Cafe & Magazine 「旅遊亭」 of エセ男爵

志すは21世紀的ドンキホーテ?
はたまた車寅次郎先生を師に地球を迷走?
気儘な旅人の「三文オペラ」創作ノート

拝啓 Caroll Baker さま・・

2007-03-05 17:32:45 | 趣味の話&本と雑学メモ
<Photo>:one of Hollywood Actress: "Ms. Caroll Baker", from IMDb's photo collection


  しばし、お待ち頂きたい!

           間違いではありませんぞ!

 かくなるブログは、自ずから「健全的不良シニア」を謳歌してやまない不肖エセ男爵メのブログにて、わけのわからぬ不良サイト・エログロナンセンスなるブログに迷い込まれたわけではありません。

 何故にかような「半裸プロマイド」の画像を掲げたかという「訳在り」記事を以って本日、息抜き投稿なり、、、。

 先日の記事「グログ始めて丸三年」に因(ちな)み、過去記事含む3年間のアクセス分析を懐古回想し回顧すれば、なんと、それなりの不特定多数読者の「過去記事立ち寄り分析」も可能にて、
 中でも、

1.櫻井よしこ女史関連記事、
2.靖国神社参拝問題とアーリントン墓地との「ひっかけ屁理屈」記事、
3.偉才バイオリニスト「天満敦子女史」を語る小編連載記事、
4.天才フラメンコギタリスト「ザビーカス」の紹介記事、
5.日の丸掲揚、日本国国歌「君が代」の良し悪し蘊蓄記事、
6.その他諸々、四季折々の風物詩的駄文記事、

 などなど、
  不肖エセ男爵の綴った「小理屈」に照準をあてて下さっているようです。

 加えて、面白い分析結果あり、、、。

 そう、なにゆえか、『キャロルベイカー』なるYahoo and/or Gooooogl ? の検索サイトから珍入される歓迎すべき「侵入者」多し・・・!

 かくして我輩、「Caroll姉さんのこと、何も語っていない!」にも関わらず、なぜか時々再々、往年のハリウッド女優「キャロル・ベイカー」元ピチピチ&キャぴキャぴ「平凡女優」の検索多く、以って「下記の記事」にアクセスする読者は後を絶たず、いまだにキャロルベイカーねえさんの「痕跡と色香」を追いかける衆族の存在すること、本日公表するに至った次第です。
関連記事は、ハリウッド映画往年の傑作を見た!『大いなる西部」(2005年9月15日投稿分)にて、念のため、一度お開き頂きたい。

下記添付画像は、上記「大いなる西部」のロケの合間に撮られたワンカットのはず。表情その他衣装ヘヤースタイルなどなど、上記映画のシーンに出てくる雰囲気を伝えるに的確なるカットであると感じてやまない。

The Photo form from "Big Country" by IMDb


女優キャロルベイカーは、我輩にとって「何の興味も湧かない女性」の典型であり、上述ブログ記事(大いなる西部のレヴュー)を書いた時も、天下の二枚目グレゴリーペックと映画そのものについて触れたけれど、キャロルベイカーについては、ほとんど何も言及していないのである。ならば、女優キャロルベイカーの「追っかけ趣味」を持って訪れた不特定多数の読者のために、負傷!?もとい不肖エセ男爵は男伊達に一肌脱ぎたくなった次第。
 片肌脱ぎつつ「Caroll姐御の痕跡」を捜し求めれば、晴れて本日、珍しきかな「半裸画像」の発掘に至った。かくなる上は、国際著作権問題に及ばん覚悟にて、掲載敢行に及ぶ。

 そんなこんなで、本日の「ややナンセンス」なる記事投稿となること、陳謝。

 あらためて、キャロルファンの諸兄に告ぐ!

 本来、、格調高き往年のハリウッド映画回想記事「大いなる西部」を熟読して頂きたいのであるけれど、それはそれ。記事読まずに放って置いても結構なり。さりとて潜める声は不必要にて、この際大いに声を出し、一匹狼や野良犬の「遠吠え」の如く、遠巻きにでも、お近くにでも、どうぞご遠慮なく「不肖エセ男爵ブログ」にお立寄りくだされ、、、。

語彙展開の魔術師?尊敬する作家・開高健作品「最後の晩餐」を、紐解く・・・

2007-02-02 20:36:45 | 趣味の話&本と雑学メモ
<添付画像>:397ページの長編エッセイ?!文字数にして、29万文字を上回る長編作品「最後の晩餐」を読み終え、ホッと一息、、、。デジカメ画像に収めた・・・


 このところ2~3年間、あまり本を読む時間無いけれど、頑張ってむさぼって意識して読もうとしている作家の作品集あり。

 その作家とは?
 読み進めれば進む程に、ますます尊敬に値してやまない小説家。世界を渡り歩く紀行文の達人、玄人はだしの素人釣り道楽の人、猥談から高所高見より鳥瞰する古今東西の文献紐解きつつピンキリ談義を、かくも迷わず飾らずさりげなく、文筆表現できる人物逸者。奇想天外なる作風を展開なさる気骨なエッセイスト!
 マジシャンの如く自在変化(ジザイヘンゲ)に"Kaikou流"語彙をあやつり読者を魅了して止まず、ますます尊敬して止まない、文体雰囲気を真似をしたくても仕切れない「モノカキ名人」は、すなわち開高健先生なのである。

 一体全体、何が面白いか?・・・
 かくなる作家の何を?何処を?尊敬できるか?・・・

 尊敬できるポイントは、随所にある、色々ある。
 まずは、エセ男爵好み!限定?なる博識加減は頃合にてメッポウ博学。単に机上の博学的知識としてのみならず、世界を股に架けて御自ら身体張って徘徊され、ご自身の知識学識博識を実地現場検証されつつ格調高き文字系列に認(シタタ)められているからして、印刷物となった一連の文章は新鮮にして陳腐さ老醜漂わず錆付かず、今も尚、輝き続けるから、尊敬に値するのである。氏の広い見識と波乱万丈なる人生体験を以って著作創作すれば、狭き書斎でのみ思考を燻らした天才文豪!かの「芥川龍之介」も自らのフィールドワークの少なさ過ぎを反省しつつも取り返しつかず、あの世の天国から開高流展開を眺め、歯軋りして止まず・・・
(あ、そうか!開高先生も若死ににて、すでに天国に召されておられのであるか!)

 「最後の晩餐」を読み始めたのは、至極最近になってから、、、。 先週、軽井沢から帰省する新幹線の中で読み耽った。時には早くすらすらと、時には前頁に立ち戻り読み直し、食彩談話中心なれど、食座に臨席する登場人物の立ち居振る舞い表現はまさにkaikou的森羅万象網羅されつつ微細流麗、綿々縷々書き下ろされ、あまりにも面白すぎて笑い転げ、笑い過ぎては読み進めること叶わず緩急一呼吸。これだけの長編エッセイを、新幹線道中にて完全読破は無理、、、。かくして帰省し、自宅書斎に立て篭もり、外出したりしなかったり、マイペースにてのんべんだらりと継読且つ続読す。時には漢字熟語意味解せず、めったに目を通さない漢和辞典と取っ組み合いの大格闘にて、早くも?かれこれ!一週間は経過する。以外や以外、とっくに読み終えねばならぬものを、手こずり巻くって七転八倒、心地よき悪戦苦闘しつつも善戦する。かくして昨夜、ようやく最後のページにたどり着き、読破!読了した・・・

 新幹線の車中にて読見始めた当初、
 「難解なるエッセイか?」
と、思いきや、
読み進めていて面白いから、思わず一人笑いが噴出す、、、。隣に座っていた乗客は、さぞかし我輩の笑いに「驚き」、我輩を変人扱いしたに違いない!

 まぁ、本日を皮切りに、読書感想文を書くというよりも、このエッセイ集にちりばめられている滑稽且つ知的な表現のバランスよき組合せを再度解読分析し、自分流儀の発想展開に発展させてみたい。と、思い立つ。その理由は、単純にして明瞭。開高先生見識のさりげない知識放流などなど、我輩自身真似をしたくても仕切れない「名句名言、鋭利的語彙」などなど、文芸春秋社にお叱りを受ける事覚悟にて、拙ブログに引き抜き引用し、読者諸兄姉に「不定期的連載記事」にてご披露申し上げたく、以後、時に折に触れ、我が尊敬してやまない開高作品引用とその話題、非連続的に記事投稿致したい。

 ご退屈召されぬよう切磋琢磨工夫を凝らし表現展開いたしたく、万事万障乗り越えますからに、エセ男爵ブログの読者諸兄姉に於かれましては是非ご声援下さるようあらためてお願い申し上げます、、、。

 (はてさて本日のこの勢い、何処まで続くやら・・・)



PS:「最後の晩餐」の掲載誌は「諸君!」にて。昭和52年1月号~54年1月号まで。我輩通読した単行本は1979年5月文芸春秋刊。と、なっているから、ずいぶんと古い本なのだ。実はこの本、Book-Offにて探し求めたもの。もっと早く、この本を読んでいれば「我輩の人生」は少し変わっていたかもしれないし、少なくとももっと食通になったかも知れない。よく解らない。はっきり云えることは、我輩にして、もっと文章が巧くなっていたはず・・・
 尚、以下ご紹介の同著は下記の通り表紙や装丁などは刷新され、今尚刊行されているとの事!
 嗚呼、
 我輩にとって「偉大なるモノカキ」、語彙駆使の魔術師、開高健先生は今もって健在なり!

