Negative Space

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昭和イデオロギー:『喜劇・急行列車』

2014-10-20 | 瀬川昌治


 瀬川昌治『喜劇・急行列車』(1967年、東映)


 寝台車で騒ぐ水商売の女たちの客室に検札に来た渥美。根岸明美がデコルテのワンピースからはみ出した胸の谷間に切符を挟み、車掌を挑発。迷うことなく傍らで弁当をぱくついていた女の割り箸をとりあげ、器用に切符をつまみだしてまた谷間に戻し、割り箸を女の手元に戻す渥美。

 ドキュメンタリー的な場面でよりも、こういう途方もないイマジネーションによって織り上げたディティールをとおして国鉄職員のプロフェッショナリズムを見せようとする演出は正解である。

 また、この早業は女性の着ている下着を剥ぎ取る掏摸の離れ業に呼応している。つまり車掌の出歯亀体質が笑いのめされているのだ。

 難病の子供(昭和まるだしの子役のおしつけがましいアップ)を励ます場面ではモノクロの車輪のアップがオーバーラップする。

 笑いあり涙あり……。列車ものの醍醐味というわけだ。サイレントクラウンの時代からジェリー・ルイスを経て北野武にいたるまで、喜劇映画はつねにオムニバス的(エピソード的)であったのであり、またそうあるべきものなのだ。

 「運転手の助手」ていどにしか思われていない車掌は、じっさいには車内を掌るキャプテンである、という渥美の親玉体質的なナレーションひとつとっても、農本主義=村落共同体的、軍国主義=八紘一宇的な車掌・渥美のイデオロギーが透けて見える(そもそもこのシリーズは元交通官僚の大川博の発案による)。軍国少年の過去あからさかに引きずった下駄面の車掌が主役のブラックすぎるコメディー。乗客のプライヴァシーに何かと首を突っ込もうとするさまがきわめて不快。いまのJRの、乗客を幼稚園児扱いする車内アナウンスひとつとってもそのナチ体質はまったく変わっていないことがわかる。昭和の風俗をなつかしがっているバヤイではない。

 しかし、それだけではコメディーとして成立しない。翻って車掌自身のプライヴァシーが危機にさらされるところがこの喜劇のキモ。(明らかにプライヴァシーということそのものが本作のテーマになっている。)

 乗客が産気づくが、夫の浮気を疑い、たまたま乗り込んでいた妻役の楠トシエがなぜか都合よく産婆の免許をもっている。ミッションを果たした楠が、乗客と職員たちの歓喜の輪の外で一人、疲労と安堵の体で首筋の汗を拭うショットは色っぽくも感動的であり、その姿をただ一人見守り、ねぎらいの言葉をかける渥美に観客はここではじめて心からの共感を覚える。

 和解した夫婦が長崎の公園でデート。ベンチで夫に寄り添いみかんを食べさせる妻をよそに「あー、しょんべんしてえ」と渥美。平成日本のスクリーンではまず耳にすることのない野蛮にして郷愁を誘う台詞だ。ラスト、尿意を抑えかねた渥美が薮に走り込むと、部下と婚約者(大原麗子。最高にチャーミング)がいちゃついている。笑いながら坂を下っていく二組のカップル。残尿感をのこしつつ、映画は終わる。

 掏摸の相棒の子犬を連れたジェーン・マンスフィールドふうずべ公もいい感じ。間違って客室の扉を開けた車掌目線でずべ公の足許から巨大な帽子までをキャメラがなめるようにティルトアップするのだ。

 嗚呼!女たち! 最高のコメディーはこう叫ばせてくれる。佐久間良子は残念ながら犬ころとしか見えないけれども。