Cafe & Magazine 「旅遊亭」 of エセ男爵

志すは21世紀的ドンキホーテ?
はたまた車寅次郎先生を師に地球を迷走?
気儘な旅人の「三文オペラ」創作ノート

亀山郁夫訳「カラマーゾフの兄弟」全5巻を読了・・

2009-01-09 18:45:45 | 趣味の話&本と雑学メモ
と、言うこと、、、。

 「・・?・・」

 「もう一度申し上げよう、亀山郁夫訳「カラマーゾフの兄弟」全5巻を読了・・」

 「・・・!?」

 「いやはや、何と4ヶ月間に亘る!異常な長さの通読期間?はっきり申し上げて亀山流翻訳は我輩好みではなく(その理由はあらためて徹底的に申し上ぐるぞィ)、途中で何度も投げ出そうかと思ったものの、ようやく本日、一字一句洩らさず逃さず読了したのである・・」

この訳本シリーズを全4巻購入したのは昨年初秋(9月上旬)だったか?はたまた真夏だったか?忘れたけれど、思い起こせば、とある会の講演を依頼されて大阪出張した時のこと(確か!昨年の10月9日)、講演のさなか、
「此の歳になってようやくドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を初めて読み始めた、そんな出来損ないの不良中年でありますからして、、、」
と言いつつ、講演内容からやや脱線し、
「ロシア語の原本ではなく当然ながら日本語の訳本で、亀山郁夫先生もの・・」
そもそも翻訳本の嫌いな我輩は、
「翻訳だから非常に読み辛く、さらに読み辛いのは亀山先生ご一党の現代語訳だから、一段と会話文が読み辛く(云々・・)」
でもって、
「読み進め難いから、未だに第2巻の初めで行ったり来たり・・」
と、ここまで話したら会場一同爆笑となった。
 あの時、信じていただけなかったのか?(YES)はたまた(or)信じていただけたのか?(NO!)
 すなわち、
本当に我輩がドストエフスキー作品を読んでいないのかどうか?信じて下さった方も 「いや、絶対に読んでいるにも拘らず読んでいないと、わざと(謙遜して)言っている」と思われた方も、本日晴れて「亀山郁夫先生訳・カラマーゾフの兄弟(全4巻)を、読了した!」
と、声を大にしてご報告申し上げたいのであります。
 こんなに読みにくい「長編小説」には、めぐりあった事は未だかつて記憶無い(に等しい)、、、。
でもって、
 「読了感は?感想は!」
と、問われれば、
 「ある、ごまんとある!」
と、答えなければなるまい。
 何だか、
 「本日を以って、一大事業を成し遂げた!」
という達成感あり。
 要は、
 1)生まれて初めて(翻訳本といえども)「ロシア文学」を紐解き、
 2)畏れ多い「ドストエフスキー小説」を初めて読み終え、
 3)これでようやく『世界文学』の何某か?片鱗に触れ、
 4)初めて、ほんものの小説を実感したこと、
等々、
「ドストエフスキー作品・カラマーゾフの兄弟」を読み終えた後の、その収穫たるや、想像以上に膨大なり。
と同時に、これでようやく本年度のステージに立ち上がること可能となった。

 あらためて「感想文」を書きたいと思いつつ、本日は読了の実感をしるして置きたく、敢て、エセ男爵ブログ記事として『記録』に残しておきたい、、、。

 エセ男爵は、本日・平成21年1月9日を以って、
巨匠ドストエフスキー作品「カラマーゾフの兄弟」読破の偉業を成し遂げたり!と、、、

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カラマーゾフの兄弟1 (光文社古典新訳文庫)
ドストエフスキー
光文社

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商品の説明:(出版社/著者からの内容紹介)
世界最高の小説は何か。候補の筆頭につねに上げられるのが、この作品だ。だが、日本では同時に、翻訳が難解とも言われてきた。ドストエフスキー研究者・亀山郁夫は、この訳業を自分の課題として引き受けた。作者の壮絶な「二枚舌」を摘出する新訳は、流れ、勢いを損なわない。人物たちが[立っている]。主人公アリョーシャが、初めてリアルな人間として描かれ、物語を導いていく。(@amazonより引用・・)
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ps: 読み終えて、我輩は満足なり。 ならば今夜はビールだけに止まらず、久しぶりにシーバスリーガルの12年物でも飲むとするか、、、、。

追憶:「TYさん宛、私信メール」より・・

2008-12-26 10:15:15 | 趣味の話&本と雑学メモ
あれから4年前?の冬場、ブログを始めた当初に投稿した記事を転載したい。
 この頃、「書く事」に執念を燃やしていた時期。富士山麓のオーベルジュに「助っ人稼業」のコンシェルジェとして出向いていた時、お客様でお見えになったYTさんと知り合った。以後、何故か(たぶん、同じサービス業に従事しているもの同士の気心が通い合ったからか?)メール交信多くなり、メール上でのお付き合いが1年ばかり続いた。当事、「意のまま」に書き連ねた文章を転載する。
当時は元気がある。 「文章創作」に対する貪欲な意欲が伺われる。
少し(数年前の)「自分の歴史」を振り返ってみることも必要!と思い、訂正なしに掲載してみた。 こうして振り返ってみると、なんとも恥ずかしき事多々あれども、今の自分と比較すれば、逆に「今の自分」の行動に「恥ずかしき事」多いかもしれない・・・

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「飴風呂投稿記事」より転載・・・

2005-02-17
回想と進展
テーマ:Weblog
某・私信(メール)より、
2005/01/中旬・発信

YTさま

 「多忙」とは、何を意味しての多忙なのか?
 などと、突き詰めて考えていけば特に私の場合、けっして多忙ではありません。
 ただ、オーベルジュの3ヶ月間は多忙でした。
 なぜなら、拘束時間が長い上、自分で時間をコントロールできていなかったという意味からです。
 また、お休みの日も2回に1回は東京に出張。以前の会社の先輩や友人の会社のよろず相談、出版社の社長との会合など、前もってアポを「組み立て」、ミーティングのスケジュールで一杯でした。
 くわえて、上記の延長線上に「酒の席」が付加するからこれまた重労働です。
 しかし、東京に出向けば「オーベルジュ」のワンパターン的時間拘束から外れ、私の本来の動きで十分な対応が出来るわけですから「多忙」とは感じない動きでして、「良い疲れ」を生じさせる能動的な「正しい行動」なのです。
 福岡出張も、上記のパターンでした。
 さて、この3年間、私は可能な限りビジネス面での「多忙さ」を回避するよう時間を組み立てており、平均して3時間(労働)を心がけています。その代わり平均時間にして約4時間、「読書」と「執筆」に割く時間を如何にして捻出するか?に、苦心しています。この2つをあわせて約7時間労働、ということになります。
 本来、読書嫌いではなかったと思いますが読書に割り当てる時間をあまりにも無視してきたきらい(記憶かな?)があります。
読書に割り振る時間がもったいない、その間に一人でも一件でも多くのクライアントにお会いし、営業活動に時間を充てなければならない。
 出来るだけ多くの人に会い、情報交換や仕事の打合せの時間がほしい。と、真剣に思い行動しながら四十代の半ばまで過してきたのです。
 加えて活字に目を通すという意味では、(当時の物理的キャパとして)十分に活字に触れていた、と、勘違いしている状況下にありました。つまり、会社(特に大企業)組織にいれば(すなわち企業人であった現役時代)、明けても暮れても毎日毎日、特に管理職になってからは、机の上は書類の山積み状態なのです。稟議書や社内通達、公館庁や航空会社その他関連産業からの通達書類社案内パンフ等など、それはまるで洪水か?はたまた津波?のごとく、一日で目を通しきれないばかりの膨大な文章に、必ず目を通さなければならない状況下にありました。流し読み状態がほとんどで、実際には読んでいなく、読んでいると勘違いしていたのですが、、、。
 さらに、文章作成について、
学生時代から(卒業後)管理職になるまで、クライアントの査証取得のための英文経歴書はたまた英文推薦、旅券早期取得申請書を外務大臣あてに作成する(やや定型文章)等お役所関連文章か、後半は旅行のパンフレットに掲載する文面くらいを書くだけで、本来の文書らしきものは書いたことがなかった。あらためて文章を書き始めたのは脱サラ後、独立した後、イヴェントか企業の新規プロジェクト提案のための「企画書・提案書」を創作し始めてたのが切っ掛けで、ようやく自分の文章を書かなければならなくなったのです。
 また、パソコン以前のワープロ(すでに20年前から導入していたのですが)による文章を書くまでは全て手書きでした。
今考えれば、手書きでそこそこの文章を作る、面倒で面倒で、今はもうダメ、考えただけでそら恐ろしくなりますが、当時はそれを実行していたのです。
しかし今、書けば書くだけ、さらに書こうと思えば思うだけ、ますます書けなくなります。
 理由は、文章を書く基礎が出来ていないからです。
 しかし、美文でなければ書ける。
 美文を書こうと思うからかけないのだ、と、開き直れば何とか書けるようになりました。