最後の晩餐

光文社

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無事生還す!「我が愛機」:Contax-GI,,,

2007-01-05 10:48:55 | 趣味の話&本と雑学メモ
??!!
 I was surprised that,,, 

 なな、なんと!!!
     新年早々のサプライズ!発生す・・・

 一金・参萬弐千弐百弐拾四円也!(¥32,224.-)・・・

 これ、何の金額か?お判りか・・・

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 昨年晩秋の出来事。
 2度目の軽井沢訪問の時、あまり面白くないちょっとした落下事故あり。
 喫茶店OB(長野県佐久市店)にてモーニングコーヒータイムのひと時、旧友TO君がトイレに立った時、いまだ十分に目の覚めやらぬ?はたまた二日酔い?の友人は、「うかつ」にも傍の椅子の背もたれにぶら下げていた私が愛機ContaxGIのベルトに触れ、カメラ本体を床に落としてしまった。この場合、我が大切なカメラを安易に、椅子にぶら下げていた我輩自身が悪い。しかしこのカメラのボディーは宇宙工学的チタニウム製素材にて、早々手荒に扱ってもぶつけても引っかいても(落下しても?)壊れはしない。椅子と床の落差は僅かに40cm前後?大した問題もなかろう!と、思いつつも念のため、郷里に帰って修理点検且つオーバーホールを依頼したのは、確か昨年9月下旬の事、、、。
 行きつけのカメラ屋女店員曰く、
 「この機種の修理には時間がかかります、3ヶ月くらいの猶予はお含みおき下さい・・・」
 「どのくらい修理費かかりますか?オーバーホールも含めて」
 後から分かった・・・
 安易な我輩の依頼は、迂闊だった。この機種は既に生産中止。京セラはカメラ部門から撤退して久しいことを知らずに修理を依頼した我輩は、あまりにも時勢に疎すぎた。
 「たぶん、この機種の場合オーバーホールするだけでも3万円前後かかります、若し、3万円を上回る場合には前もってご連絡しますけれど・・・」
 いささか高価な修理代金?!しかし放っておくわけににもいかず、とりあえず修理を依頼した。
 何と、年末12月30日の夕刻、カメラ屋の店員から我家に電話が架かった。
 「お待たせしました。修理を終わりました。ご連絡しようかと思ったのですが、3万円が僅かにオーバー、カクカク云々(シカジカ)の料金になっています。前もってご了解を得ようかとも思ったのですが、そうするともっと時間がかかりますのでこちらの判断でそのままオーバーホールを進めました」
と来た・・・
 電話の終わった瞬間、またしても世の中が厭になった。
 しかしそのまま放っておくわけにはいかず、昨日(1月4日)受け取りに行った。一安心した。暫くぶりに訪れたカメラ屋の店内を一回りしたら、あるわあるわ、、、。デジカメの新機種?(我輩にとって)は勢ぞろい!
 「何だこりゃ、3万円も出せば解像力抜群のデジカメが買えるではないか!このカメラ放り投げて新機種買うか?」
などと、血迷ったことを考え始める。が、我輩は本気である!
しかし、ココは忍の一字!止めた。止めたかわりに「Sonyのブローシャー」を一冊頂き、帰宅した。
 「何故にソニーか?」
 我輩ソニー信奉者ではないけれど、ソニーを好むに確たる理由あり。
 レンズメーカーでないソニーのデジカメのレンズは全て、カールツアイスのレンズを搭載しているからだ。
 撮影の腕前はなかなか上がらないけれど、カメラ機材には一通り(それなりに)凝りまくった我が歴史あり。一時期はニコンレンズに憧れたものの、レンズの味はシャープなれど冷たく硬くいかにも報道写真向けである事が判明。世界に冠たるNikonの誇は、当時の最高機種F4なり。プロも納得する操作性は、さほどに難しくなく且つレンズ系列も一通り蒐集する。長期滞在したハンガリー・ブダペストとスペインのバルセロナでシャッターを切りまくった。されど我が好みに合わず、Nikonシステム一式を手放しコンタックス(ボディーは京セラ、レンズはカールツアイス)に切り替える。今ひとつの理由は、重量の重い一眼レフからオサラバし、レンジファインダーシステムを取り扱ってみたかった気持ちあり、思い切ってライカシステムを考えたけれど、これに嵌ると1千万は吹き飛び、一財産喪失の恐れあった。行き着いたところ京セラボディーのコンタックス。コンタックスのレンズ系列は我輩の好み!すなわち、カールツアイスレンズなり。されど、このContaxG1ボディーは取り扱い難しく、撮影に難渋する。すなわち自動焦点距離計はなかなか定まらず、後のContax-G2によって完成度は高くなるもののボディー形状は美しさを失い、やはりG1の優雅さには追いつかず今尚G1ボディー2台とレンズ系列(90mm,45mm,35mm,28mm)を現役にて保有す、、、。
 かくして、未だにコンタックスG1とカールツアイスの組合せによるフィルム画像撮影を嗜んでいる。が、すでに時世に適わぬ事承知している。
 画像の下敷きにしているパンフレット(ブローシャー)をご覧頂きたい!ソニーデジカメの最高級機種が掲載されているのだ。28mm~44mmの広角レンズ範疇をカバーする、我輩好みのズームレンズを搭載して、僅か10万円を切る価格でこの世の中に出回っているから、憎いのである!
 3~4万の常識的デジカメでも十分に撮影は可能なれど、イザ購入するとなると、良いものが欲しい!
 「・・・?」
 さて、どうしたものか?・・・

 しかしココは今ひとつ、我慢に次ぐ我慢、、、。


 (未だに「ガキの心」からの脱皮不可?もって衝動買の専門家。かくなる不肖エセ男爵の「我慢する心」に免じて頂き、下記ランキングバーをクリック願いたい!)

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<参考URL>:かの「ライカ」に並ぶドイツカメラ世界の名機「コンタックス」CONTAX《ウイキペディア百科事典》の歴史的解説は、こちらから入れます。

また、買ってしまった「パソコン参考書」!?・・

2006-12-28 19:48:15 | 趣味の話&本と雑学メモ
 !・!!

 午後の早い時間、小雪の舞うなか、外出する。

 今日は久しぶりに広島市内に繰り出し、高校大学共に同期生ついでにクラブ活動も何故か一緒だった旧友UT氏と会った。UT氏との時間調整のため、例の紀伊国屋に寄った・・・

 一目散に歴史書のコーナーに立ち寄ったものの、いやはや歴史関連の書籍は、高価である!数冊購入したい本があったが我慢して、止めた。まだ少し時間があったから「PC参考書のコーナー」に、ついフラフラと入り込んでしまったのが最後、やはり2冊の書籍を買ってしまった。

できるブログ gooブログ対応

インプレスコミュニケーションズ

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 この類いの参考書は、ほとんど通読しない。記事は飛ばし飛ばし虫食い状態にて、拾い読みする。読み進めるうちに自分の知識以下の内容か、はたまた全く面白くないば、もう読み進めることなく直ちに本棚入り。あるいは買ってしまった後になり、数行目を通したら直ちにギブアップ!これまた、ほとんど目を通すことなく本棚入り。かくして、PC関連本参考書なるもの書斎の本棚一角を占める割合は、この10数年間に渡り相当冊数(たぶん10数冊~辛うじて20冊以下?)になる。参考書購入は「馬鹿げた投資」か?「当然の投資か?」おかげで(曲がりなりにも)PCスクールに通うことなくお忙しい他人様にしつこく教授を迫ることなく、エセ男爵流パソコン「取扱い技術」を習得するに至る。

 しかし、なぜ今更、このようなブログ入門書を買ったか?それなりの理由がある。

その主たる理由として、

1)先月11月上旬、大学のクラブ活動OB&OG同窓会ブログを立ち上げてしまったからだ。ブログが何処を向いてどう成り立っているのか、全くわけの解らない同窓生多く、やたら初歩的な質問をEメールに寄せる連中が多く、さりとて我輩に直接問いただす輩は少なく、友人UT氏のアドレスに向け質問が多く寄せられている旨、先月末に聞いた。その質問攻めにあった友人も、ブログを良く解っていない男の一人である。
「・・・?」
そう云われれば我輩とて、五十歩百歩?ドングリの背比べ?ではないか!

2)そう、我輩も詳しいことを問いただされると、質問に答えられなくなる。
ならば、今一度あっさり「ブログ入門書」を購入すべし!
と、思い、2冊を一度に買ってしまった。四の五の言ってる同窓会の連中よ!是非買いたまえ!この類いの本を・・・
(この、OうOろうメが、甘えるなってんだ!少しは投資せんかい!)

3)もう一つの理由あり!gooのみならずFC2のブログ構成に、興味津々たるものあり!研究すべし!と思い立った。

4)ブログ上での「アフィリエイト」遊びも面白いか、、、。
  ならばFC2か?・・・

さすが!と言わせる FC2ブログ徹底攻略術

シーアンドアール研究所

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 些か、gooは「アフィリエイト」に不向きな集団であること、最初からわかっていた。解っていてgooに我がブログ「エセ男爵Part-II」を開設したものの、来年あたりは別ブログにて、そういった展開を図るのも、またよし!
 別段"gooブログ"を辞めるのではなく、新たな展開を目的とした「別種のブログ」開設も面白いではないか!
等々、あれこれ考える年末である・・・

 このブログは永遠に「アフィリエイト」且つ「物売り」には、けっして手を染めない。と、宣言する。なぜなら、このブログは「エセ男爵のブログ」だからである。
 もっと云えば、物売りやっても絶対にヒットしないブログであること、確信する・・・


執筆と創作について一考(回想)・・・

2006-09-25 05:16:10 | 趣味の話&本と雑学メモ
 このところ、
    ブログを「書く」作業。いささか自己嫌悪?の感あり・・・
 「・・・?」
 「これではいけない!」
と、思い、試行錯誤しつつもこの一年間を振り返り、反省を含めて「過去記事」を読み返してみた。
 
 以下、昨年5月、書く面白みに目覚めた「某女性メル友」に宛てた長文メールを転載公開する。かくして添付のメールは、不肖エセ男爵の文章創作がらみの苦悩と、「文章を書く作業」そのもの「歴史」をご披露するものであり、飴風呂記事より抜粋し、恥ずかしながら再掲載する。

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2005-02-17
回想と進展
某・私信(メール)より、
(2005/01/中旬・発信)

