同時代の人類に伝達可能となったのでありましょう。
すなわち、(我輩、言語学の専門分野における全くの素人ですが)音声言語イコール、人類同士の会話による意見交換と伝達=文字による伝達=文字による伝承、イコール、文字による自己表現(宗教・技術・科学・思想・政治・芸術などなど、、、)であるか、と。
さて、想いおこせば近年、特にこの十数年間、世の中が急速に様変わりしました。
知識経験体験の蓄積の努力無く、まともな言葉(日本語)がろくすっぽしゃべれない「人達」が五万といて、彼ら、ただ単に日常会話レベルの感覚で持って指先でワープロのキーを叩くことにより、簡単に「文字表現と伝達」が可能となりました。
これにより、
文字による安易安直な、暴言・失言・誤解・思い上がり・下種(ゲス)な感情表現・などなど、文字表記可能となりました。ことにIT技術の驚異的発明に次ぐ発明、進歩に次ぐ躍進のおかげで、国境を飛び越え地球表面のあらゆる地域へ文字情報があふれ返し、くわえて時間時差を超越し、瞬時に情報拡散してしまう状況下、超利便性を裏返せば、文字乱用による、予測していなかった弊害も数多く発生しているのではなかろうかと思います。
文字を使い切るには、
1) まず使う人間のレベル人生の知識蓄積、および経験的体験ありき、であり、その密度の違いが「文字使用結果のグレード」を左右するのは明らかであり、
2) 次に、確たる「証」を踏まえた言語表現あってこそ、それをより緻密に組立て、さらにより広範囲な世界に、あるいは次世代や異世代に継承伝達の目的で「文字表現」があり、
3) ために、他人の表現したものを、まず「読み」、健全で確かな解釈をおこない、
4) ようやく自らの「判断・志向」を文字に表すことが可能となり、
5) しかる後に、誠意と熱意をもって相手に「それ」を伝える、、、。これをくり返し、互いに切磋琢磨する。
6) 文字による伝達方法、その頂点?(いや、一番下か?)に立つものが「小説」かな?
等と、
整理してみました。
今、あらためて、
a) 仕事を通して現場を見る、
b) 書籍としての「先達の知識」を紐解き、自身の経験と体験にソレを織り込み、
c) 自身の通読努力の度に、先達の豊かで繊細にして鋭い「表現方法」に触れ、触り、消化したい。
d) 読書の繰り返しを以って、さらに精度と芸術性に秀でた自己表現可能となるよう、役立てる。
報告文書・稟議・専門的分野の小論文など、相手に分りやすい精緻にして理論構築の完璧な文章ができればそれ以上のものは無い、十分である、と考える。
しかし、文学となるとそれ以上のモノを求められる。が、好き嫌いもある。当然である。
結果、今、今から、
小説を書いてみたい!
という意欲に駆られています。
たたみ掛けますが、
語学としての英語の世界も同じことです。
巷で、よく取り交わされている日本の平均的一般常識人(知識人?)の会話の中に、
「うん、相手の話していることは聞き取れ、そうさな~・・・ 約7割程度は理解できる、が、喋り慣れていないので、喋れないよな~」
又は、
「いやいや、読み書きはできるが、会話は慣れていないからね~ 日本人だよな、俺は、、、。ま、今からでも遅くはねえさ。アメリカ駐在2~3年でもやってりゃ~、な、大丈夫さ、、、。何せ、俺たち日本人はな、大学卒業して、一応読み書きができるわけでさ、基礎は出来上てるからよ~」
こんな会社人間同士の会話、全て、英語力(語学力)に関する見栄の突っ張りあいでして、嘘八百です。今の学校教育では、基礎が全くできていないのです。今から文部省がどうするのか、知りません。好きにやっていただいてけっこうですが、お役人のセンスで一億?総日本国民の教育のみで「事態」に大きな変化は、まず無いと思います。
我輩、まだまだ未熟にして未熟ですが、経験上、
第一に:喋ること(会話ではなく)、自分が音声として英語を発すること。これが一番簡単です。相手に通ずるか?通じないか?は、別として、、、。
第二に:相手の話を聞き取ること、そうとう難しいです。狭い日本の端から端まで「方言だらけ」のように、また年齢によって、男女性別や職業の別など、棲む世界の違いによって、百人百色、人はそれぞれ話し方、テンポ、音質(高い声や低い声)の違いがあり、初めて会った人の会話は聞き取りにくく、慣れてしまえばどうって事はなくなります。
英語世界であっても、人それぞれ、喋り方に特徴があり、(小生の場合は特に)初めて会った人との会話の聞き取りは大変苦手であります。しかし慣れる。分らなければ聞き返し、こちらの伝えること、何度もリピートでき、表情や体のアクションで伝達をより緻密に行うこと可能です。
第三に:表紙が擦り切れるまでに辞書を気に引きまくり、読んで読んで読みまくること。これ、「砂を噛む」如くに苦行です。英文を読めば読むほど大変難しく、際限なく「読むこと」を継続し、文体を蓄積し、日本語と同じように(母国語ですら読めない御仁が多い中)過去に出てきた表現の形、語彙の蓄積のボリュームを基盤にもつ以外、何も解決方法はありません。すなわち読解は難解です。