 独立してから、そしてこの最近、いやハンガリーから帰ってから(かれこれ6~7数年前から)は特に、現役サラリーマン時代と比較して(一人で行動している。と、いう意味)、あまりにも情報の入手源に乏しくなり、情報そのもののパイが小さくなりった。つまり情報量の驚くべき少なさに恐怖感を持ち始めたのです。
この状態では、必ずや時代に取り残される、と。
 (今は少し違いますが、、、)
 そこで考え、思いついたことは何か?
 本屋さんに走り本を買い求め、猛烈に読書がしたくなり、自分の専門分野?の「新本」などなど、手当たり次第に読みまくったのです。
 逆に、新聞や週刊誌を読まなくなりました。読んでみても、情報のぶつ切りであり記事を書く編集者あるいは記者の「情報と知識の貧弱さ」が、認識できるのみで、ほとんど役に立たない読み物であると解りました。
 その代わり、(先輩の薦めもあって)タイム誌を定期購読しはじめてすでに15年になります。タイム誌の記事について一言。これは情報の収集という意味でも、情報の整理という意味でも、先を見通すという意味でもたいへん重要な定期刊行物であると認識しています。タイム誌の記者連中は、平べったい日本人新聞雑誌記者やTV取材陣とは大きく違います。自分で取材し自分で記事を書き、きちんと自分の意見見解を述べ、記事に対する責任を持って「レベルの高い」文章(と、写真=写真もすばらしいですよ)を競って投稿し、それを毎週続けている。世界中の英文ノモ書きプロ集団の「文章」が読め、的確な時代の流れを掌握できると思うからです。これ、あくまでも比較対照的な論法発想でして、その比較の対象はあくまでも日本の3流新聞やTVニュースです。欧米と比べ、あまりにも貧弱な日本のマスコミの取材能力と、取材陣の体制に流される「無能さ」に辟易しています。(ま、コレこの問題にはこれ以上触れないようにします)
 私の専門は英文学ではありません。しかし、タイム誌を読み続けているおかげで、このところようやく英語がわかるようになって来ました。英語でビジネス契約、英語で文章が書けるかな~?と、ようやく思えるようになりました。
 しかし、英文の組み立てと、日本語の文章の組み立てと、全く「構造」が違う。ですから、英語を読む、英語の文章を書く、と、日本語の文章が書き辛くなります。が、これ、言訳です。まだまだ修行が足りない証拠です。明治の文豪「森鴎外」かはたまた「夏目漱石」か、当時の皆さん、英語も漢文も出来た人達が、日本語で小説を書いていた時代があるのです。映画「ラストサムライ」の脚本の基礎となった新渡戸稲造先生の著作「武士道」も、当時の英文で書かれており、小冊子ですが、なかなか中身の濃い立派な「英文著書」です。当時(100年前)の英文の中、日本の伝統的な思想(武士道という狭義の意で)を、欧米人の知識人層に説き紹介するため、聖書から始まり、ヨーロッパ中世の騎士道、さらには近代西欧思想との比較引用され、日本の武士道を比較説明している論文文章構成には「驚愕」の限りです。
 そうです。
 当時の西欧人にとって(日本文化を全く知らない)、若し、比較対照可能な「西欧思想と文化」の引用と解釈が皆無なら、この「武士道」の英文著作は繰り返し読んでも読んでも解釈不可能意味不明であり、当時の西欧知識人から無視された。に、違いありません。新渡戸博士は見事に「比較対照」を引用され、難しいながらも理解可能の門戸を開かれたわけでして、いつ?年齢、幾つの時から?何処で何処から?そんな見識を重ねる時間があったか?実際、新渡戸博士は農学の研究で若くから渡米され、何時からか解りませんが(確か)キリスト教徒になられ、アメリカ人女性と結婚された。そういうバックグラウンドがあったにせよ、尋常ではない。即座に比較対照がこのレベルにいかないまでも、こうして思えば、自分自身がいかに怠け者であるか、もう一回生まれなおし二度人生を繰り返しても追いつけないほどに学問をやってらっしゃる、等と考えると、あらためて往時の日本人知識人に敬意と尊敬の念を抱くのです。
 まず、自分の意見を書くこと、人様に理解可能な文章を書くことは大切であり、たいへん難易度の高い所業なのです。

 もう一度、私の実態に戻ります。
 英語は、まず読めないと書けない。多くの英文を読みこなし、ようやく書けるようになったのです。頭の片隅に残っている「どこかで読んだ英文」の語彙や言い回しの組み合わせを引用しながら書いているのは事実です。
ですから、
 日本語も、そうしなければならないと痛感してまして、最近になって「コレだ!」と思う著者の「近代文学」を読み始め、本来中学生時代高校生時代に済ませておかなくてはならないこと、今になってやっているようなテイタラクなのです。がしかし、残念かな若き頃に読んでないわけで、ひと歳取った今、初老に差し掛かった歳になっても、尚、それでも、まず、読まなくてはコトが始まりません。読むことに、ようやく飢えて来たのです。
 そんなわけでして、
 確かこの3~4年、猛烈に読書を重ねていますが、オーベルジュにいた期間、それが出来なかった。
 しかし逆に考えれば、(一度メールで触れていますが)Field-Workができて、たいへん満足してます。
 今改めて必要な「フィールドワーク」が出来るなら、3ヶ月間の読書を中断してもやぶさかでなく、むしろ読書を中断してでも「やりたかった」内容でして、差引勘定はプラスであったと判断しています。

 その点、「書くことが好きです!」と宣言したYTさんに、あらためて拍手を送ります。
 今からも、おおいに書いてください。
 また、書くこと、(あなたは)上手ですよ。たいへん面白く読んでいます。
 私で差し支えなければ、どんどん読ませていただきますから、(私が)多忙になるくらい感じるくらい、書いてみてください。

’08.すずらん(#2)

2008-05-06 09:45:25 | 趣味の話&本と雑学メモ
<添付画像>:我家のすずらん
撮影場所: 我家の庭の片隅にて
撮影年月日:平成20年5月3日午前10時50分頃
天 候: 快晴(気温22℃)


 (先日記事〔こちらから入れます〕より続く…) デジカメで近接撮影した画像を掲載する、、、。

 この画像を眺めていると、「とある事」を思い出した。

 就職して初めて給料を手にした日(たぶん昭和42年の4月25日)の夕刻、給料袋を携えてカメラ屋に直行しペンタックスSPを月賦で買った日のことである。 確か?55mm標準レンズ装備にてソフトケースが付いて、定価3万円少々の価格だったはず。 もちろん初任給は5万円に至らず、会社の指定業者だったそのカメラ店は『給料天引き』の割賦支払が可能だった。 (今のようなクレジットカードなど全く無い時代です) さっそく給料袋から取り出した現金5千円を支払ってカメラの現物を手にする。 笑ってニコニコ!その後は、一回当たり3千円支払で延べ8~9回の割払いをした。 安月給取りにはたいへん高価な買い物だった。

 とにかく夢に見た一眼レフが手に入ったその日を境に、気分は一流アマチュアカメラマンになった。 休日ともなればカメラをぶら提げて「撮影」に繰り出した。 今のように車社会ではないから遠出はできないものの、市内の有名庭園などを散策し「花」を近接撮影して回ったのだ。

 今にして思えば、
 最初に撮影した花は、「つつじ」だったか。 
 その次が「バラ」、、、。
 その翌年の春が「さくら」だった、、、。

 「花を愛でる心」など皆無だったはずの我輩にして、カメラのレンズを通してようやく『草花の美しさ』に視線を向けるようになり、四季折々の自然界の織り成すモノノアワレに目覚めさせてくれたカメラの功績は大きい。

 大自然が創造した「花の造形と色彩」の美しさに、あらためて興味を持ち、本格的に近接撮影を始めたのは、カメラを手にした翌年からだった。

 かくして、カメラ初心者が一番最初に試みるのは「近接撮影」であるか、、、。

            <…完…>

’08.今年のすずらん

2008-05-03 17:45:15 | 趣味の話&本と雑学メモ
<添付画像>:我家のすずらん
撮影場所: 我家の庭の片隅にて
撮影年月日:平成20年5月3日午前10時45分
天 候: 快晴(気温22℃)


 やはり5月連休に入って本格的に花開いた……

 そうだ!