YTさま

 「多忙」とは、何を意味しての多忙なのか?
 などと、突き詰めて考えていけば特に私の場合、けっして多忙ではありません。
 ただ、オーベルジュの3ヶ月間は多忙でした。
 なぜなら、拘束時間が長い上、自分で時間をコントロールできていなかったという意味からです。
 また、お休みの日も2回に1回は東京に出張。以前の会社の先輩や友人の会社のよろず相談、出版社の社長との会合など、前もってアポを「組み立て」、ミーティングのスケジュールで一杯でした。
 くわえて、上記の延長線上に「酒の席」が付加するからこれまた重労働です。
 しかし、東京に出向けば「オーベルジュ」のワンパターン的時間拘束から外れ、私の本来の動きで十分な対応が出来るわけですから「多忙」とは感じない動きでして、「良い疲れ」を生じさせる能動的な「正しい行動」なのです。
 福岡出張も、上記のパターンでした。

さて、この3年間、私は可能な限りビジネス面での「多忙さ」を回避するよう時間を組み立てており、平均して3時間(労働)を心がけています。その代わり平均時間にして約4時間、「読書」と「執筆」に割く時間を如何にして捻出するか?に、苦心しています。この2つをあわせて約7時間労働、ということになります。
本来、読書嫌いではなかったと思いますが読書に割り当てる時間をあまりにも無視してきた悪弊(思い込み的記憶か?)があります。
 とにかく、
 「読書に割り振る時間がもったいない・・・」
 「読書している閑などあればその間に、一人でも一件でも多くのクライアントにお会いし、営業活動に時間を充てなければならない!」
 出来るだけ多くの人に会い、情報交換や仕事の打合せの時間がほしい。と、真剣に思い行動しながら四十代の半ばまで過してきたのです。加えて、活字に目を通すという意味では、(当時の物理的キャパとして)
「それでも自分は十分に、活字に触れていた!」
と、勘違いしている状況下にありました。つまり、会社(特に大企業)組織にいれば(すなわち企業人であった現役時代)、明けても暮れても毎日毎日、特に管理職になってからは、机の上は書類の山積み状態なのです。稟議書や社内通達、公館庁や航空会社その他関連産業からの通達書類社案内パンフ等など、それはまるで洪水か?はたまた津波?のごとく、半日そこいらでは目を通しきれないばかりの膨大な文章に、必ず目を通さなければならない状況下にありました。流し読み状態がほとんどで、実際には読んでいなく、読んでいると勘違いしていたのですが、、、。
 さらに、文章作成について、
 学生時代から始まり(卒業後)企業に所属。曲がりなりにも管理職になるまで、文章作成に関して何をどうしていたのか?あらためて思い起こしてみました。

 作成していた文章は確かに存在。そしてその内容とは、

 * 大使館宛の英文作成。=クライアントの査証取得のための英文経歴書はたまた英文推薦文章、等など。

 * 外務省宛の公式文章。=旅券早期取得申請書を外務大臣あてに作成する(やや定型文章)等お役所宛の関連文章くらいか。

 * 後半は広告宣伝用の短い文章?=旅行のパンフレットに掲載する文面くらいを書くだけで、本来の文書らしきものは書いたことがなかった。

 * 管理職になってからは、社内稟議書。=これまた定型文章であるけれど、自分の意志を上司に伝える為、自分の企画した少プロジェクトを実行に移せるよう、必要経費の予算枠を獲得する為、当時はそれなりの工夫をして、必死になって「説得力ある名文(迷?文章)」作成に日夜励んだものです。

 あらためて文章を書き始めたのは、脱サラ後。独立したのち、企画するイヴェントや企業の新規プロジェクト提案のための「企画書・提案書」を創作し始めてたのが切っ掛けで、ようやく自分の文章を書かなければならなくなったのです。
 当時、ようやくパソコンを導入する時代になる。それ以前、(ワープロはすでに20年前から導入していたのですが)全ての作成文章は手書きでして、辞書を片手に苦労しつつ(今と比較すれば)膨大なる時間をかけて、文章作成に挑んだものです。
 今にして思えば「手書きの文章を書く」作業とは面倒で面倒で、今やろうとなれば、もうお手上げ。手書きで漢字が書けなくなっているから、もう手書きは不可能。考えただけでそら恐ろしくなりますが、当時はそれを実行していたのです。
 しかし今、こうして書けば書くだけ、さらに書こうと思えば思うだけ、ますます「自分で納得できるレベルの文章」は、なぜか書けなくなっているのです。
 理由は、自己の文章力に関する劣等感と不信感です。文章を書く基礎が出来ていない。と、考え、悩む?からだと思うのです。
 
 開き直れば、しかし、美文でなければ書ける。

 「もとより文才のない自分には、『美文』は書けない。美文を書こうと思うから書けないないのだ・・・」

と、開き直れば、「自分の意志を他人様に疎通可能な文章?」は、何とか書けるようになりました。

 合わせて近年(約10数年前から)、現役時代(企業人という意味)に比較して(一人で行動していると)、あまりにも情報源に乏し環境にいることに気付き、『情報量のパイ』が、あまりにも小さいことに猛烈な恐怖感を持ち始めたのです。
「すでに、時代に取り残されるのではないか?」と、、、。
(現在は少し違いますが、、、)
 そこでいろいろ考えた結果、思いついたことは何か?
 本屋さんに走り本を買い求め、猛烈に読書がしたくなり、自分の専門分野?の「新本」などなど、手当たり次第に読みまくったのです。
 しかし逆に、新聞や週刊誌を読まなくなりました。
 読んでみても、情報のぶつ切りであり記事を書く編集者あるいは記者の「情報と知識の貧弱さ」が、認識できるのみで、ほとんど役に立たない読み物であると解りました。
 その代わり、(先輩の薦めもあって)タイム誌を定期購読を始め、すでに15年になります。
 タイム誌の記事について、一言。
 これは情報の収集という意味でも、情報の整理という意味でも、先を見通すという意味でもたいへん重要な定期刊行物であると認識しています。タイム誌の記者連中は、平べったい日本人新聞雑誌記者やTV取材陣とは大きく違います。自分で取材し自分で記事を書き、きちんと自分の意見見解を述べ、記事に対する責任を持って「レベルの高い」文章と、写真(=写真もすばらしいですよ)を競って投稿し、それを毎週続けている。世界中の「英文もの書き」プロ集団の「文章」を(十二分に)読めて且つ、的確な時代の流れを掌握できると思うからです。これ、あくまでも比較対照的な発想でして、その比較の対象はあくまでも、我国特有の金太郎飴的な三流新聞記事や紙芝居的TVニュースです。
 欧米と比べ、あまりにも貧弱な日本のマスコミの取材能力と、取材陣の体制に流される「無能さ」に辟易しています。(ま、コレこの問題にはこれ以上触れないようにします)
 私の専門は英文学でもなく語学専門ではありません。しかし、タイム誌を読み続けているおかげで、このところようやく英語がわかるようになって来ました。英語でビジネス契約文章、英語で自分の意志を疎通できる文章が書けるかな~?と、ようやく思えるようになりました。
 しかし、英文の組み立てと、日本語の文章の組み立てと、全く「構造」が違う。 ですから、英語を読む、英語の文章を書く、と、日本語の文章が書き辛くなります。が、これ、言訳です。まだまだ修行が足りない証拠です。明治の文豪「森鴎外」かはたまた「夏目漱石」か、当時の皆さん、英語も漢文も出来た人達が、日本語で小説を書いていた時代があるのです。映画「ラストサムライ」の脚本の基礎となった新渡戸稲造先生の著作「武士道」も、当時の英文で書かれており、小冊子ですが、なかなか中身の濃い立派な「英文著書」です。当時(100年前)の英文の中、日本の伝統的な思想(武士道という狭義の意で)を、欧米人の知識人層に説き紹介するため、聖書から始まり、ヨーロッパ中世の騎士道、さらには近代西欧思想との比較引用され、日本の武士道を比較説明している論文文章構成には「驚愕」の限りです。
 そうです。
 当時の西欧人にとって(日本文化を全く知らない)、若し、比較対照可能な「西欧思想と文化」の引用と解釈が皆無なら、この「武士道」の英文著作は繰り返し読んでも読んでも解釈不可能意味不明であり、当時の西欧知識人から無視された。に、違いありません。新渡戸博士は見事に「比較対照」を引用され、難しいながらも理解可能の門戸を開かれたわけでして、いつ?年齢、幾つの時から?何処で何処から?そんな見識を重ねる時間があったか?実際、新渡戸博士は農学の研究で若くから渡米され、何時からか解りませんが(確か)キリスト教徒になられ、アメリカ人女性と結婚された。そういうバックグラウンドがあったにせよ、尋常ではない。即座に比較対照がこのレベルにいかないまでも、こうして思えば、自分自身がいかに怠け者であるか、もう一回生まれなおし二度人生を繰り返しても追いつけないほどに学問をやってらっしゃる、等と考えると、あらためて往時の日本人知識人に敬意と尊敬の念を抱くのです。
 まず、自分の意見を書くこと、人様に理解可能な文章を書くことは大切であり、たいへん難易度の高い所業なのです。

 もう一度、私の実態に戻ります。
 英語は、まず読めないと書けない。多くの英文を読みこなし、ようやく書けるようになったのです。頭の片隅に残っている「どこかで読んだ英文」の語彙や言い回しの組み合わせを引用しながら書いているのは事実です。
 ですから、
 日本語も、そうしなければならないと痛感してまして、最近になって「コレだ!」と思う著者の「近代文学」を読み始め、本来中学生時代高校生時代に済ませておかなくてはならないこと、今になってやっているようなテイタラクなのです。がしかし、残念かな若き頃に読んでないわけで、ひと歳取った今、初老に差し掛かった歳になっても、尚、それでも、まず、読まなくてはコトが始まりません。読むことに、ようやく飢えて来たのです。
 そんなわけでして、
 確かこの3~4年、猛烈に読書を重ねていますが、オーベルジュにいた期間、それが出来なかった。
 しかし逆に考えれば、(一度メールで触れていますが)Field-Workができて、たいへん満足してます。
 今改めて必要な「フィールドワーク」が出来るなら、3ヶ月間の読書を中断してもやぶさかでなく、むしろ読書を中断してでも「やりたかった」内容でして、差引勘定はプラスであったと判断しています。

 その点、「書くことが好きです!」と宣言したYTさんに、あらためて拍手を送ります。

 今からも、おおいに書いてください。
 書くこと、(あなたは)お上手です。たいへん面白く読ませて頂いてます。
 私で差し支えなければ、どんどん読ませていただきますから、多忙に感じるくらい、とことん書いてみてください。

<「完」以下、8行省略・・>

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<添付画像>"The Remains of the Day" written by Mr. Ishiguro.