第四に:加えて、自分が自分で「英文を書く」事、最も難題です。
これはすなわち、母国語である日本語に置き換えても、同じ『事象』が起きるのは、科学的に当然ではありませんか。
いま、小説を創作したく、小説を書けば(必ずや)他人様に読んでもらいたい。ソレが目的であるから、、、、。世の中の人間全員に読んでほしいとは、決して思っていません。確率的に全く不可能です。ですから、一部の人に読んでもらえば結構です。
なぜなら、
熟達したものも未熟者も「物書きになりたい人間」を嗜好した途端、「自己顕示欲」に駆られるわけであります。自己顕示欲がどこかに潜んでいるから、ソレを「自分の著作した物」で自己表現したいのです。
<・・・完・・・>
今後いかなる時間がかかっても「物書きプロ」にならねば、、、
そのため、日々絶え間なく「修練」が必要であると確信します。
<以下、不肖エセ男爵の私的なる広報記事なり!>
ブログ全国区ランキング(Blog.with2)に参加しています。ランキングアップにご協力いただく為、下記バナーをクリック願います。
*人気ブログランキング参加中!人気blogランキングへ
<添付画像>:ロード・オブ・ザ・リング/二つの塔
THE LORD OF THE RINGS:THE TWO TOWERS
(ご承知のとおり、この物語は想像上の世界ですが、おおむかしのヨーロッパ世界の言語の違い、(日本人には同じに見える)ヨーロッパ人種の微細な違い、口頭伝承による「記述歴史」以前の「神話世界」に手を届かせて創作されたすばらしい「エンターテインメント文学」を原作とし、映画化するための脚本と演出は優秀で、さらにIT技術を駆使して創作された超優秀映画です。日本の業界も、それなりの人材がいるのですからもっとこういう文化芸術に投資し、さらにがんばって日本発の優秀作品を制作してほしいな。
湧き出て来るものには驚き、である。
へたすると、時間が足りない。。。
明治の人、例えば夏目漱石、ちょっと例えが、でか!すぎるのですが・・・、いえいえ、江戸時代の士族の師弟たるやいくら下級士族といえども、我々現代人とは比較にならないくらいの学問を修めていたとか、、、。しかし我々現代人は、彼らより「別の科学知識」があるのではないか?とも思ったりもします。人間、一人で、百芸に秀でるわけにはいかない。それはそうでしょう。だから、今頃になって自分の至らなさを嘆いている、エセ男爵なのであります。
キーボードのおかげで、ますます書けなくなりました。
読む?
読めない字、間違って読み方を覚えた字、数えあがればきりがない。
加えて漢字転換ミスがこれに加わる。
ですから、
ホモサピエンスとネアンデルタール人にご登場頂いたのです。
目的?
それは、あくまでも自戒自嘲(自重ではない!)です。
ティアラさん、質問です。
「例え」にしろ、なぜ「雰囲気」という言葉が出てきたのですか?
たまたま思いつかれたのかな?
自分自身、よく「雰囲気」という言葉を使っているのかな?
やはりたまたま出てきたのかな?
それとも何か理由があるのですか?
しつこくなっちゃってごめんなさい。
あ、ご返事、
もちろん明日で結構です。
おやすみなさい。
へんなコメントしてしまいまして、すみませんでした。「雰囲気」と言う言葉ですが、男爵さまも、この投稿記事もまったく関係ない事なのですが、「知識」という事をいろいろと考えたときに、自分の記事のことを思い出してしまいコメントさせて頂きました。
「雰囲気」という言葉で変換できず、悩んだものですから・・・。
一般常識のお話が出ていましたので、私は、一般常識の範囲ないのことすら知識不足であると、表現したかったのですが、言葉足らずでした。
失礼なコメントになってしまいまして、申し訳ありあませんでした。
私も人のこと言えたガラではない。
数十年間、思い込んでいた熟語の意味」が、ある日突然、想像していない状況の中で、突然、自分の思い込みの間違いに気付き、一人で恥ずかしく思うこと、何度もあります。
人それぞれ、こんな経験、誰でもあります。
恥ずかしい事ではありません。
このような「カタチ」で調べた「単語・塾ボ」は、もう二度と忘れない。
これに懲りずへこたれず、挑戦していく。もう、自分との戦いあるのみ。人生は、日々、自分との戦いなのです。
そして今から多くの本を読めば読むだけ、こんな経験は頻発すると思います。唯一の解決方法は、何か。それは、丹念に辞書を引く、自分で調べる、時に、単語帳?メモ帳を作って、整理する。
ティアラさんが何か思うところあるならば、本気でやるのであれば、是非初心に帰って、そこまでやらないといけないでしょう。
そして、続ける。
継続は「力=power」なり!