 もう一度鈴蘭記事を出そう。

 「……?!?」

 「いや、その、少しは素人写真家の入門【近接撮影】でもやって、奴素人芸術写真の真似事でもしなければ『鈴蘭の花』がかわいそうではありませんか……」

                   <…続く…

拝啓 志賀直哉先生…

2008-04-16 10:35:50 | 趣味の話&本と雑学メモ
<添付画像>:河出書房新社・日本文学全集(14)志賀直哉集

 このところエセ男爵的「ブログ更新不振症候群」の真っ只中にて、なかなか治癒しないから困っている。(困っているのは「トーマス青木」君であって我輩のことではない……)
 たぶん、この症候群に冒された最一回目は2006年夏場から秋口まで、さらに第二回目が昨年2007年8月上旬から晩秋までか? 第二回目の症状は未だ完治せず、現在も尚継続している。と云っても過言ではなかろう……
 彼の症候群の原因解明するに及ばず、既に十分な自覚症状を心得ているのだ。 言い換えれば「文章書けない症候群」であり、書こうと思えば思うほどますます書けなくなる「精神的障害」のことである。 書かなければますます書けなくなるという事だから、始末が悪い。
 てなことで、この厄介な精神的障害を乗り越えるには「良書の読書」しか解決方法がなく、このところむさぼるように明治大正昭和初期の巨匠たちの小説を再度紐解き始めたのである。いわゆる日本文学の古典の再読を始めたのだ。ここはしかし、やたら濫読ではなく、やはり好みの作家あり。好みでない作家の小説を読んだら最後、ますます日本語がいやになってくるから決して読まないよう心がけ、まずは夏目漱石に森鴎外あたりから始めて行き着く所、やはり我輩の場合は志賀直哉先生に到達する。 本音は「司馬遼太郎」先生から「開高健」さんなのだが、このあたりの再読となるともう一年掛かる。
 「ま、今回、これはやめておこう……」
 さて、志賀直哉の場合、猫でも杓子でも知っているのは「暗夜航路」。
 コレを読むのはヤバイ。暗夜航路は志賀作品の中でも駄作!?否、百歩譲って未だ当方の解明理解不行き届き?さらに譲って難解な交響曲的クラシック音楽か?と我輩は思う。
 やはり短編がよい。
 志賀直哉短編は、今から先の人生に於いても時にふれ折にふれて繰り返し読みたいものだ。
 さて本日、禁じて中の禁じてをやってみたい。つまり、偉大なる日本文学の巨匠の作品を丸ごと写してブログ掲載するというものだ。
 モノカキを志す人間、美しい文章を書きたいと願う人間は、だれでもやって通らなくてはならない手法がある。それは唯一、好きな作家の文章を「手書きで書き写す」こと。つまり「写経」と同じ、、、。
 エセ男爵は、否、不肖トーマス青木は、尊敬してやまない志賀直哉先生作品の中、「清兵衛と瓢箪」を模写してブログ掲載する。トーマス青木作品として発表掲載すればコレは歴然として盗作になるけれど、出処をはっきりさせて「トーマス青木的駄文」でも付け加えれば、コレは立派な文学論評になるからして怖くない。
 何故に志賀作品をよしとするか?
 志賀直哉先生の文章から、無駄な修飾語は一切見当たらず、物事を裏から眺めるような捻くれた感性も無く、あくまでも貴族趣味風の「自己主張」と「我が儘の一途」なのであり、そこには志賀流「男の粋」と「ダンディズム」に満ち溢れつつ「無粋」の腐臭は一切無く、漂ってくるのは香り高い白樺派の貴族的エスプリである。
 これを夏目漱石的に喩えれば、ひとえに「坊ちゃん」的な勢いであり、コレが夏目漱石的で良いのであって、「それから」的人生観に見受けられるデカダン風な逃避は全く無い。(志賀作品の中「暗夜航路」にこの逃避を感ずる…)
 「瓢箪と清兵衛」の文章表現から志賀直哉的嗜好が漂ってくる。発表された時期はなんと大正2年。今からかれこれ90年も以前に書かれた作品であるが、現代に通ずる美文である。(志賀作品の中、美文と称される作品はもっと外にあるようだが)我輩は小説の主人公「清兵衛」に、志賀直哉的美しさと力強さを感じる。(夏目漱石「坊ちゃん」に通ずる強引さを感じつつ)イチズに美形の瓢箪を好む清兵衛の素直な美的感覚に、志賀直哉好みの「理想の少年像」を観るのである。たぶん、当時の志賀先生は主人公清兵衛の持つ感性を「良し!」とされたに違いない。学校の教師にも両親にも理解されない「美的センス」や「卓越した能力」を持ち合わせた少年の可能性の芽を次々と摘み取りつぶしてしまう大人の閉鎖的常識は、今の時代にも通じる事象であるか。
 父親との間の不理解に悩む若き志賀直哉の例(たとえ)を挙げてみれば、
 「その夏、おおよそつまらぬことから、私は父と衝突した。一週間ほどして、父は宮城県の方に新しく買った小さな銅山を一緒に見に行かぬかと誘った。私は不思議な気がした。……」から始まる作品「山形」に、その確執が伺える。
 『清兵衛と瓢箪』の清兵衛は志賀直哉自身への置き換え可能にて、清兵衛の父(職業は大工)は志賀直哉の父(職業は鉱山経営の実業家)と同列であるか。
 この志賀直哉的切り口の小説は、過去のほとんどの論評において「私小説」的とも「微視的感覚」の小説とか称されながら、文学評論家的な枠組みで一括りにされているのが気に入らない。志賀直哉の感性は、そんなに狭小なものではなく、私的でもなく、もっと広大なところにあったと思うけれど、我国評論家感覚の視野狭く度量少なき証拠こそ、過去の「文学論評」の中で暴露されているようだ。だから評論家の屁理屈は不様でおもしろい。(ま、付け焼刃的論評論は急遽中止、こちらの勉強不足が丸出しになってますます恥をかく…)
 清兵衛の感性を通して、志賀直哉的深遠な人生哲学と美意識や美観が観えて来るのだ。日本的美観を通り越して西洋的美感を包括して止まず、この頃(明治末期から大正初期頃)すでに地球規模的なずうずうしさを持っていた日本人志賀直哉の世界観が伺える。つまり「清兵衛の凝り性」は志賀直哉の非日本人的な頑固一徹であり、「清兵衛の美的感覚」は(ここは瓢箪に置き換えられているけれど)志賀直哉の求める美の世界の象徴であったはず、、、。
 この志賀直哉的心意気を、こよなく尊敬してやまない、、、。
 まぁ~ いろいろ考えると面白い。
 前置きが長くなりすぎた。
 〆て、
 一時期の志賀直哉先生が遊んだ「広島県の尾道市」を舞台に展開する小説「清兵衛と瓢箪」!初めての方はこれを機会に是非ご通読いただきたい。既に読まれた方は再読されたし。。。

 そして「反省」!