日曜テレビ朝日の番組に、櫻井よしこ女史をお見受けするものの・・

2006-07-10 04:58:15 | 趣味の話&本と雑学メモ
 昨日日曜日の午前中、久しぶりに「テレビ朝日」の政治評論番組に櫻井先生がご出演された。田原総一郎という賞味期限のとっくに過ぎた過剰過信「ナルシスト政治評論家」の司会なる自己満足情緒丸出し売国奴的輩殻は、ずっと以前から悪臭漂い、いかにも悪人風嘘つき発言の典型なる醜面は可能な限り視たくなく、神経に障る濁声も聞きたくない人物の一人。そんな彼をして、超左寄り我田引水的司会振りを忌み嫌う我輩。本来なら端っから無視し、曲げても観たくないテレビ番組を久しぶりに観た。なぜなら、櫻井女史のお姿が垣間見えたからである。
 テーマは、この度の「北朝鮮ミサイル発射騒ぎ」から派生する、今後我国のとるべき外交の在り方?、我国のとるべき外交姿勢と戦略について。であったと勝手に記憶をさかのぼり解釈する。

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《その-1》

 この事態に挑み、一貫して櫻井女史の述べられた論旨は、
*この度の「北朝鮮ミサイル発射」は、我国の外交にとって、きわめて有効なる外交カードにできる可能性大である。北朝鮮によるミサイル発射、大変よい機会を得たのであるから、この茶番劇をまず叱責すると共に「中華人民共和国」と「北朝鮮」に、五里霧中にて左翼化傾向甚だしき「韓国」も含め、さらには「ロシア」に対し、国際的政治の舞台にて「日本外交の手腕」を発揮する最大のチャンスが到来したと考えるべきである。
*以って、毅然として、国連決議云々はもとより、諸外国に対し直接的な働き賭けを早急且つ強力に精力的に行動し、世界の世論を日本にひきつけ、このよき機会に三莫迦隣国の愚考と愚行を糾弾し、
*大きく日本の国際的立場のより優位なる確立に繋がるべく、マスコミは世論を動かし、且つ日本政府は断固揺るぎなき施策をとるべし・・・
などと、述べられていた。
しかし、上述の理路整然とした櫻井女史の発言は、発言時間の割り当て?が、あまりにも限られ短くセッティングされすぎているではないか。これまた情け無きかな、他の2名の出演者の発言内容は枝葉末端支離滅裂にて、櫻井発言のレベルとは格差があり過ぎ、いわんや櫻井発言の論旨に同調すべきであろうべき自民党衆議院議員(東京都選出の骸骨眼鏡オジサン)は、櫻井発言の後、櫻井理論の補足はおろか同じ内容を戯作(ゲサク)に引き降ろす役柄を、無意識にも頑張り通しているから滑稽を通り越し、すでにお話にならない。無論、司会者の田原は、櫻井女史ご発言の途中に何度も何度も女史の発言を遮ぎろうとするが、それにひるまず櫻井女史は最小必要な限りの発言と論立てを、最後まで継続されたから流石である。

かくして平和ボケ極左翼的テレビ朝日・賞味期限経過的「邪analist」≒田原総一郎の締め括りは、近頃訪中した報告と称し、これまた賞味期限の過ぎ去ったシナ大陸に於ける活動報道「田原の訪中・売国奴的活動」の宣伝取材報道に終わった。訪中報道を後半にもって来るは、番組最初に放映された北朝鮮問題への対応政策論議なるもの、せっかくの櫻井女史発言も「帳消し」となったか・・・
今はしかし、田原総一郎による媚中宣伝報道を以ってしても、すでに一般日本人視聴者の心眼を欺けるほどには至らないと願いたい。強いて言及すれば、田原の訪中報道は「北朝鮮ミサイル茶番劇」の愚かさを凌駕するほどに、バカバカしい小児性痴呆症的左巻きゼンマイ仕掛けによる「誇大妄想シナ共産国家礼賛主義者」の演ずる時代錯誤も甚だしく、且つ老醜漂う三流役者に看えてくる・・・

かくして、
桜井女史の「北朝鮮ミサイル騒ぎ」に対する我国の執るべき対応策は一貫しており、すべからく「日本優位に立つべき外交カード」として有効活用に徹底すべし。との、ご意見であった。櫻井女史ご自身の論旨を包括すれば、すなわち「我国の執るべき戦略」は、かの『論戦2006』論文に於いて、書き下ろされた「櫻井的正論」に基盤する事、テレビ討論中、櫻井発言の端々に於いて再確認できた。

櫻井よしこ著作「この国を、なぜ、愛せないのか」の締め括りを付けたい。
よって、一昨日(7月9日日曜日深夜)投稿、長過ぎる!記事の後半を分け、少々訂正し且つ僅かに加筆ののち、本日あらためて投稿する。

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《そのー2》

 さて、
 エセ男爵ブログとは、洒落た芸術漫遊の旅を志し「小説&エッセイ且つ芸術論評」を試みたく開設したもの。

 にもかかわらず、政治評論もどき記事の投稿をするは、いかにも無粋である事、百も承知している。しかしながら、文学芸術家の歴史過去を振り返ると、文筆家はもとより音楽家画家など様々なジャンルの芸術家によって「イデオロギー」や「思想」を盛り込んだ作品は多々あり、その数ははかり知れず、、、。さりとて、我が志向する芸術論議及び作品の範疇には、直接的な思想イデオロギーの類いに翻弄されたくない。表現したき思想や哲学は尚更の事、モノカキ屋を志すジャンルの末端に位置しようとする限り、あくまでも文章作品の行間隙間に於いて、可能な限り論理整然と志すところの意思は盛り込みたく、且つ思想的には片寄りたくないけれども、それは成熟した高度の文化を基盤に持つ民主主義自由主義の環境に於いて、初めて実現可能なる事柄であろう。文化と芸術の素養を深める鍛錬修行に励みつつ、以って、より高い教養を志すものにとって、重要且つ適切なる環境に位置すること、必要にして不可欠なり。
 若し、文化生活可能な活動環境が大きく変わり、文化的芸術的活動を自由闊達にできなくなるような「国の存亡行方」を左右するが如き「国家の難事」に出くわした場合、これらの難局難題を無視し逃避するは、我が精神構造からして不可能である。即ち、正面から反駁阻止したく、決して逃げない!
 社会的に責任ある知識人の片割れとして国家の難局から逃避するは、いかにも卑怯なり。と、心得る。
 現実逃避は卑劣且つ卑怯にて「我が最大の恥」と考える。
 以って正面から世の動きの理不尽さを叱責叱咤激励の為の放言は憚らず、且つ入念に論じなければならないと考える。さかのぼること60数年前、我国歴史に於ける国家運営の大失態(太平洋戦争敗北)に到る過程の中、あまた多くの我国知識人たちは、国家的試行錯誤且つ暴走に対し、いかに我が命をかけて国家救済の方法を論じ尽くすことなく避けて通ったか!かの時代に於ける我国知識人の無力無能さと現実無視且つ逃避は、国家存亡に関わる大失態に加担したに等しい。と、断言する。結果は無残であり、その後、戦勝国により与えられた「仮の昭和憲法」を今尚、我国をして独立国家のものと勘違いしているから滑稽すぎる。
 時代は21世紀。
 今の知識人の責任とは、国家国民の総意を動かす原動力となり、「新憲法制定」を是とする方向に導く事か。これ、最大の責務である。と考えるが、如何? 
 我国独自の自主憲法を持たない日本国民は、いかにも哀れである。自主憲法無き「その地域」に住まう日本人の国は、独立国家と称するに値せず。独立国家でないから、近隣暴力団的国家からは四六時中、恫喝を受けても致しかたない。
 我輩、少なくとも国家存亡の危機と難事から、逃げ惑いたくなく、外敵からの恫喝且つ危害に直面する場合、正面から受けて立ちたい、戦いたい!
 芸術を、こよなく志向且つ嗜好しつつ思考する酔狂気分の「不肖エセ男爵」に於いて、政治思想国際問題に大きく深入りするは、不本意なり。時代の動き世界の動きを資料として集約し、社会科学的に分析し、自身の論旨論評を纏め論文作成思考のプロセスはそうとうなる思考能力を必要とし、且つ肉体精神を消耗する。ひるがえって、小説作品なるものを創作するも、上述の社会科学分野に属する論文作成と同じプロセスにて組み立てられるものの、大きな違がある。小説創作には「別の次元の想像力」を注入しなければならず、これは社会科学論文作成との比較に於いて、大きく異なる所以である。
 我が人生の残された時間、限られた時間、可能な限り創造世界に没頭し、その分野で社会に貢献したい。

 ここで少し話の矛先を転じ、まとめてみたい。
 たとえ話の引用の対象が大きすぎるが、かの「小説の神様」と称された天才小説家・志賀直哉先生に於かれても、時に「政治思想の世界」に触れられたイキサツ、在り。志賀小説は、絶品秀作である。が、論評には傑出すべきもの見当たらず、評論文は多くを残されていない。そんな背景においてしても、すばらしき論評が今の世に残っている。「志賀直哉著・リズム」を転載引用し、この度の「空騒ぎ」の何某かを、あわせて考えてみたい。
 この文章、いかにも歯切れよく当時のプロレタリア小説嫌悪なる志賀直哉師の意向を、十二分に表現されている。プロレタリア文学集団を非難中傷且つ激評したものと論されている。問題論争も多々あったと、当時の文壇論評には種々記されている。
しかし、この論文『リズム』。いかにも、我輩の大好きな文章である。

