Negative Space

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『スター・ウォーズ』から『天井桟敷の人々』へ:『真田幸村の謀略』

2014-10-06 | 中島貞夫
 中島貞夫『真田幸村の謀略』(東映、1979年)

 田中陽造が十勇士、松本功がアクション、中島が真田父子の葛藤という分担で書かれた脚本の収捨がつかなくなり、笠原和夫にお呼びがかかり、全面的に改稿。

 山窩(「草の者」)としての十勇士が体制=家康と『スター・ウォーズ』ふうの合戦を繰り広げる。笠原は網野善彦が楠木正成に集約させた「非農業民」=「悪党」のイメージを真田幸村にオーバーラップさせる(『映画脚本家・笠原和夫 昭和の劇』)。われわれすべての先祖であり、身分社会において「」として被差別民となる以前の「わけのわからない、ウロウロしている」衆。

 その意味で、主人公は高貴な血筋の真田ではなく、猿飛であるはずだが、猿飛を主人公にすると、果てしなくアナーキーなお話になってしまう。「『仁義なき戦い』もそうなんだよ。あれは文太を一番描いていないんだけども、あの文太がいないと話がバラバラになっちゃうんだよね」。そもそも、『仁義なき戦い』の意義は、その断片的な構成が、がっしりした構成の虚構が成り立たなくなった事実を身をもって示していることにあった。その捨て身の劇作術のうちに、笠原が掴んだのは、「いろんな要素というものを全部分解しちゃって、それを無理に統一させないで、バラバラなものをバラバラなままに描いておいて、なおかつ全体に統一感を持たせる」という方法論であるが、意外にもそのレフェランスは『天井桟敷の人々』であるという!

 「[主役が]いないけれども全体に統一感がある……。単にバラバラだというだけじゃなく、全体を通して、ひとつのワールドというか、美的調和というものの中にきちんとはめこんでいるところが『天井桟敷の人々』の凄いところでね」。

 そして『仁義なき戦い』において、この「美的調和」は、具体的には、第四部のラストにおける文太と旭の別離にみられるという。「五部をやらなかったというのも、そういうことがあったからでね。あれで五部をやったら、一部から全部崩れちゃうんですよ、美的調和が」。

 さらにコメントはつづく。「ドラマというのは極端にいえば、僕はシンフォニーだと思うんですよね。シンフォニーというのは、それぞれのパートをバラバラに聞いたりしててもよくわからない。全体を聞いても、部分的なものはわからない。二時間なり、三時間なりが過ぎて終わったあとに、聴衆の心の中に何かが残る。それが僕が言う美的調和というものなんですけどね」。

 というわけで『真田幸村の謀略』、見かけはキッチュだが、奥が深いのであった。 

 錦之助、千恵蔵、松方と若手衆のギャップ。清海入道を女性にしたのは笠原の発案らしい。佐藤勝のグルーヴィーな音楽。

 緑がかった「潰し」の色合いが中島のお気に召さなかったようだ。「現代劇をやっていると潰しなんてあんまり使わなくなる」(『遊撃の美学』)。言われてみればアメリカの夜って、すぐれて時代劇映画の修辞なんだな。