 アァ~、こんなこと書いてるからますます書けなくなるのだ……

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[日本文学全集(14)志賀直哉集]より抜粋記載 P304~P307(約3,400文字)

   ― 清兵衛と瓢箪 ―

 これは清兵衛という子供と瓢箪との話である。この出来事以来清兵衛と瓢箪とは縁が断(ki)れてしまったが、間もなく清兵衛には瓢箪に代わる物が出来た。それは絵を描くことで、彼は嘗(katu)て瓢箪に熱中したように今はそれに熱中している……

 清兵衛が時々瓢箪を買って来ることは両親も知っていた。三四銭から十五銭位までの皮つきの瓢箪を十ほども持っていたろう。彼はその口を切ることも種を出すこともひとりで上手にやった。栓も自分で作った。最初茶渋(chya-shibu)で臭味をぬくと、それから父の飲みあました酒を貯えて置いて、それで頻り(shikiri)に磨いていた。
 全く清兵衛の凝りようは烈しかった。ある日彼はやはり瓢箪のことを考え考え浜通りを歩いていると、ふと、目に入った物がある。彼ははッとした。それは路端に浜を背にしてズラリと並んだ屋台店の一つから飛び出して来た爺さんの禿頭であった。清兵衛はそれを瓢箪だと思ったのである。「立派な瓢じゃ」こう思いながら彼はしばらく気がつかずにいた。 ――気がついて、流石(sasuga)に自分で驚いた。その爺さんはいい色をした禿頭を振り立てて彼方(mukou)の横丁へ入っていった。清兵衛は急に可笑しくなって一人大きな声を出して笑った。堪らなくなって笑いながら彼は半町ほど馳けた。それでもまだ笑いは止まらなかった。
 これほど残りようだったから、彼は町を歩いていれば骨董屋でも八百屋でも荒物屋でも駄菓子屋でもまた専門にそれを売る家でも、凡そ瓢箪を下げた店といえば必ずその前に立って凝(ji)っと見た。
 清兵衛は十二歳でまだ小学校に通っている。彼は学校から帰ってくると他の子供とも遊ばずに、一人よく町へ瓢箪を見に出かけた。そして、夜は茶の間の隅に胡坐をかいて瓢箪の手入れをしていた。手入れが済むと酒を入れて、手拭で巻いて、鑵にしまって、それごと炬燵へ入れて、そして寝た。翌朝は起きるとすぐ彼は鑵を開けてみる。瓢箪の肌はすっかり汗をかいている。彼は厭かずにそれを眺めた。それから丁寧に糸をかけて陽のあたる軒へ下げ、そして学校へ出かけて行った。
 清兵衛のいる町は商業地で船つき場で、市にはなっていたが、割に小さな土地で二十分歩けば細長い市のその長い方が通りぬけられるくらいであった。だから仮令(tatoe)瓢箪を売る家はかなり多くあったにしろ、ほとんど毎日それを見歩いている清兵衛には、おそらくすべての瓢箪は眼を通されていたろう。
 彼は古瓢にはあまり興味を持たなかった。まだ口も切ってないような皮つきに興味を持っていた。しかも彼の持っているのは大方所謂瓢箪形の、割に平凡な格好をした物ばかりであった。
「子供じゃけえ、瓢いうたら、こういうんでなかにゃあ気に入らんもんと見るけえのう」大工をしている彼の父を訪ねて来た客が、傍で清兵衛が熱心にそれを磨いているのを見ながら、こう言った。彼の父は、
「子供の癖に瓢いじりなぞをしおって……」とにがにがしそうに、その方を顧みた。
「清公、そんな面白うないのばかり、えっと持っとってもあかんぜ、もちっと奇抜なんを買わんかいな」と客が言った。
清兵衛は、
「こういうがええんじゃ」と答えて済ましていた。
 清兵衛の父と客との話は瓢箪のことになって行った。
「この春の品評会に参考品で出ちょった馬琴の瓢箪という奴は素晴しいもんじゃったのう」と清兵衛の父が言った。
「えらい大けえ瓢じゃったけのう」
「大けえし、大分長かった」
 こんな話を聞きながら清兵衛は心で笑っていた。馬琴の瓢というのはその時の評判な物ではあったが、彼はちょっと見ると、 ――馬琴という人間も何者だか知らなかったし―― すぐ下らない物だと思ってその場を去ってしまった。
「あの瓢はわしには面白うなかった。かさ張っとるだけじゃ」彼はこう口を入れた。
 それを聴くと彼の父は目を丸くして怒った。
「何じゃ、わかりもせん癖して、黙っとれ!」
 清兵衛は黙ってしまった。
 ある日清兵衛が裏通りを歩いていて、いつも見なれない場所に、仕舞屋(shimotaya)の格子先に婆さんが干柿や蜜柑の店を出して、その背後の格子に二十ばかりの瓢箪を下げて置くのを発見した。彼はすぐ、
「ちょっと、見せてつかあせえな」と寄って一つ一つ見た。中に一つ五寸ばかりで一見ごく普通な形をしたので、彼には奮いつきたいほどにいいのがあった。
 彼は胸をどきどきさせて、
「これ何ぼかいな」と訊いてみた。婆さんは、
「ぼうさんじゃけえ、十銭にまけときやんしょう」と答えた。彼は息をはずませながら、
「そしたら、きっと誰にも売らんといて、つかあせえのう。すぐ銭持って来やんすけえ」くどく、これを言って走って帰って行った。
 間もなく、紅い顔をしてハアハアいいながら還って来ると、それを受け取ってまた走って帰って行った。
 彼はそれから、その瓢が離せなくなった。学校へも持って行くようになった。しまいには時間中でも机の下でそれを磨いていることがあった。それを受持ちの教員が見つけた。修身の時間だっただけに教員は一層怒った。
 他所から来ている教員にはこの土地の人間が瓢箪などに興味を持つことが全体気に食わなかったのである。この教員は武士道を言うことの好きな男で、雲右衛門が来れば、いつもは通りぬけるさえ恐れている新地の芝居小屋に四日の興行を三日聴きに行くくらいだから、生徒が運動場でそれを唄うことにはそれほど怒らなかったが、清兵衛の瓢箪では声を震わして怒ったのである。「とうてい将来見込のある人間ではない」こんなことまで言った。そしてそのたんせいを凝らした瓢箪はその場で取り上げられてしまった。清兵衛は泣けもしなかった。
 彼は青い顔をして家に帰ると炬燵に入ってただぼんやりとしていた。
 そこに本包みを抱えた教員が彼の父を訪ねてやって来た。清兵衛の父は仕事へ出て留守だった。
「こういうことは全体家庭で取り締まって頂くべきで……」教員はこんなことをいって清兵衛の母に食ってかかった。母は、ただただ恐縮していた。
 清兵衛はその教員の執念深さが急に恐ろしくなって、唇を震わしながら部屋の隅で小さくなっていた。教員のすぐ後ろの柱には手入れの出来た瓢箪がたくさん下げてあった。今気がつくか今気がつくかと清兵衛はヒヤヒヤしていた。
 散々叱言を並べた後、教員はとうとうその瓢箪には気が付かずに帰って行った。清兵衛はほッと息をついた。清兵衛の母は泣き出した。そしてダラダラと愚痴っぽい叱語を言いだした。
 間もなく清兵衛の父は仕事場から帰ってきた。で、その話を聞くと、急に側にいた清兵衛を捕らえて散々に撲りつけた。清兵衛はここでも「将来とても見込みのない奴だ」と言われた。「もう貴様のような奴は出て行け」と言われた。清兵衛の父はふと柱の瓢箪に気がつくと、玄能(gen-nou)を持って来て、一つ一つ割ってしまった。清兵衛はただ青くなって黙っていた。
 さて、教員は清兵衛から取り上げた瓢箪を穢れた物ででもあるかのように、捨てるように、年寄った学校の小使にやってしまった。小使はそれを持って帰って、くすぶった小さな自分の部屋の柱へ下げて置いた。
 二ヶ月ほどして小使はわずかの金に困った時にふとその瓢箪をいくらでもいいから売ってやろうと思い立って、近所の骨董屋へ持って行って見せた。
 骨董屋はためつ、すがめつ、それを見ていたが、急に冷淡な顔をして小使の前へ押しやると、
「五円やったらもろうとこう」と言った。
小使は驚いた。が、賢い男だった。何食わぬ顔をして、
「五円じゃとても離し得やしえんのう」と答えた。骨董屋は急に十円に上げた。小使はそれでも承知しなかった。
 結局五十円でようやく骨董屋はそれを手に入れた。 ――小使は教員からその人の四カ月分の給料をただもらったような幸福を心ひそかに喜んだ。が、彼はそのことは教員には勿論、清兵衛にもしまいまで全く知らん顔をしていた。だからその瓢箪の行方については誰も知る者がなかったのである。
 しかしその賢い小使も骨董屋がその瓢箪を地方の豪家に六百円で売りつけたことまでは想像も出来なかった。