 巷に転がるモノカキに於いてして、日本国を愛する日本人の一員として、時に、「政治社会問題」に傾倒没頭、且つ激怒、憤懣やるかたなき時もあり!
と、ご容赦いただきたい。

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《そのー3》

 このくだり、
 本日のもっとも重要な付録にて、「本日の本論」である!何度もお読みになっておられる方も是非あらためてお読みいただきたく、お忙しい方は二度に分けていただき、是非にも読破頂きたい!》

志賀直哉全集 (第1巻)

岩波書店

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志賀直哉作品より(昭和6年1月 読売新聞)、論文『リズム』
(全文引用・・)
 偉(すぐ)れた人間の仕事 ― すること、いうこと、書くこと、何でもいいが、それに触れるのは実に愉快なものだ。自分にも同じものがどこかにある、それを目覚まされる。精神がひきしまる。こうしてはいられないと思う。仕事に対する意志を自身はっきり(あるいは漠然とでもいい)感ずる。この快感は特別なものだ。いい言葉でも、いい絵でも、いい小説でも本当にいいものは必ずそういう作用を人に起す。一体何が響いて来るのだろう。
藝術上で内容とか形式とかいうことがよく論ぜられるが、その響いてくるものはそんな悠長なものではない。そんなものを超絶したものだ。自分はリズムだと思う。響くという連想でいうわけではないがリズムだと思う。
このリズムが弱いものはいくら「うまく」出来ていても、いくら偉そうな内容を持ったものでも、本当のものでないから下(くだ)らない。小説など読後の感じではっきり分かる。作者の仕事をしている時の精神のリズムの強弱 ― 問題はそれだけだ。
マンネリズムがなぜ悪いか。本来ならば何度も同じことを繰り返していればだんだん「うまく」なるから、いいはずだが、悪いのはいっぽう「うまく」なると同時にリズムが弱くなるからだ。精神のリズムがなくなってしまうからだ。「うまい」が「つまらない」という藝術品は皆それである。いくら「うまく」ても作者のリズムが響いて来ないからである。
中央公論社正月号の文芸時評で広津君が、「今さら諸君の芸術が、功利主義と結婚することは考えられない。それよりも、うまい文学を書く以外に、文学に何の意味があろうという気持ちで進んでくれる方が、諸君の道であるとともに、また我々も望むところである」と書いている。そして諸君の主な一人に自分を入れているが、他の諸君は他人故自分は知らないが、自分は「うまい文学」という意味が一寸気にかかるので、仮りに過去の仕事がその範囲を出ず、これからもある期間は、それを出られないとしても、少なくとも「うまい文学」以上に目標を置いて努力精進しなければ仕方がないと思っていることを明らかにしたい。怠けてばかりいる自分に広津君がそういうのは無理はない。しかし自分の事となればそう思っておさまってはいられない。広津君の言うように自分が「うまい」小説家かどうか分からないが、所謂(いわゆる)「うまい」ということは小説家の目標にはならない。うまくなればいくらでもうまい小説が書けるだろう。いくらでも書ければ作者自身にとって「うまい」ということは何の魅力もない。自身に魅力のない仕事を続けるという事、すなわち行きづまりだ。既成作家が行きづまったという中にはうまくなり過ぎ、しかもリズムが衰えて来たという意味があるだろう。
「今さら諸君の芸術が、功利主義と結婚することは考えられない」これも自分はそう考えない。もし「諸君」の作品が芸術主義であっても読む者をして仕事に対する意志を感じさせるくらい、立派なものになった場合、それが功利主義と結婚しないとはいえないと思うからだ。ラジュムの発見者がラジュムの用途までいちいち意識しなかっただろう程度に功利主義との結婚を作者がいちいち意識しないとしても、功利主義、いいかえれば自分の作品の普遍性というものを全然否定しては仕事は出来ないと思う。自分は知らない、しかしどこかでよき実を結ぶ、この約束を信じないいかなる芸術家もないと自分は考えるのだ。
ここにプロレタリア運動に熱心な、小説のよくわかる男があるとする。この男はおそらく日本のプロレタリア作品を読むより西鶴を読んだ方が何百倍も仕事に対する意志を強く感ずるかもしれないという説はどうだろう。レーニン(のことは何も知らない)が生きていて日本語が読めたらそういうかも知れぬ。自分がレーニンだったら、はっきりそう言ってやる。
最近感心したものについて少し書く。
西鶴 ― 大下馬(おおげば)、織留(おりどめ)、落ちつきはらっている。しかもリズム強く、何でもない浮世の些事を書いて、読む者の精神をひきしめてくれる。
フィリップの「野鴨雑記」リズム強く、捨身なところ大いによし。熱情的な点もいいが、少し熱情過ぎて不安心なところあり。この点西鶴のつっぱなした書き方、効果強し。西鶴でもフィリップでも、話、いきなり塀を飛越し、向こう岸へ行って、また続けるような「うまい」ところあり。これを技巧と考えるのは浅い。彼らのリズムがそれをさせるのだ。本人からいえばこれは意識的でもなく、無意識的でもない。
フィリップは四五年前金子洋文に紹介された。このことをこの間来たあるプロレタリア作家に話し、もう一つ、「ゴー・ストップ」というものを津田青楓にすすめられて読んだことを話したら、その後万朝報に洋文が「ゴー・ストップ」を勧めたようにその人が書いて洋文を攻撃していたそうだ。これはその人の誤りだ。
この間大阪の友達の家で小さいコロー作の風景画(硲氏蔵)を見た。油画のことで感銘書きにくいが、非常に感服した。近年見た絵の稀なる収穫だった。こういうものになると東洋画も西洋画もない感じだ。感服するのに油画として、などいう意識はまるで起らなかった。いいものというものはいいものだと感じた。
武者の「二宮尊徳」も大変面白かった。自分の祖父が今市時代の尊徳の弟子だった関係で、尊徳の名は子供から親しんでいたが、まとまって知ったのは今度が初めてだ。尊徳の捨身なリズムの強い生活には非常にいい刺激を受けた。尊徳の時代といえば政治思想の今より動揺激しい時らしいが、その渦に少しも巻込まれた形跡のないのは不思議なくらいだ。傍目も振らず自分の目標へ一本槍で進んでいる。
勝海舟の「氷川清話」では、尊徳は一本気の土百姓として簡単に扱われているが、政治以外頭にない海舟としてはもっともなところもあるが、今日(こんにち)になってみれば一家を再興し、一ヶ村、三ヶ村を興すために十年もかかって捨身で働いていた尊徳が、当時、時代の一方を一人で背負っていた観のある海舟よりも、はるかに根本的な生命ある仕事をしていたと思うと面白いことだ。尊徳を南州や海舟の上に置き、世界に誇っていい偉人だという武者の説には大賛成だ。
時代の流れに乗って仕事をする奴はその時、時代の流れがなければ何もしなかったかも知らぬ弱みがある。尊徳は時代の流れには没交渉な奴だった。むしろ時代の流れは尊徳に合わなかった。それでも尊徳は我流の一本槍で、維れ(これ)日も足らず、捨身に進んでいかなる時代にも普遍である教えを身をもって残していった。実に強い。武者の「二宮尊徳」は平易に書いた面白い本としてお勧めする。
 
<本文・完>

(上記、「志賀直哉著・リズム」の全文模写転載にて、著作権違反に相当するか?エセ男爵にして文学者志賀直哉先生をして永遠の師と想い憧れ拙ブログへの転載作業を成す。以って、善意あれこそ毛頭悪意無き所業なり。と、自負するものなり。が、しかし万一、関係者各位より抗議あらば、即刻関係者には「ふしてお詫び」し、且つ、処罰処分を受けること、逃げ隠れせず座してお待ち申し上げるものです・・・)

志賀直哉〈下〉

新潮社

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志賀直哉〈上〉

新潮社

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 *上記、「あまぞんどっとこむ」引用の「志賀直哉」論評、我が尊敬する作家のお一人・阿川弘之先生の著作なる大論文である。先ごろ、(3カ月がかりで)ようやく読破した。改めて読書感想文なるものを書いてみたい。が、その前にもう一度、志賀直哉全集を読みたくなった。(志賀作品を読み直さねば、論評は書き切れないであろう。と、あらためて思う・・)
国を思うて何が悪い―一自由主義者の憤慨録

光文社

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阿川先生も(お怒りになり、お叱りを受けるかもしれないけれど)、小説家というよりも、論評家乃至歴史的偉人(例えば旧日本帝国海軍歴史の著など)伝記作家としての作品には、戦争礼賛等変な片寄無く冷静沈着に歴史の流れを書き記された作品に光り輝くもの、多い。しかし、珍しくも阿川先生にして、上記「日本を愛する放言の書」あり。いささか時代を経たものの、現在の日本の有り体に照らし合わせると尚一層理解を深めること可能となるか。そして、今の時代に通じるもあり・・・
(もう一度読み直したい、阿川先生流儀『社会風刺なる放言』のちりばめられた「一冊」である)

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拝啓櫻井よしこ様;(3/3)続・読書感想文「この国を、なぜ、愛せないのか」 、志賀直哉先生を想う・

2006-07-09 00:08:00 | 趣味の話&本と雑学メモ
 「この一冊」
 論戦2006の読後感は?
 と、問われれば、、、
 そう、たいへん重かった。
 『論戦1994~6(』初刊)から比較して来れば解る。各論文の論調及び内容は、毎年毎年毎回毎回少しずつ厳しくなり難しくなり、重くなっているのかも?・・・
 
 我が読後感は、必ずしも爽快にならない・・・
 憂い悩み安堵できない思い詰めさせられる「もの」は多く、且つ比重は大にて、ずしりと脳裏に刻まれている!結果、やるべき我が作業は滞り、遅々として、前に進まなくなる・・・
 でも「この一冊」、読んで良かった・・・

