西部瓦版〜ウェスタナーズ・クロニクル〜 No.58
ウィリアム・ウェルマン「女群西部へ!」(1951年、MGM)
西部劇はアメリカの映画監督にとっての通行手形ともいうべきものである。
エリア・カザンやジョージ・キューカーさえもが撮っているこのもっともアメリカ的なジャンルにあのフランク・キャプラが無関心であったはずがない。
キャプラがじぶんで撮ろうとしたがコロンビアから撮影許可が下りなかったオリジナルストーリーを友人のウィリアム・ウェルマンに語ったことでMGMでの映画化が実現した。
群像劇がすきなウェルマンがこのストーリーに食いついたことには納得がいく。
1851年。カリフォルニアに渡ってコミューンを形成した男たちの許へ、遥か三千キロを隔てたシカゴから150人の花嫁候補が苦難のトレイルを敢行する。
ロバート・テイラーがその護送役を任される。
150名という人数は道中で三分の一の者が命を落とすことを前提して割り出された数字。
決死のトレイルに志願した女たちは、いうまでもなく訳ありの者ばかり。
15人の男たちがこれに付き添う。ある者らは早々に女に手を出してテイラーに射殺され、別の者らはまんまと女を連れて逃げおおせ、また別の者らは先住民の襲撃によって命を落とす。
最後まで生き残る男はテイラーと狂言回しにしてコメディーリリーフ役の日本人(大好演のヘンリー・ナカムラ)だけ。
人物間の葛藤は簡潔に描写されるだけで、厳しい自然との戦いがこのジャンルにおなじみのかずかずのピトレスクなエピソードの淡々とした連鎖によって綴られていく。
本作にあって人間関係はあくまで自然とのマテリアルな戦いを媒介として形成され、育まれるのだ。言い換えれば、登場人物の精神的な成長がもっとも映画的な表現方法によって描かれるということだ。
英語いがいにフランス語、日本語、イタリア語が飛び交うポリグロットな映画であり、コミュニケーションの困難そのものが主題化されているともいえるが、そもそも全篇に亘って科白そのものが大胆なまでに削られている。
おそらくキャプラが監督していたら、はるかに饒舌な映画になっていただろう。
サイレント映画あるいはトーキー初期の映画かと見紛う瞬間に何度も出くわす。ぎゃくにいうとそれだけヴィジュアルとサウンドそれぞれのインパクトがつよい。
たとえば出発直前、花婿候補の写真を各々品定めする女たちをよそに、テイラーに熱いまなざしを送るデニーズ・ダーセル(ラストでテイラーと結ばれる)のアップへのゆっくりとしたフェイドアウト。
女らを乗せた幌馬車の列を盛装して迎える男たちを包む静寂。
先住民の襲撃で命を落とした女らの名前がひとりひとり呼ばれる場面はもっともエモーショナルな場面のひとつだ。
女らが三々五々、親しかった者の名前を告げる度に、キャメラがパンしてその傍の無残な亡骸を映し出していく。
絵画的な構図に収められた亡骸のいちいちに哀悼の意を捧げるかのようにキャメラが一瞬フィックスになる。
かつてクリント・イーストウッドはウェルマンの西部劇を「絵のように美しい」と形容したことがあったっけ。
省略的なのは科白だけではない。これもウェルマン一流の“見せない”演出が冴え渡る。
男の一人が手出しをして抵抗された女性を殺す場面は完全に省略に委ねられる。
イタリア人女性の息子の命を奪う銃の暴発事故もフレームの外で起こり、事態はわれわれ観者に一瞬遅れて伝えられる。
ジョン・マッキンタイアが命を落とす先住民の襲撃も、遅れてその場に到着したテイラーの視点によって事後的に、不意打ち的に報告される。
いうまでもなく出産の場面も、テイラー(=観客)の目を遮る幌馬車の覆いの向こう側で進行する。
音楽の使用もきわめて禁欲的。
スター女優は一人も出ていない。女優がこれほどむき出しの自然光に容赦もなくさらされているハリウッド映画もめずらしい。女優たちは役柄どうように過酷きわまるロケーションに耐え、サバイバルの術を学んでいった。そのようすを伝えるメイキング短編映画(Challenge The Wilderness)が撮られている。
女性をフィーチャーしたウェスタンは数あれど、これほど反フェミニズム的な作品はない。テイラーは兎を撃とうとして馬のスタンピードを引き起こしかけたダーセルを鞭で打擲する。逃げ出したダーセルを猛スピードで追撃するチェイスシーンでは同じダーセルに強烈な往復ビンタを喰らわせる(その直後に無言の抱擁シーンがくる)。“男性映画”の代表的な撮り手であるウェルマンの面目躍如というべきか?それにもかかわらず、女性たちのたくましさに捧げられたこれほど篤いオマージュがかつてハリウッドで撮られたことはないだろう。
脚本は『赤い河』のチャールズ・シュニー、撮影は『裸の拍車』のウィリアム・C・メラー。製作ドア・シャリー。