 ……清兵衛は今、絵を描くことに熱中している。これが出来た時に彼にはもう教員を恨む心も、十あまりの愛瓢を玄能で破ってしまった父を恨む心もなくなっていた。
 しかし彼の父はもうそろそろ彼の絵を描くことにも叱言を言い出して来た。

                    (大正2年1月 読売新聞にて)

出処:『日本文学全集(14)』志賀直哉集 抜粋記載
 P304~P307(約3,400文字)

日本文学全集(14)志賀直哉集
昭和41年6月2日 初版発行
昭和44年9月1日 五版発行
定価:580円
著者:志賀直哉
発行者:中島隆之 / 印刷者:多田基 / 装幀者:亀倉雄策
発行所:株式会社河出書房新社

------------------------------

〔参考資料〕以下紹介の「ちくま日本文学全集」の中に『清兵衛と瓢箪』の集録があるようだ。 志賀先生ご自身の論評もあるとの事、興味深い日本文学全集の現代版か、、、。

志賀直哉 (ちくま日本文学全集)
志賀 直哉
筑摩書房

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一度読んで、又読む・・「ヨーロッパの貴族、その歴史」

2008-03-29 13:45:45 | 趣味の話&本と雑学メモ
ヨーロッパの貴族―歴史に見るその特権

刀水書房

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貧乏貴族と金持貴族 (人間科学叢書)
マイケル・L. ブッシュ
刀水書房

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 わけあって(ボンクラ小説の執筆資料の骨組み構築の目的で)、とある面白くない本を開いている。


 【その-1】

 昨年のちょうど今頃、インターネット書房の「あまぞん」でまとめ買いした書籍のなか、「欧羅巴貴族」についての歴史的考察本だ。 捻じり鉢巻のハッチャキになって3週間もかけて読破したもの。 桜前線あれこれ云われるこの時期、ぼんくら小説の執筆は乳?否!遅々として進まず、やや寝ぼけ眼的に2度目の通読挑戦を計画しているのですなぁ~。

 ちなみに
 
 「……?」

 「そう、まことに馬鹿げているかも?……」

 何ゆえに馬鹿げているかと言えば、

 第一に、読み進めるに難解な、なんとも「やっかいな翻訳本だ」と言うこと、、、。
 第二に、昨今の世界情勢且つ我が国の現実社会の動きとは何等関係なく、読んでもあまり役に立たないということ。
 第三に、あまりにも典型的翻訳調子であり、読んでいて前後関係の文章は難解にて流暢ではなく、何度も何度も前ページを開きなおして読み進めるから非能率極まりない。 つまり、日本語としては余りにも読み進めにくい悪文の連続に加え、たぶん翻訳前の原典が古典ギリシャ語を含む汎欧羅巴語にて書かれているはず。 したがって翻訳者の非凡なる語学力をもってしても、かなり難解な翻訳作業だったはず。 著者もたいへんだったに違いない。

 ま、読んで楽しむための書籍として「この一冊」を取り上げれば、不快極まりない。 でも、この手の西洋史訳本には多く見かけるものかも、、、。 まあ歴史研究家の日本語力不足によるものか?はたまたオリジナルの文章が拙いのか?よく解らなくなって来るけれど、これには訳がある。 その訳とは、たぶん(訳本の原典を開いていないので確かではないが)英語フランス語ドイツ語スペイン語イタリア語のみならず、中央東欧さらには北欧からロシアにまたがるありとあらゆるヨーロッパ諸国の言語で書かれているはず。 この本の翻訳者は、そうとう多岐にわたる語学に通じた歴史学者のはずであり、それを考慮すれば、なるほど、砂を噛むような「この一冊」の日本語の羅列をもって「駄訳・悪訳」と決め付けるのはもってのほか。

 念のため、というより、著者と翻訳者の、類稀なる語学力並びに歴史的研究の深遠なることに『畏敬の念』をこめて、
  * マイケル・L. ブッシュ (著), Michael Laccohee Bush (原著),
  * 永井 三明 (翻訳), 和栗 珠里 (翻訳), 和栗 了 (翻訳)

 この一冊を通読したおかげで、他の西洋史関連書籍では見えなかったヨーロッパ中世史の「別の側面」が見える。 

  それぞれ国によって異なるものの、ヨーロッパ社会には今も尚、中世貴族の影響が多々ある(らしい)。 さらに、我国日本をよくよく見れば「ヨーロッパ封建社会」の貴族制度に近似していると思われて仕方ない。

 この一冊から見えてきたヨーロッパ社会における貴族とは? (今となっては正確無比ではないけれど)以下に記してみる。
A)中世封建時代の『大地主』
B)(時の)王の要請により、騎馬に乗って戦場に参加できる『戦士』(つまり騎士)
C)共和制国家ではなく、それ以前の専制君主的国家社会の時代になってから(おおよそ16世紀~18世紀)あたりから形成された中世国家社会の『高級官吏』

 以上、ヨーロッパ諸国共通して「この3種類」(大地主・騎士・国の高級官吏)の貴族が居たらしい。


 【その-2】

 となれば、このあたりから我国貴族社会と比較すればおもしろい。

 1.分類(A)にあてはまる貴族階級を我国にあててみると、なんと!「士農工商」の『農』のボスまで該当するか?時代をさかのぼれば平安貴族が全国の村々(邑々?)を割り当てられていたもの。 しかし鎌倉幕府以降の武家社会においては、武士の頭領がこれをあてがってもらったらしい。(正確には少々違うが) 室町時代から戦国時代を経て江戸時代に入った頃には、あらためて武家の頭領である江戸幕府が全国津々浦々の大名に、これらの土地所有をあてがったもの。 にもかかわらず諸大名には「お国替え」あり、一部の大名を除いてはいつなんどきおとりつぶしにあうか解ったものではなかった。
 ならばこの部分、おおよそ近世に近くなっては「村の庄屋」が実質的土地持ち的存在であり、明治維新以降は明瞭に「庄屋」あるいは都会の「豪商」あたりが土地持ちとなったはず。
 つまり、百姓の親分『庄屋さん』は、日本の貴族の一員だったのだ!

 2.区分け(B)において、我国の歴史上、大名はおろか家老職並びに足軽頭あたりまで「高級武家」に包括し、彼らは全員、貴族社会に属する存在であったのだ。 つまり、従卒家来を引き連れて「騎馬」にまたがって戦場に駆けつけることのできた武士は、ヨーロッパ社会における騎士と同じであり、彼らもまた貴族であった。

 3.カテゴリー(C)の国家高級官僚は全て、貴族階級であった。 ま、これが当てはまるのは江戸時代になってから明治時代まで。 こうして一旦平安時代あたりまでさかのぼり、あらためて我国の明治時代を顧みれば、すべからく貴族社会の成り立ちが見えてくる。

 まぁ、よく似たものだ。 日本とヨーロッパ社会の歴史的成り立ちが、、、!