 桜井女史の「ジャーナリスト」としての姿勢は、この10年来、終始一貫変わらずにいらっしゃる。
 「ジャーナリストの禁じて」なる『二枚舌』など、一切お使いにならず、マスコミ世界に媚びること、一切なし。ジャーナリストがジャーナリズム世界に媚を売る姿、いかにも無様でみっともない。常識ある我々一般国民は、大多数のジャーナリストが大衆にメディアに媚びる様子、何度も感じ、しばしば読み、テレビに到っては日々反復の連続にて、味悪き無作為情報ばかりを食らって満腹しつつ、溢れんばかりに見聞きしている。
 繰り返し言うが、しかし、櫻井よしこ女史から発信される論旨論評は、日本人の誰もが精神的背骨(バックボーン)として、すなわち精神的体躯の基本軸としなければならない「日本人としての正常なる歴史認識」に立脚さて、日本人として「自国を愛する」基本姿勢を片時も崩されずにご自身の論評を展開されているからすばらしい。 

 本日記事投稿記事作成着手の前、
櫻井よしこ著「この国を、なぜ、愛せないか・論戦2006」
なる一冊、
 本日午後ようやく完読した。

この国を、なぜ、愛せないのか~論戦2006

ダイヤモンド社

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 この読書感想文の投稿を以って「この一冊」に関する感想文シリーズを締め括りたい。

(お姿もお心も美しき日本の誇る女性論客桜井女史の益々のご健康とご発展を願っておられる方、以下ランキングバーのクリック応援願います!)
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《そのー1》

 はからずも数日前、北朝鮮から複数回にわたって複数のミサイルが発射され、一億総日本国民の慌てふためいた様相に対し、我輩の「思うところ」は、既に記事にして投稿した。(「前回関連記事」のご参照は、こちらから入れます・・)

 北朝鮮ミサイル発射関連報道乃至論評の99%は各論ばかりにて小手先の対処方法ばかりである。
 目先の各論ばかり、一番肝心な「我国の将来・先を見据えた包括的総論」は、皆無ではないか!
 なぜに、シナ共産政府+韓国狂気政府を含めた三莫迦隣国井戸端会議に参加するが如く、小手先対処法の解説?そればかりに終始しているか?我輩には皆目理解できない!
 常識的なことばかりを面白おかしく且つヒステリックに、ときにもったいぶって知識を振りまき、それを聞き観る視聴者は、僅か2日間にて日本滅亡に直結する恐怖心は薄れてしまいつつあり、替わって、北朝鮮監督演出なる「三文オペラ・ミサイル発射劇」の劇画動画鑑賞者になり切ってしまいつつあるからバカバカしくも情けなくてしかたない。
 さて、本日、9日の日曜日。テレビ屋さん各局は、それぞれの政治番組を連ねている。しかし今、我国が直面している本当の問題点、もっとも核心に触れる評論家の発言は、はたして出て来るのであろうか?
 多いに期待しつつ、見守りたい・・・

 そして、
核心に触れるとは? 

 櫻井女史におかれては、すでに著書「この一冊」にて総括的対処法は既に述べられておられる。

 言わずもがな、

 国を愛すがために、「憲法改正」ありき!

 すなわち日本国にして、一刻も早く「真なる独立国家」として立ち上がらなければ、これら三莫迦隣国の脅威は止まることなく、挙句の果ては「我国を滅亡させる」歴史的事実なるもの、刻々と迫っている事を・・・
(図らずも不肖・エセ男爵にして、我国独立国としての「新憲法制定」の必要性、過去何度も繰り返し述べている・・・)

括りとして、
国を愛し、国と国民の安全と将来の発展を願い続けられ、毅然とジャーナリズムの在るべき筋を通し続けられている櫻井よしこ女史に、最大のエールをおおくりし、今後益々お元気にて正統なる日本人ジャーナリストの旗頭となられ、大任をお勤め下さるよう(私、末端の読者の一人として)お願い申し上げます。

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 <明日記事に続く・・こちらから入れます!

拝啓桜井よしこ様 (1/3) 『この国を、なぜ、愛せないのか・論戦2006』によせて、(読書感想文)

2006-06-30 18:55:10 | 趣味の話&本と雑学メモ
この一冊『この国を、なぜ、愛せないのか』(桜井よしこ著)を読み始めて、すでに2週間も経過する。総ページ数は、僅かに272ページ。システム手帳を一回り大きくした程度の「この一冊」。縦43文字横17行、文字数にして731文字。実質文字数は凡そ600文字程度か。通常、この類いの一冊を通読するに、せいぜい3~4時間もあれば十分に読破可能か。
と、踏んでいたのであるが・・・
「オットどっこい!そうはいかない・・・」
結構、てこずっている。

(いまだ通読に至らず、てこずっている「不肖・エセ男爵」に、励ましの応援をお願いしたい!)
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実は「この一冊」、ご存知の通り、各項3~5ページの短編にて、ダイヤモンド社をはじめ週刊新潮に週刊文春ならびに日経新聞等に寄稿された櫻井女史の短編論文を集約されたものであり、週刊誌のヴォリュームに換算すれば、せいぜい2~3ページ。初刊「論戦シリーズ」は1994~1996である(当・初刊の論戦シリーズの感想文は、拙ブログにて投稿済み)。もって約10年前より、これら短編論文集は「論戦シリーズ」にて単行本に集約され、発刊され続けているのである。論戦シリーズは、すでに5冊通読し、自分自身の周囲を取り巻く「超近代の政治社会歴史の書」として、本シリーズに対する自分自身の位置付けをし、今も、大切に蔵書している。
しかし、この度の「論戦2006・この国を、なぜ、愛せないのか」には、通読するに最も時間のかかる一冊となっている。
恥ずかしながら、未だに読破できていない。読み進めるうちに、いかにも苦しい。
慌てずに、急がずに、読み進める所存なり。
「・・・?」
漢字が読めないのではない。
桜井女史の論理展開、難解とは思わない。
しかし、この一冊はいかにも読み辛い。
各項各章、読み終えて後、逐一自己反省し、且つ深く考えさせられる。以って読み進めるに、あまりにも時間が掛かっている。気分は沈み、なぜか頭痛が始まり、頭痛が収束すれば、その次には心苦しくなる。この一冊、下手に取組むと「他の本」が読めなくなる。自分自身、この一冊を読み進めた後は、相当なる気分転換を図らないと、他の作業展開が難しくなるのである。
それにはいささか理由がある。
我輩、日本人としてこの世に生を受け、早くも半世紀間にプラスすること云年以上も経過する。日本人として半世紀以上も、仕事柄世界を旅しつつ熱心に仕事をこなし、その間正常にまともに考え、常識的にまともに行動してきたはずの我輩。にもかかわらずこの一冊を読み進める中、この歳になって、あらためて自分自身の無責任さ加減を痛感させられてしまうのである。
読みながら、
「自分自身、何かしなければならぬ。自分自身、知らねばならぬ。まだ修養が足りぬか」
「わが国のために、後輩のために、何かやらねばならぬことがある」
「公のために、我国のために、子々孫々のために、先輩先祖に対して、何かやっているのか?やってきたか?」
「今から、これら公のために、自分は何ができるのか?」
感ずる事の多きこの一冊。
先の投稿、拝啓櫻井よしこ様:感想文「何があっても大丈夫」に続き、この度も3回シリーズで感想文を書いてみたい。
もって本日、その書き出し?とする。
この国を、なぜ、愛せないのか~論戦2006

ダイヤモンド社

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尚、本文に掲載されている文章の中、「究めつけの一節」が、この一冊「この国を、なぜ、愛せないのか」の、『本の帯』に抜書きしてある。
本日の締めくくりとして、上述の文章を、下記、引用しておきたい。

<以下、本文167ページ「第3章日本にとっての真の敵は、己自身の内にある」から、引用・・>
日本は自らを“ハンディキャップ国家”と位置づけ、半人前の国家にとどまり続け、国家目標を“摩擦を生じさせないこと”に矮小化し、志を曲げ気概を失った。
中国は今「沖縄も中国領だった」と言う。日本人はそれを笑い飛ばしてはならない。日本は、中国の覇権主義が沖縄領有に止まると過小評価してはならない。中国の狙いは大中華帝国の確立、つまり日本国全体の実質支配なのであるから。
中国の大戦略の前に日本が成すべき事はたった一つ、真の独立国としての志を確立することである。自力で自国を守る気概を養い、そのための大戦略を練ることだ。真の敵は日本人の心の内にある。
(以上、「この国を、なぜ、愛せないのか」引用、完・・)

 <・続く・・>

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拝啓櫻井よしこ様(日本人の英語は?)「何があっても大丈夫」、感想文に寄せて

2006-06-03 12:05:45 | 趣味の話&本と雑学メモ
<添付画像>:The "Stocks and Stripes flag", the united stockholders of America. A protest flag signifying the alleged corporate influence over the U.S.("Globalization" from Wikipedia)

 拙ブログにて投稿した連載読書感想文「何があっても大丈夫」、読者から多くの有意義なコメントを頂き、不肖エセ男爵と致しましては幸せこの上なく、お寄せいただいたコメンテーターの皆様に感謝!
 上述感想文の続編掲載シリーズ化してしまった今日、お寄せいただいた感想コメントを読み返せば読み返すほど、お寄せいただいたコメントの中、読者の皆様の真剣前向きな「お考え」を繰り返し拝読、、、。お寄せ頂いた皆様全てのコメントから感ずる事、学ぶ事、多々あり。想えばおもうほどに、我が痩身にして全身、幸せ感覚に満ち溢れ、ブログ管理者冥利に尽きる事この上なく、誠に光栄の至りであります。
 かくして、読書感想文「この一冊」に関する最終投稿は理路不整然にして結論無きまま、なぜか「英語学習のあり方」に辿り着いたものの、計らずして読者の皆様からは「目から鱗の落ちる」如きすばらしく力強いコメントを数多く頂きました。
そして、
いよいよ昨晩、最終コメントを頂いた『CFOさん宛コメント』に対するお答えコメントの投稿、終えたところであります。投稿文字数はすでに3000文字を超え、長いコメント文章になったもの。
一夜明け、
我が投稿コメントを読み返せば、CFOさんから頂いたオリジナルコメントのすばらしさにあらためて感動。
 このままコメント欄に仕舞い込んで置く事、如何にも「もったいなく」、本日(CFOさんのご了解無きまま)本記事として公開し、あらためて皆様にご紹介申し上げたくご案内に至る次第であります。