最近になって、上記の意味が理解できるようになりました。
よい本を、丁寧に、しっかり(数の多さを意味する)と、読む!
お互いのレベルで、お互いにチャレンジしましょう。つまり、頑張らなくってもよいですが、それぞれお互い潜在の?、その研磨に挑戦しましょう。
まだまだ十分に時間があります。
ところで、
ネアンデルタール人の感想、聞かせてくださいよ・・・
間違い=熟ボ(キーボード操作ミス?)
訂正=熟語
原因は、
ローマ字入力ですので、
JUKUGOで、入力しなければならないところ、
JUKUBOで、入力、つまり左手人差し指が(G)を叩かなければらないところ、その下の(B)を叩いてしまった、というミステイクです。
困るな~
最近こういうミスが多いのです。
私は無宗教ですが、バロンさんのこのブログを見てこの聖書の言葉の意味が分かったような気がします。
今の仏教の坊さんの話は聞いていてもばからしいけど、キリスト教の牧師さんの話は感銘を受けることがあります。だからといって、信ずる所までは行きません。せいぜい、ふ~ん、なるほど!程度ですが。
誤変換の話、身につまされます。ブラインドビートしていると、指が勝手に動いてくれるから、ついチェックが甘くなりますよね。 私も自戒します。
音声を言語として扱えるかどうか?
ここが、生き残る知恵と技術技能を子孫に伝えうるか田舎?ひいては情報交換にはじまり、「文明と文化」を伝承できるか否か?人間が進化するか否かの分水嶺だったようです。
言語や語学の第一義的目的は、意思の伝達であると信じて止みません。だから私にとっての英語は、仕事を処理する為の手段あるいは道具です。月謝を出して「英会話教室」に通っている人達の「おろかさ」は、如何にも惨めで、且つ優雅です。となれば、いまどき大学に通うのも時の流れで、なんとなくファッションなのかなあ~。
話、かわって、
小生20代の後半、インドからネパールに旅する機会があり、カトマンズから更に田舎に入り(名は前忘れましたが)、さる村にて一休憩しました。人の気配の少ない街中には、鶏、山羊、犬、猫、牛、鳩、猿、野鳥、等々、ありとあらゆる動物は放し飼いされており、まるで動物と人間の同居している自然界の様子が手に取るように視界に入ってきました。
彼らは人間さまと全く同じ、その村の住人であったのです。
場所柄もあり、ふと思い付いたのは当時の横尾忠則画伯の作品でした。曼荼羅の世界。この世とも、あの世ともつかぬ我輩の理解不行き届き世界を描いた絵画でした。
そして熟考しました。
「人間と、他の生き物の違いは何か?どこがどう違うのか?」
5分間後に、結論に達しました。
「人間は形而上的なモノを想像し得るが、その他の動物は如何にして性欲食欲睡眠慾を充たす事のみを考え
るか?」
「死後を想像できるか出来ないか?」
「究極の違いは、『神の存在』を想像且つ創造し得るかどうかか。だけの違いであろう、その他は全く違いなし・・・」
宗教とは、人間のみが「想定」できる存在なのです。
ですから小生、
宗教とは、哲学の一部である。と、判断しています。
ですから、哲学や思想の研究対象として宗教を学問し、比較対照の「ものさし」として手元にもっておくのは、教養の一部であると考えます。が、宗教を偏重し、ましてや宗教・神?を信じ、宗教によって自分の行動を規制されたり揺り動かされるのはご免蒙りたい。と、思っています。
ぼんくら学生の頃、一般教養科目で世界史(西洋史)を選択しました。時の教授曰く、西洋史を知ること即ちキリスト教の歴史を知る事なり、と。
ですから、単なる知識として「キリスト教世界」なるものは、僅かに知り得ました。知りえたことによって、ヨーロッパ人の思考と行動の基盤がなんとなく理解でき、それを心得た上で、ヨーロッパ人と付き合う。その方が付き合い良いと思います。
聖書の言葉について、曽野綾子女史の著された、すばらしい一冊の本があります。女史の独自の方法で「聖書の言葉」を理解しておられる。読み方理解解釈の仕方により、すばらしい解釈方法が展開でき人生と渡世の道標にも成り得るようです。
我輩、曽野先生の著書ならびに思考方向は大好きで、曽野女史の「書き物」は、今からも読み続けたく思います。が、聖書までは手が届かない・・・
パソコンの「文字転換の弊害」は、あります。
英語のミス・スペリングと文法チェックは可能ですが、転字ミスのチェックは難しく、自らが行なう以外に方法はないのです。くわえて小生の場合、かなりの早とちり短気せっかちで、「書いたらすぐに投稿」!というスタイルで、かなりの悪癖です。やはり最低限、2度以上は、自分の書いた文章を再読すべし。チェックにチェックを重ねなければホンモノの「OO書き」としては失格でして、このままでは、いつまで経っても三流以下。一人前の「OO」になれません。