 さらに見えるは、
 (只なんとなく)広大だ!と思っていたら大間違いのヨーロッパ(西欧)社会。 ヨーロッパは思ったほどには広くなく、地球儀を眺めコンパスで測れば、北海道の最東端知床岬あたりから沖縄県は石垣島まで測ってヨーロッパに置き換えれば、な、なんと、英国はエディンバラからイタリアの長靴の先はシシリア島まで到達してまだお釣があり、エーゲ海半ばまで到達すること、あらためて理解し両地域の歴史的に共通するものすら感じるのである。 さらには、我国日本も欧州諸国も、いずれも農業を機軸に歴史的発展を遂げた事実。 封建制度あって階級(貴族)制度の出現は農耕社会に必然のものと改めて認識し、このあたりから日本とヨーロッパ文化の基盤の共通性を認識する。


 【その―3】

 ならば、さらに解る。

 今のヨーロッパ社会が「EU連合化」していることが。

 たぶん、今のヨーロッパ社会における諸国間の関係とは、明治維新から江戸期にさかのぼった我が国の藩閥体制とそっくりであり、今にしてヨーロッパ社会が経済の側面だけと言えどもヨーロッパ共同体を築いたわけであって、かくしてヨーロッパも21世紀になってようやく日本の近代化(単一国家)に近似してきたと考えても何等不思議ではない。
 上述は飛躍しすぎであるけれど、つまり、現代ヨーロッパ社会が如何に国と国のつながりが深いかについて、想えば中世ヨーロッパの主だった貴族のほとんどが親戚関係にあるのだから、あらためて単一の「ヨーロッパ共同体」が成立しても不思議ではない。

 こうして、
 点と線、
 時代をさかのぼって時間空間を加え、
 西洋(ヨーロッパ地域)という面を考えるには、
 どうしても欠かせないテーマが「ヨーロッパ貴族」の考察なり、、、。

 いや、なかなかどうして、こうして殴り書きするだけでも出てくるは出てくるは!

 貴族研究あってこそ「ダンディズム研究」に繋がるのであるか。

 このテーマ「研究・ダンディズム」(関連記事、こちらから入れます…)にて、不連続的に連載したい……

出てきたお宝(2)

2007-10-25 09:45:15 | 趣味の話&本と雑学メモ
 「?!!……」

 また、出た!!!

 先週末のよく晴れた朝の事、探しものがあって倉庫に入ったら、またまた「お宝」(添付画像の通り)が出てきたのでご報告したい!

 
『故事・ことわざの辞典(定価:4,650.-)』
1986年1月1日  第一版第一刷発行
1990年1月10日 第一版第十二刷発行
          編集 小学館尚学図書
          発行所 株式会社小学館


 いかにも、ごっつい! 1277ページの圧巻である。

 先の記事にて案内した「広辞苑」と同じく、一度もページを捲られたことなく倉庫に眠っていた一冊、今の我輩にとっては、まさに「お宝」なのだ。
 
 想えば、過去40数年の長きに渡り国語を莫迦にし続け、日本語を粗略に扱い日本文化に親しみのなかった我輩にして、『故事・ことわざの辞典』の発掘は、まさに天の声とも言うべき発見なのである。

「・・・?」

 実を申し上げれば、我が国の歴史に疎く且つ日本伝統文化の素養浅き我輩は、このところ、あらためて日本語学習の重要性と必要性に開眼する。 つまり、古典や漢文を包括する国語学習に真摯に取組み、ひいては日本の文化や伝統をより深く知ってみたい、という小児的欲望の沸々と湧き上がってくる今日この頃、この一冊の発見はまさに青天の霹靂、且ついかにもタイムリーな出来事であるか。

 今日、来年のことを言うと「鬼が笑う」かもしれないけれど、一つ、来年は一年がかりで、この「一冊」を写経ならぬ写諺にて『手書き模写』してみたくなった。

 そう、一年かけて読破し、あわせて

    「これ!と思う、気になる諺」

を、(万年筆でもって、真面目に!)書き写してみたい。

 以下、さっそく今朝は寝起き掛けに「本書」の前書きならぬ「発刊挨拶?」文を書き写してみたので、以下に掲載しておく。

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故事ことわざの辞典
尚学図書
小学館

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 『発刊にあたって』

 「ことわざ」の「こと」は言葉で、「わざ」は、神業、離れわざ、などの「わざ」と同源で、行為やはたらきを意味するものと思われます。「言葉のわざ」、それが「ことわざ」の本義でありましょう。

 だからこそ、たった数語のかたまりが、人を動かしたり、勇気づけたりする力を持っているわけです。時には鋭く、時にはやさしく、また、時には素直に、時には皮肉に、はたらきかけます。それと同時に、ことわざは、人を傷つけたり、しりごみさせたりする力を持っていることを忘れてはならないと思います。

 長い歳月の中で育まれ、大勢の人々によって様々な場面で使われてきたことわざは、これからも微妙に変化していくに違いありません。それは、世の中の移り変わりによることはもとより、私たちみんなの使い方にも左右されるものと思います。私たちは、このことも心して、ことわざを的確に使いたいと思います。そのためには、まず、ことわざのよってきたるところや、意味、用法をよく理解する必要があります。また、その多様さを知っておくことも有益かと思います。この辞書の本文と索引とを活用していただいて、ことわざの理解を深め、ことわざの世界を広げていただければ幸いであります。


  昭和六十年十一月

小学館 尚学図書 


                (以上、本書本文より引用・転載する)

出てきた「おたから」・・

2007-07-23 23:58:30 | 趣味の話&本と雑学メモ
 よく晴れた梅雨明けの今朝(7月23日)、ちょっと「調べもたいもの」があったので、久しぶりに倉庫に入った。


 ところが「うれしいもの」! 発見した、、、。

 添付画像は、新村出編『広辞苑』第三版(岩波書店)である。昭和62年10月15日第3版第5刷発行・定価10000円、となっている。
 「手元に欲しい一冊、直ぐにでも買いたい!買って手元に置いておきたい・・・」
と、思いながら、なかなか手の出せない一冊なのでした。

 かの司馬遼太郎先生、曰く・・(数年前に読んだ司馬先生エッセイの中で見かけた、以下の流儀に記憶あり)
 「辞書は、年々新しくなる。古くなって使われなくなった言葉、つまり死語となったことばを削除していく。新しく使われ始めた新語の中、世の中に定着し始めた単語や熟語を取り入れて、新しい時代に合った辞書つくりをする。しかし、調べものをしたり、モノカキをやっていると、どうしても古い辞書を手元に於いておく必要ある。古くなったからといって捨て去れないのが『日本語の辞書』なのだ。だから(司馬先生は)古い辞書も書棚に置いて、必要に応じて使っている・・・」
 と、おっしゃっておられたのを思い出す。

 とにかく(私にとっての)「お宝」が出てきたからうれしい、、、。

広辞苑
新村 出
岩波書店

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 昭和62年発刊の広辞苑が我家に在るとは、ついぞ知らなかった。

「今迄、何故にこのような辞書が、我家に在ったを知らなかったのか?」
 等々、
         この辞書の出処経歴を考えた。

 なんと、ブックケースから取り出し、黒に白抜きの「広辞苑」とかかれているカヴァーを取り外すと、美しい青色の鮮やかな「上質クロス表紙」である。いかにも立派である。

 立派なクロスカヴァーの「表紙の下部」には、格調高くも銀文字刻み込まれ、

  *「新社屋落成記念」
  * 昭和62年11月 株式会社HY運送
              等と、文字列を刻んである!
                 これって!「限定版クロス表紙」なのか?

 これで全て解った!
 つまり、(わざわざ書店から買ったものではなく)我輩のオヤジが貰った(送呈を受けた)モノだ。と、判明!
 その昔、(我輩の親父殿は)大手運送会社を退職した後も、元気に(76歳になるまで)現役やっていた親父(一昨年、享年85歳にて他界)は、当時、下関の某運送会社の会長職をやっていた時代である。たまたま取引先の運送会社の落成記念に出席した「落成記念品」だったこと、判明する。本当にこの辞書の価値を解っていて記念品として選んだかどうか?これを貰った我家のオヤジもオフクロも、このドデカイ辞書を実際に使っていたのかどうか?
 今となって(いや、最初から)、そんなことはどうでも良い。 さっそく、多いに使わせてもらおう!
 時には倉庫に入ってごそごそしなくてはいけない!と、またなにか、お宝出てくるであろう!等と、あらためて思った。



  (投稿:執事のトーマス)
       from 「Cafe & Magazine 旅遊亭」より、引用投稿する。

 ま、時には『旅遊亭』にも立ち寄ってやってください。≒「エセ男爵」からのお願いです!

やまとミュージアム初見学雑記(2)

2007-04-15 00:05:15 | 趣味の話&本と雑学メモ
<画像>:戦艦大和の模型・呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)展示場より・・

 ?! 何と?