 現在の我国日本における、企業英語現場の実態に対応すべき「お姿、姿勢」、加えて語学習得に関しての「力強いご意思」をご表示頂いた事、感謝いたしますと共に、語学学習に感心をお持ちなる「拙ブログ」読者の皆様には大いなるご参考にして頂きたく、以下全文、是非ご通読下さいますよう、何卒宜しくお願い申し上げます。

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<コメント欄投稿記事>


A)『英語は外国語?いや、自分達の言語です。 (CFO)』
(先日掲載済み)最終編感想文『何があっても大丈夫』のコメントより引用>

2006-06-01 00:00:38

男爵さん、
英語の需要という点において大人の場合「できて当たり前」、全く同じ認識です。専門スキルが同レベルの場合、英語ができるのとできないのとで年収が20%~50%、金額にして200万円~500万円も違いますし、リストラに際しては英語のできない社員から解雇される会社もごく当たり前です。あくまでコミュニケーションツールに過ぎない英語で給与に差が出るのは本来であればおかしな話ですが、これは社会でそれほど多くの需要があるのにもかかわらず供給がそれに追いついていないと解釈できましょう。ゆえに、大人・子供を問わず国民全体の英語力急上昇が緊急課題であると考えます。
男爵さんは第2外国語の重要性までを認識されておりますが、これは私に警笛を鳴らしていただいたと言っても過言ではありません。現状は英語だけで精一杯、専門分野は何とかこなせるものの日常英語は四苦八苦、後者ができないことによるハンディを身にしみて体験しており、汎用性の高い日常英語力を緊急に増強中です。しかしながら、第2外国語を視野に入れるべく、ここで音を上げていてはいけないのでしょうね。第2外国語は中国語・韓国語などのアジア言語がよろしいのでしょうか?
tonoさんの言葉を借りますと、英語はれっきとした世界標準語(グローバル標準語)、これに対して日本語はローカル標準語(即ち方言でしょうか?)であると認識しております。ゆえに、日本人にとって英語は外国語などではなく、自分達のもう一つの標準語であると考えます。また、適用範囲という点では、日本語はドメスティックな日本というエリアのみ、翻って英語は全世界で通用しますので、ある意味こちらの方がプライオリティーが高いとも言えます。それほど英語は日本人にとって重要な言語であると考えます。ゆえに、小学校での英語必修化、英語教育の早期化を議論するに際しては、日本語とどちらが重要か、どちらを先に学習すべきかという問題は甲乙をつけられないと考えます。どちらも自分達の共通語なのですから、小学校、幼稚園、いや生後可及的速やかに両方を学習すべきであると言っても過言ではないと考えます。英語を人様の言語ではなく自分達の言語であるという認識を持つことが出発点であると考えます。
(以上、CFOさんからのコメント転載)

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<以下、不肖エセ男爵による「返信コメント」>

B)『CFOさん・・ (エセ男爵)』

2006-06-03 02:05:09

初めてのコメントを頂き、たいへんありがとうございます。にもかかわらず、CFOさんへのご返事遅くなり、たいへん恐縮です。
日本における英語の需要と供給、簡潔且つ完結した論評、お見事です。

あらためて勉強になりますこと、御礼申し上げます。

たいへんありがとうございます。

未だ拙き未熟者エセ男爵にして、すでに何も申し上げるべき事柄はありません。が、しかし、このままご返事をコメント欄に記さねば、如何にも失礼にあたるのではないか!
等と、おおいに悩み、考えあぐねた上、
あらためてキーボードを叩き始めました。
さて、どこからどのようにお答えしたら宜しいか?
などなど、支離滅裂になること覚悟にてのご返事、あらためてお許し下さい。

>英語の需要という点において大人の場合「できて当たり前」、全く同じ認識です。・・・

・認識を同じくしていただき、たいへんありがとうございます。

>専門スキルが同レベルの場合、英語ができるのとできないのとで年収が20%~50%、金額にして200万円~500万円も違いますし、・・・・
(・中略・)
・・・・あくまでコミュニケーションツールに過ぎない英語で給与に差が出るのは本来であればおかしな話ですが、これは社会でそれほど多くの需要があるのにもかかわらず供給がそれに追いついていないと解釈できましょう・・・・

・私自身、いわゆる「企業現場」から遠ざかって久しい今日、現場実態にして、ここまでの「需要」有りという現実、よく理解できました。ならびに「語学需要に対する」認識から発生する「報酬格差」が生じている現実、あらためて認識いたしました。正直申し上げ、たいへん驚いています。


さて、
第二外国語の問題について、

これは人それぞれの現場によって、おおきな相違が生じてくると思っています。しかし、21世紀の「日本人の素養」という捉え方からすると、今の英語程度まで第二外国語のレベルを向上しないとまずいのでは?と、実感しています。
くわえて、
英語日常会話の重要性云々について、私はあまり重点を置いて考えないようにしています。
人により、差こそあれ、英語会話こそ、一番安易で簡単であるという認識です。
企業内あるいは実務現場での専門分野英語から派生する業務処理は最重要事項であり、日常会話レベルコミュニケーションは、あくまでも付随的であると位置付けています。もちろん、これとて仕事のフィールドの相違によって、大きくウエイトの違いが生じてくる。とも思われます。最重要事項は文章の解読、次に文章の作成能力であると信じてやみません。

押しなべて、ツールとしての語学(英語)は、
1)自分から(能動的に)話す事、即ち自らが発する会話を組み立てる事こそが、一番易しい「英語道具」の使用運用方法です。
2)次に難しいのが、専門分野の如何を問わず、文章が「読める」かどうか?(05’11月18日投稿、読書感想文「渡部昇一先生著・英文法を撫でる」ご参照下さい・・)
3)次に、「他人の喋る言葉」が、聞き取れるかどうか?相手様の話が聞き取れれば、如何様にでも自らの会話は成立可能です。相手のくだけた会話に対して、こちらは文語調の応答でも、完全に通じますし、決して失礼ではありません。
4)一番最高位に位置するのは、書けるかどうか?
以上、4点セットで成り立っていると思ってやみません。
ですから、(例え話をすれば)
私は電車に乗っているとき、女子高校生の話している日本語は聞き取れますが、会話の内容は分かりません。また、彼女達の会話内容を理解しようとも思いません。さらには、彼女達の話し言葉(未知の単語+文法運用など)は、時に、聞き取れない事もあります。別例を挙げれば、米軍の召集兵(特に黒人の兵隊)の言葉は、ほとんど聞き取れません。そして、上記の言葉など聞き取れなくても一向に気になりません。
さらに、
初めてお会いした人との会話を進める場合、ほとんど聞き取れないので何度も聞き返します。失礼を承知で、、、。ならば相手の方は私に対して気を使って下さり、「私がわかるような話し方」にして頂くこと可能。これでようやく話が聞こえてきます。相互の調整可能なるのは「会話の世界」ですから、会話は簡易にして楽なのです。恥ずかしながら、久しぶりに米大陸を旅行すると、到着して約1週間程度は、現地の人たちの会話は聞き取れませんが、10日間くらい経つと、なんとなく会話が聞き取れ始め、理解可能になります。要するにこちらの耳が慣れてきます。しかしイザ、相手に対して「私が話す」場合、ほとんど全員の人に対し、私の会話内容は分かるようです。「これで問題はない」と、腹を括っています。

時は、「グローバル時代」です。(ウイキペディア百科事典によるによる「グローバリズム語彙」の定義?は、こちらからご参照いただけます・・
まして、IT時代(今や、ICT時代か?)、その共通語は、どうも「英語」のようです。
これが現実です。
現実からは、けっして目を離せません。
ならば逃避せず、英語は「学んだ方が得」する事、これも現実のようです。
しかし、「グローバルの語彙」を間違って解釈したり、勘違いしている人もあります。
経済学の解釈と、社会学者(この学問フィード、理解しかねるのですが)とは異なるようです。社会学者の多くは、グローバリゼーションなるもの「強者・勝者アメリカ合衆国とその配下の横暴」と、誤解しているようで、勝者の言葉即ち英語世界と米国の経済的軍事的な圧力に屈したくなく、アメリカ的大国に属したくない。という、マイノリティーへの弱者救済のために、グローバリゼーションを否定している「愚者」も多く存在するようです。非現実的且つ非理論的なので、このあたりの議論はしないことにします。
私自身が(勝手に)解釈しているのは、経済学経営学で云う「グローバリゼーション」です。
その意に従って解釈すると、このグローバリゼーションは何も20世紀の末に始まったものではなく、遠く紀元前から始まり、今日に至ったという解釈(経済学的解釈)です。古代文明が開化した時代からギリシャローマ時代を経て、(当時の)オリエントという特定地域の情報はヨーロッパ全土に広がり、インドに広がり、ユーラシア大陸を経て東西交流からシナ大陸へ、さらに飛鳥奈良の時代に日本にも伝わってきた。これをして「グローバリゼーション」と云う。等と、経済史学説上(ヒックス教授「経済史の理論」参照引用:拙ブログにて記事掲載済み)、定義付けています。
そして、
すでに聖徳太子の時代には、完全にチャイニーズ(言語)を日本に輸入?、仏教等の諸文化もすべからく「漢字」を駆使して伝来したもの。
江戸期(270年程度か?)の鎖国時代前後(尚、鎖国中は清国及びオランダ等と交易の中)、日本人は外国語に慣れ親しみ「外国語を駆使」しつつ、(外国文化科学などを)日本古来本来の自国文化に消化吸収しながら明治維新をむかえ、一気に国際化(グローバリゼーション)開花したものと解釈しています。
いま、21世紀を向かえ、経済的には世界の国境がなくなった現状、過去にもまして情報が飛び交う現状、外国語習得の重要性を直視せずして、日本人の得意な本来的個性は発揮できないとも思えます。
今尚、外国語習得不得意な日本人の難点は、
日本語の文法的構造と、英語のそれとは隔たりが大きい。
しかし、明治の文明開化を経験した日本人(リ-ダークラスの日本人も含め)と比較すれば、今の日本人はあまりにも恵まれているのではないかとも思われます。
しかし現在、思いのほか外国語駆使に難渋する日本人の多き現実を省みるに、片寄った情報により、どうも世界が見えているようで見えていないのが我国の現状か、とも思えてなりません。片寄った情報はすべからく「片寄った教育」と「片寄ったマスコミ情報」。加えて、平和ボケした我国の一般大衆、究めつけは片寄った政治家と政府に基因するか。と、考えます。

