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西部瓦版〜ウェスタナーズ・クロニクル〜 No.59
レオ・マッケリー「人生は四十二から」(1935年、パラマウント)
パリ。堅物のイギリス人執事(チャールズ・ロートン)がポーカーの抵当としてアメリカ人夫婦に売り渡され、かれらの故郷であるワシントン州の片田舎に連れていかれる。
威厳のあるその物腰からセレブと勘違いされ、ちょっとした騒動が巻き起こる。
独立して食堂経営に乗り出した執事はみずから“奴隷根性”を抛ち、コミュニティの面々に For He’s a Jolly Good Fellow の大合唱で迎えられる。
キャプラと並び称されるアメリカン・コメディーの巨匠が手がけた本作は、わが国では西部劇とみなされていないようだが、欧米の西部劇事典のたぐいにはかならず載っている。
なるほどヴィジュアル的には西部劇的なイコノロジーに乏しく、前半のパリのシーンはおよそ西部劇的な展開を予想させるものではない。
とはいえ、その主題およびアメリカ的な精神のおおいなる顕揚によって、本作は西部劇の王道を行くものであるというべきだろう。
“奴隷”解放というドラマが執事の精神的な自己解放をつうじて物語られる。
料理の趣味の違いから口論がはじまると、ロートンはザス・ピッツ(ラストで結ばれる)に「国際紛争はよしましょう」という。
まさに文明の衝突が本作のテーマであり、ヨーロッパ的“洗練”とアメリカ的“野蛮”の誇張された対照がギャグのシチュエーションとして利用される。
とはいえマッケリーはそのいずれにも肩入れしない。
粗野なアメリカ人がこれでもかとおちょくられるとどうじに、しゃちほこばったヨーロッパ人と対比されることで、ぎゃくにかれらの精神的な開放性と飾りけのなさが魅力的に映るという仕掛け。
マッケリーの笑いはいつもパセティックな要素と不可分に結びついている。たんなるギャグで終わらない。
隠れた主役はグルーチョ・マルクスさながらの自由人であり、主人公の魂の導き手となる主人を演じるチャールズ・ラグルスだ。いっぽうで、アメリカ人たることに劣等感をもちつづけ、ヨーロッパ人になりたいと願ってばかりいる妻(メアリー・ボランド)がいちばん損な役回りを演じる。
マッケリーこそ人間というものをいちばん理解している映画監督だ、とジャン・ルノワールがたしかその自伝でのべている。
ルノワールはアメリカで撮った『自由への闘い』(ダドリー・ニコルスとの共同脚本)で、同じく精神的な脱皮を遂げる主人公をロートンに演じさせているが、残念ながら駄作である。
酒場でロートンがゲティスバーグ演説の一節を滔々と暗唱してみせる有名な場面がある。
「リンカーンもゲティスバーグで言っているように……」と主人がいつもながらの知ったかぶりをすると、妻が「何を言ったの」とツッコミを入れる。しどろもどろの主人が常連客に助けを求めると、尋ねられた客はその隣の客に同じ問いをフり、その客がまたその隣の客に、というふうに“無知”の暴露がつぎつぎと連鎖していくさまをキャメラが流麗な移動撮影で追っていく。
そこで何事かをしきりに呟き続ける斜め後ろからのロートンのアップが続く……。
クライマックスでの「演説」がアメリカン・デモクラシーへのオマージュを捧げるという状況はキャプラ(あるいはチャップリン?)の映画をおもわせるにじゅうぶんだ。
本作で編集を手がけているエドワード・ドミトリクの回想によれば、この場面でのロートンの百面相が試写で不評を買ったため、ロートンのショットを減らし、“聴衆”のショットを増やしたという。正解だろう。
大げさなこの“名場面”の陰に本作は数々の小さな楽しみを隠している。そのひとつとして元主人役ローランド・ヤングと歌手役レイラ・ハイアムズ(『フリークス』)のあいだで演じられるほのぼのとしたドラムのギャグを挙げておきたい。
本作はチャールズ・ロートンの最初のコメディーになる。監督にマッケリーを指名したのはロートンのほうであるらしい。
原作はこれ以前に二度映画化されており、ジェームズ・クルーズが監督した二度目の映画化(1923年)で執事を演じたのはあのエドワード・エヴェレット・ホーントンである。
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