 添付の戦艦大和巨大模型は、縮尺10分の1ですと?




 28mm広角レンズで撮影しても、この巨大模型全体を「画像に収める」には難しい、、、。 

 さすがに「プラモデル大好き人種」! 日本人の為せる業か?

 本当によくできた模型である。

 よく作られた「模型」であるけれど、これを博物館入り口右手の大広間に展示してあるとは! この大広間はたぶんメイン展示会場のはず。 ならば、どうも納得できない・・・

 下記添付画像(ウイキペディアス百科事典より引用転載)と上記画像、見比べていただきたい。下記掲載写真は、まさしく現代の「石川島播磨重工呉造船所」のドッグと同じ位置、写真画像上部やや右手に見える貨物船のさらに右手辺りは、現在の「やまとミュージアム」の位置にて、JR呉駅付近か。


<写真引用>:)呉海軍工廠で建造中の大和(1941年9月20日)
 
 呉海軍工廠にて建造された「戦艦大和」、大枠の工事終了ののち、つまり進水式の終わった後の艤装工事中の画像と見る。

 撮影に使用されたレンズは、たぶん50mm標準レンズか。 それにしても、たまたま見学当時に撮影した大和模型の構図と、上記転載した実物実写画像の撮影角度はよく似ているから、不思議である。



 建造されて直ちに日本海軍最新鋭現役戦艦として軍籍に入った後、しばしば軍装備改装の工事されたと云われ、就役当時(上記掲載写真)は左舷右舷甲板中央部に副砲一基ずつ合計2基あった。 しかし、やまとミュージアム展示の模型に左舷右舷中央部の副砲を撤去し対空砲火に置き換えた、改装後の大和モデルか。戦艦大和の竣工就役当時、かくなる大艦巨砲主義はすでに時代遅れにて世界一を誇る46サンチ砲搭載の大戦艦といえども時はすでに遅し、海戦も航空機動部隊による航空戦時代の一歩寸前であった。かくして、いち早く対航空戦の必然性あって高射砲及び高角機関砲などハリネズミの如く装備された。

 そして、この模型こそ「戦艦大和」の最終段階「艤装」された実物に近い「モデル」であること、理解できる。

 「・・・!」

 だから、そこで話題戻し、模型としては立派ですが、、、

             「・・・?」

 先ほどまで戦艦陸奥の40サンチ主砲の原物を見学した後、『ブラモデル的ヤマト模型』を見るのは、まことに興醒め? 

                ・・・あまり面白くない。

 云いかえれば、現実味がなさ過ぎて「模型の大きさ」のみを自慢する「幼稚な表現方法」か。 この博物館のオープンされてのち、ほとんどの見学者が「この大きな模型」に感動しているらしいけれど、あくまでも模型は模型である。

 あまり感動しない! 面白くもなく可笑しくもない・・・

 「戦艦大和の巨大模型」をみても喜ばない喜べない感動しない我輩は、ひねくれ者なのか?・・・

 そう、子供は別にて「対象外」!

 おおいに喜べ! 喜ぶべし、喜んでよし!!

 しかし、いくら大きい戦艦大和模型といえども、たかが模型を見て喜ぶ我国成人男子在るは、如何なものか? 漫画を見て喜んでいる、TVの馬鹿騒ぎ番組をノー天気で見て喜んでいる? それと同等と考えるが如何?

 つまり、日本人成人男子並びに中高年野郎どもの不甲斐なさ幼稚さに、あらためて異を唱えたい。

 てなことで、
 まずは「やまとミュージアム」初入館の第一印象、模型の「馬鹿でかさ」にそこはかとない空しさを感じる・・・



  <・続く・・>


<注>: やまとミュージアム初見学雑記(1)は、こちらから入れます。


<参考URL>:

(1) 呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)〒737-0029広島県呉市宝町5-20 TEL0823-25-3017 FAX0823-23-7400
(2)ウイキペディア百科事典「戦艦大和」は、こちらから入れます。

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(参考資料)
呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)の「コンセプト」を下記に抜粋掲載する。


A. 博物館建設の趣旨

 呉市は,明治22年に呉鎮守府,明治36年には呉海軍工廠が設置され,戦前においては,戦艦「大和」を建造した東洋一の軍港,日本一の海軍工廠のまちとして栄え,また,戦後においては,戦前から培われてきた技術が新しい技術と結びつき,世界最大のタンカーを数多く建造するなど,我が国が戦後約10年ほどで世界一の造船国へ発展する一翼を担い,有数の臨海工業都市として発展し,地域の産業発展のみならず,日本の近代化に大きく貢献してきました。呉市海事歴史科学館(愛称:大和ミュージアム)は,明治以降の日本の近代化の歴史そのものである「呉の歴史」と,その近代化の礎となった造船,製鋼を始めとした各種の「科学技術」を,先人の努力や当時の生活・文化に触れながら紹介し,我が国の歴史と平和の大切さを認識していただくとともに,科学技術創造立国を目指す日本の将来を担う子ども達に科学技術のすばらしさを理解していただき,未来に夢と希望を抱いていただくことのできる「呉らしい博物館」とすることにより,地域の教育,文化及び観光等に大きく寄与することを目的とします。

● 博物館の基本方針
1. 造船技術等を通し,呉の歴史を後世に伝えます。(歴史的見地)
2. 呉が過去から深くかかわってきた科学技術を 新しい時代に生かします。(学術的見地)
3. 市民が生涯学習を実践していくための環境整備を行います。  (教育的見地)
4. 周辺施設と調和を図り,人々が集う施設とします。(まちづくり的見地)

● 博物館の方向性
1. 地域と一体となった博物館
2. 呉の歴史がわかる博物館
3. 科学技術の素晴らしさ・科学の原理のわかる博物館
4. 市民の自発的な学習を支援する博物館
5. 人が集まり情報を受・発信する博物館
6. 楽しむ場となる博物館

    ---------------------------------------------------------

B. 大和ひろば Yamato Hiroba

全長26.3メートルもある10分の1戦艦「大和」は,設計図や写真、潜水調査水中映像などをもとに,可能な限り詳細に再現しました。この10分の1戦艦「大和」は大和ミュージアムのシンボルとして平和の大切さと科学技術のすばらしさを後世に語り継いでいます。


 (以上、大和ミュージアム公式HPより、引き抜き引用掲載する・・) 

やまとミュージアム初見学雑記 (1);「輝く海軍写真帖」に寄せて・・・

2007-04-11 17:25:35 | 趣味の話&本と雑学メモ
<添付画像>:
撮影場所:広島県呉市「やまとミュージアム」の正面入り口
撮影日時:平成19年3月、中旬
天候:真冬に逆戻りしたかのごとく、春遠い冬型の曇天・・
撮影機材:CONTAX GI / Lens: Carl Ziss, Biogon2,8 28mm / Film: by Kodak,ISO400, to CDR-Cpoy,,,

* 「やまとミュージアム見学」の記事連載は、先に掲載した「拝啓 ますらお さま」・・に寄せ、tonoゴジラさまよりご寄贈頂いた「輝く海軍写真帖」に触発され、記事投稿に至るものである、、、。
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 今年3月中旬のこと、鉛色に曇った冬型気候的なる朝にもかかわらず、晴れやかな気分にて、いつもより早く起床する。前日より見学予定していた「やまとミュージアム」に行く。

 な、なるほど! たしかに変わった・・・

 JR呉駅構内はこざっぱりと建替えられ、呉駅前の様相は一変し近代化されているではないか! 海運業者関係の事務所や倉庫しかなかったはずの駅裏南側には、何と大型小売店舗も併設されているではないか、、、。想えば、かれこれ20年以上も呉駅界隈に所用なかった我輩の四半世紀を回想し始めるから面白い。まるで、浦島太郎丸出しであり、かくなる「呉駅周辺の風景」は、時代錯誤甚だしき我輩の目には「異形」としか写らない、、、。
 