そして、英語教育について、
まず、
そんなに不可分過不足を感じなかった戦後の英語教育を、今の英語教育とごった混ぜにはできないと思います。
なぜか?
この四半世紀の間、学校教育現場の根本が変わった、という事実があります。日教組のせいにするか?それは枝葉末端です。むしろ、文部科学省全体の責任でしょう。
英語教育だけを取り上げず、初等教育全体を見直す必要があると思います。
よみ、かき、そろばん、加えて正しき歴史認識、これこそ大切です。
教育基本法の云々が叫ばれる中、法律を正しく制定し、日本国のあり方を日本人全員で考え直す時はとっくに来ています。
国の存亡に関わるたいへんな出来事です。
そして、日本人の大人の中、比較すれば外国語にさほど関わらなくても生活できる範疇にある国民とそうでない国民がいます。いつの時代でも、この相違は存在したはず、、、。
しかし、
話は根本の根本に戻り、ジャーナリスト櫻井女史に戻すと、
日本のジャーナリズム世界には、今最も外国語の必要な時代に突入しているにもかかわらず、ジャーナリストの道具としての外国語に不足している人材があまりにも目立つ。あるいは、報道統制しているのではないか?と、勘違いするほどに、ジャーナリズム世界には断片的かつ狭視的偏見的報道の目立つ昨今、櫻井さんのジャーナリスト基盤は、女史自身の語学力と情報収集能力にあり、且つ、健全な日本人的感性に基因する判断力である。と、思います。

第二外国語の選択、
その人それぞれの仕事のフィールドで選択する、それで宜しいのではないかと思います。

そして、初等教育における英語教育実施の是非について、
私論は、「必要!」
と、断言します。
しかし、その前に「万全なる準備」が必要です。これには多々しなければならぬことあります。このコメント欄での論議は控えます。

ついつい熱が入り、長くなりました。

たいへん失礼しました。

また、これを機会に「不肖エセ男爵ブログ」とのご交友、今後とも宜しくお願いします。


 < 完 >

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拝啓櫻井よしこ様(終章)・読書感想「何があっても大丈夫」(日本人の語学学習について・・)

2006-05-28 13:23:11 | 趣味の話&本と雑学メモ
<第二章>

かくして、再び、櫻井さんの話に戻る。
さて、上記「この一冊:何があっても大丈夫」からの抜粋により、櫻井さんの学歴過程と英語の接点、社会人となった時点の就職先は(図らずも)「ジャーナリスト」への道、そして現在あること、その過程を辿ってみた。
昭和40年代前半、大学進学を目的として英語学習をされていた。
当時の高校生として一流私学の入試に合格する程度の英語の学力とは、現在の高等学校英語教育及び学力と比較した場合、どうなのか?等という「野暮な対比」は一切無視してみたい。
しかし、けっして見過ごせない観点がある。
当時、日本での大学進学を放棄され、進学を目的とせずにハワイに渡航された。レストラン従業員として現地で仕事を始められた櫻井さんにとって、仕事をこなす為の「日常英会話」の必要性に、困惑されたに違いない。まず、英語を学問としてではなく、生活の為、生きる為、英語をサヴァイヴァルの道具として使うことから入られたのだ。しかし英語を(会話として)使う場所は、たかだかハワイの日本人経営のレストランであった。ハワイの場合、白人社会の真っ只中に放り投げられた状況とは違い、スムーズに英語会話生活に入れた可能性は高い。(なぜならば、想像の枠内であるが、当時の日系レストラン従業員のほとんどは、日系2世ないし日本人により従業員構成されていたはず。したがって、英語と日本語をごった混ぜにした職場環境であったと考える)
しかし、問題は大学に進学された時点である。
「その一冊」につぶさに記されている如く、大学における一般教養の講義についていける英語の力量は構築されていなく、「そうとう苦労した」と、記されている。しかもその苦労の中、(Bクラスといえども)奨学金を取得されたとも記されてある。学力なくして奨学金の交付許可は、ない。したがって大学進学後、日々の講義に追いつくために、日々の英語学習には、砂を噛む如くに無味乾燥なる努力を、ひたすら続けられたにちがいない。専門課程の専攻は東洋史。と、ある。東洋史を学ぶには、世界中のいずれの大学を探しても見当たらないほどに、ハワイ大学における東洋史研究は格好の場所であったと考える。(実は我輩、ハワイ大学の背景につき、なんら予備知識皆無であること、断っておきたい)

アメリカの研究者から見た「東洋史」、(今現在の自分自身にして勝手に思うに)なんとも魅力的である。当時、いや今もそうであろうが、いかなるアジアの国々を駆け巡り捜査探索にあたろうと、アジアの歴史即ち東洋史を紐解くにあたり、民族的偏見なくして適確に正視し、左右のぶれなく、真っ当に「見聞判断」可能なるは、アジアに於いてではなく米国を含む西欧諸国のいずれかに存在するはず。ならば当然、今尚、米国ハワイ州にして、アジアの歴史全体を見回すこと可能なる「物見の塔」があっても不思議ではない。

いまや、櫻井さんと同年代の日本人の歴史認識は如何なものか?

多くの日本史研究者は存在する。
その全てとは云わないが、イデオロギーの色眼鏡なく、民族主義的国粋主義的な偏見なくして「日本史」を含む「東洋史」を研究した学者は、果たしていずこに存在するか。まして、日本を含む東洋史に於ける「近代史」を紐解いた研究者は稀であろう。櫻井よしこ先生をして、そのお一人。と、考えるが如何。確たる歴史認識から、我国に於ける全てのジャーナリズム正義は始まる。と、思うが如何?
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話戻って、
ハワイ大学で学ぶ学生諸君は広くアジア諸国から参集し、学生生活を営む。その合間、必ずや英語を駆使する。教授陣にいたっては、深き愛情と真剣な態度で東洋を研究する人材を必要とし、洋の東西を問わず広く世界中から集積しているはず。英語を母国語としている学生と、母国語としていない学生、さらに学生と教授の間における、「英語によるディヴェート(議論・論戦)」、日常の学生生活における英会話を通しての交流。教授陣との公私共に渡るコミュニケーション。奨学金を得ているといえども、「生活費」にゆとりのない櫻井さんは、学業の合間にアルバイトによる現金収入を計り、アルバイトにも時間を割かれている。が、おのずとアルバイトを通して「学業・研究」以外の場面を体験されている。
そのような環境にて、東洋史を専攻された櫻井さんの「先見の明」に、先ずは拍手!
最大にして最高の敬意を表したい。
かくして、社会人となってからも、「米国人女性ジャーナリスト」の秘書として就職し、これまた英語と日本語の狭間で格闘する日々、言い換えれば、生活のために英語を道具として仕事をされ、現在の桜井さんが存在する。
フリージャーナリストとして独立されて今日に至るまで、日々の英字新聞はもとより、英文誌の購読通読は日常茶飯事、ジャーナリストの使命を果たされる目的にて、情報収集のために語学を駆使されているに違いない。
見事なり。見事に、英語を駆使されている。

タイミング的に、ここで補完しておきたいことがある。
なにも、英語を使える日本人が、優秀で立派だということではない。はからずも櫻井さんのご職業は、ジャーナリスト。かの職業の第一の活動は「正確なる情報収集」のはず。ならば、日本語のみに限定された「情報収集範囲」では真に不十分であり、少なくとも英文により発信された情報誌を解読できないようでは、まともなジャーナリストとはいえない。ということ、櫻井さんの場合に限らず、ジャーナリストたる人種の仕事道具として、語学は必須である。と、断言したいだけのことである。

何度も云う。

尊敬に値する『日本人女性』、その「お一人」なり。

教育が拓く未来―変わり始めた現場からの提言

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<第三章・結論>

今、小学校高学年からの英語教育が叫ばれている。
賛成か?
否か?
と、問われれば、そのどちらでもない。
すべからく「初等教育」に必須事項なるは、

* 読み、

* 書き、

* そろばん、、、

以上3点、あるのみ。

これ、小学校で上記3点セットの基礎ができているのかどうか?
しつこく云うが、
まず、上記の『3点セット』を完璧にすること、肝要。
若し、
本気で外国語教育をやるとするなら、英語のみならず第2外国語まで義務教育で実行したらどうか?いまや、(母国語とあわせて)3ヶ国語以上を運用可能とならねば、グローバル時代は乗り切れない。

あらためて、
英語は必須かどうか?
小学校教育にとらわれず、大人の日本人として捉えた場合を論ずるならば、
論外なり!
英語ができて「当たり前」の時代に、とっくに突入している。

  <・・完・・>

(前章(第一章)をご参照になりたい方は、こちらから入れます)


<表題イメージ画像>:ショーンコネリー卿「ウエブサイト」より、抜粋。(こちらから入れます・・)
* ミシェル・コネリー(ショーンコネリー夫人)の絵画より。我々日本人も、本気で子供を大切に育て上げねばならぬ!等と、当記事を書いている最中に突如として「少子高齢化問題」も、頭に浮かんだ。ミシェル夫人、心温まる絵画をご紹介下さり、たいへんありがとうございます。)考えれば、頭の痛い「問題だらけの我国」日本なのだ!「そろそろ、社会問題考えるの止めて「ダンディーシリーズ」でも投稿して、気分転換しましょうか?・・・」