 JR呉駅改札口から一旦は、正面出口に迷い出でる。

 あれこれ市街案内地図を見ていたら、地元の親切なオジサンは一人、躊躇する我輩に話しかけられ、ご親切にも「やまとミュージアム」への道順且つ方角を案内して下さった。
 「かくなる我輩は、広島人ぞ!」
 (その昔、呉にはよく来たものだ! でも今現在、我輩の躊躇振り不案内振りを地元の人たちからご覧になれば、呉市内はおろか県外の人間に見えるかも?・・・)
 たぶん、我輩の姿は、いかにも県外より呉市訪問した如く、「にわか観光客」にも見間違う立ち居振る舞い、その中年紳士は、いかにもそんな我輩のたどたどしき一挙手一投足を垣間見られた後、哀れに思われたに違いない、、、。
 ま、それほど多くの人々訪れる呉市になったは、「やまとミュージアム」のおかげか?・・・

 いかにも変わり果てた呉市異形(イギョウ)の一部、呉駅ビルに隣接の大型店舗を通り抜け、駅裏に出でてみれば、何と呉湾内の海岸の一部であった所は埋め立地に様変わりしている。 そこに「やまとミュージアム」と称する立派な博物館は新造されているのだ。
 さっそくミュージアムの正面入り口を撮影する。

 !?! 視界の右手に入る巨大鉄棒あり、、、。
 鉄棒は、何と! 戦艦陸奥(to Wikipedia,,,)の主砲ではないか!



 一刻も早く、目的の「やまとミュージアム」に入館するはず・・・!

 しかし今、それどころではない・・・

 しかと我輩自身の裸目にて、「戦艦陸奥の40サンチ主砲」の現物を、近く傍によって確かめなくてはならぬ、、、。

 画像では掴みきれぬけれど、上記画像に収めた一見「巨大鉄パイプ」の管の穴は、直径40cm であるか?!

 「ムム、直径40センチの弾丸を発射させるには、これだけ巨大な「鋼鉄パイプ(銃身?砲身!)を必要とするか?!」

 ちなみに、戦艦大和の主砲は46センチなのだ。僅か6センチの主砲の大きさの違いは、戦艦陸奥の排水量32,700トンからほぼ倍増にして、戦艦大和の排水量約7万トンの違いに至るのである。

 ま、とりあえず、(上記掲載画像をご参照・・)40サンチ主砲の巨大砲弾込めする「主砲の根元」に屯する人物(女性)の身長と巨大鉄パイプの根元の大きさ、比較していただきたい。




 そして、視た!

 しかと視ましたぞ!

 この口径40センチ主砲の「弾丸込め」する部分を!・・・

 専門兵器用語ど忘れにて、恥ずかしながら素人用語を使えば「砲門閉塞器(器≠装置!か?)」部分である。

 直径40サンチの巨弾を巨砲の根元部分から込めて発射する「大砲」の根元部分にかかる「火薬炸裂圧力」なるもの、如何に莫大なものか、逆に想像できる。だから、弾丸直径(40cm)の約4倍以上の直径の大きさであること、この眼でしかと確認した。さらに驚きなるものは、この主砲閉塞装置は、純度の高い「真鍮合金」でできているのだ。膨大な火薬量の炸裂は、瞬時にして砲身内部はたいへんな高温(たぶん数千℃)に晒される。高温に晒される砲身は錆びるし腐食する。

 この腐食に耐える金属こそが「真鍮合金」であると、あらためて認識する。かくして真鍮合金は、海洋船舶の大切な部分に多用される、重要貴重な「銅の合金」であること、なんとなく知ってはいたものの、実物を見て確認し、そして再認識する。




 上記画像は、ご存知!巨大戦艦の「推進器」と「舵」である。(舵は2枚、装備されていたはず!舵に使用する鋼材だけで、マグロ漁船の一艘程度なら、楽に建造できるのではないか!?・・・)

 ちなみに、後ろに写っている「乗用車」の大きさと比較願いたい!
(普通乗用車の20台程度は作れそうだ・・・)

 このスクュリュー2本!
* 投稿後加筆:(上記、コメント欄にて訂正!実は4本のスクリューを装備している・・)
 これが戦艦陸奥(排水量2万7千トン?)の巨体を、26ノット以上の速力にて海上を突っ走らせる推進器なのだ! 見聞きしたところによると、現在船舶の推進器にも同じ素材(真鍮)が使用されているとのこと。すなわち、80年も前に建造された戦艦陸奥(姉妹戦艦・長門)のスクリュー(推進装置・船のプロペラ)と、ほぼ同じ素材を今尚使用するとは、我国はすでに80年数年の以前に、完璧なまでの造船技術を持っていたことに他ならない。



 スクリューの製造は、まず設計図通りの鋳型に流し込んでスクリュー原型を鋳造してカタチを作る。その後は手作業により、経験豊富な熟練技術者の手作業により、微細な造型と厚みとバランスなど、整えられると聞く。 かれこれ100年ほど前に、我国海洋船舶造船技術は「世界の最先端」を走っていた事実を実証する歴史の証人(証拠品)は我が目前にある。 さらに、この巨大プロペラを4基もくっ付けて回す強力なエネルギーは、精工且つ巨大な重油ボイラー4~8基搭載していたはず、、、。



 上記掲載の絵画、在りし日の「戦艦陸奥」の雄姿である。

 そして、なぜか、戦艦陸奥の写真は少ない、、、。

 上記絵画は、改装される以前の「戦艦陸奥」の竣工当時の原形をとどめた姿として、貴重であろうか、、、。

 さて、
 話は「やまとミュージアム」見学から大きくそれてしまい、且つ、中途半端な記事になったか、、、。

 本日記事、かくして連載に入る。

 <・続く・・


 以下、
    
  (参考資料)

     ----------------------------------------------------------------------


「戦艦陸奥」(ウイキペディアより

 艦歴

発注:
起工: 1918年6月1日
進水: 1920年5日31日
就役: 1921年10月24日
その後: 1943年6月8日に爆発、沈没
除籍: 1943年9月1日
性能諸元(竣工時)
排水量: 基準:32,720t
全長: 251.80m
全幅: 28.96m
吃水:
機関: 80,000馬力
最大速: 26.7ノット
航続距離:
兵員:
兵装:


(以下、同ウイキペディア英語版より・・)

[Japanese Battleship, 'Mutsu']

Career
Laid down: June 1, 1918
Launched: May 31, 1920
Commissioned: October 24, 1921
Status: Sunk by internal explosion, June 8, 1943
General Characteristics
Displacement: 42,850 tons
Length: 221.03 m (725 ft 2 in)
Beam: 34.59 m (113 ft 6 in)
Draught: 9.50 m (31 ft 2 in)
Propulsion: Geared turbines, 4 shafts, 80000 hp (60 MW)
Speed: 27 knots (50 km/h)
Range: 5,500 nautical miles at 16 knots (10,200 km at 30 km/h)
Complement: 1,368

Armament:
 Eight 16 inch (406 mm) guns
 Twenty (later eighteen) 5.5 inch (140 mm) guns
 Eight 5 inch (127 mm) anti-aircraft guns
 Up to 98 25 mm AA guns

Aircraft carried: 3
 
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 以上、
 ウイキペディア百科事典より、日米資料を対比転載する、、、。

 なさけなや、、
 日本語版よりも英語版の方が、より詳しい「緒言」在るのは如何なものか?! すなわち、逃げ隠れするばかり、あるいは大東亜戦争の現実から眼を背けるばかりがのうではない。今や21世紀。ならば「過去の現実」に眼を開き歴史として正しく認識し、認知し、将来に伝えるは「文明国家」に住まうものの責任であり、教養の一部と考える。
 感情的且つ小児性痴呆症的思想の介入なくあくまでも冷徹に、社会科学的切り口により「我国の近代史」に曲解誤解あってはならず、且つ近代史の生き証人ご存命の時にこそ、書き物にされていない「口頭伝承」は大切と考える。これら現実と事実を風化させることなく後世に伝えて頂きたく、もって正しき歴史認識の必要を、あらためて想う、、、。
 さて、
 「やまとミュージアム」とは、上述の目的を全うすべき「性格」をもった博物館といえるかどうか? たった一度の見学では、よく理解できない、、、。

 そんなこんな、平成19年春爛漫の真っ只中なる本日の心境なり、、、。