Negative Space

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田舎槍芸人の日記:『下郎の首』

2012-07-29 | その他
 伊藤大輔の『下郎の首』(新東宝、1955)。

 囲碁ぐるいの旗本が、同じく囲碁ぐるいの客人に殺される。どちらも囲碁のことになると理性を忘れる質であることがほのめかされるも、殺害の場面の描写はまるごと省略されていて、われわれが目にするのは座敷にうつぶせに倒れたあわれな主人と、軒石に残された客人のものらしき人差し指の先だけである。

 フェイドアウト。

 にぎやかな広場で大道芸人が槍を豪快に操っている。いざりが物乞いをしている。鼻のない老婆が三味線を鳴らしている。どこかおどろおどろしい雰囲気がたちこめている。やがて大粒の雨が。あわてて雨宿りする人々。くだんの槍芸人(田崎潤)は、駆け込んだ軒先で、その家の女主人に声をかけられ、茶をふるまわれる幸運にあずかる。美丈夫のかれは、どうやら女主人(嵯峨三智子)に気に入られたらしい。

 ふたりの会話から、槍芸人が殺された旗本の息子の家臣であるらしいことがわかる。かれは復讐の旅に出た息子のお伴で、長旅で体をこわした主人を甲斐甲斐しく世話している。

 女は囲われもの。借りたものを返しに来た槍芸人を家に上げているところへ、旦那の急な訪問。やましい関係ではないものの、見つかったら厄介だ。男はなれない正座のせいで、足がしびれてなかなか立ち上がれない。艶笑喜劇みたいな一幕。押入に隠れるものの、すぐに旦那に見つかってしまう。となんと、人差し指の先のないその旦那こそ、驚くことか、主人の敵そのひとにほかならなかった。

 女中の浦辺粂子が旦那に折檻されるところがちょっとエグい。

 斬りつける旦那から身を守るためにがむしゃらに逃げ回る槍芸人。自分の命はちっとも惜しくないが、自分がいないと病気の主人が暮らしていけない。と、どこまでも主人思いのまじめな男。もみあっているうちに、はずみで旦那を斬ってしまう。さあ、たいへんだ。結果的に主人の望みを果たしたことにはなるが、主人が命を賭けている仕事を家臣の分際で横取りしてしまうという、あってはならない挙に出たことに。

 家臣思いの主人のほうも苦悩のきわみに追いつめられるが、そうこうするうち追っ手が迫る。いまや自分たちのほうが復讐の的なのだ。くだんの女性の協力を得て逃亡するも、すぐに居所をつきとめられ、追っ手は主人に書簡を届け、下手人の槍芸人を引き渡せと要求する。さもなければ、手段を選ばず、主人ともども亡き者にするぞ、と。

 さあ、何と返事を書くべきか。ここで主人の苦悩は頂点に達する。スクリーンいっぱいに映し出された白紙の用箋をバックに主人の内的独白がヴォイス・オーヴァーで長々とつづく。ブレッソンの『田舎司祭の日記』をおもわせる実験的な手法。

 野暮なことを言うようだが、この作品の中で、文字はいわば悪を象徴するものと見なされている。文字が読めないことが、槍芸人のあるしゅの無垢をあらわしているのだ。そういうテーマにふかく結びついているからこそ、このアヴァンギャルドな演出がまったく不自然には感じられないのだろう。

 ナンセンスな効果音をふくめ、思わず笑ってしまうようなモダンな(?)趣向がちりばめられた、しかしどこまでも真摯な時代劇。その意味では、ちょっと成瀬の『お國と五平』のノリに似ているかも。

 オープニングからして意表をつく。鉄橋のシルエットが車窓を流れ去っていくデザイン性ゆたかなタイトルバック。それが終わると、鉄橋を渡る電車とその脇を自転車をこいで過ぎる人たちのロングショット。

 キャメラがパンして、道端のお地蔵さんを映し出す。ここでおもむろにお地蔵さんのヴォイス・オーヴァーが入る。味のある渋い声で、わたしは遠い昔ここで起こった出来事の一部始終をしかと目撃したのであ~る、とかなんとか。つまり、物語全体がお地蔵さんのフラッシュバックという体!

 トレードマークのよく動くキャメラは、いつもながら流麗のきわみ。ハビエル・バルデムかと見まがう田崎潤が、おひとよしの槍芸人を好演している。ラストは『白昼の決闘』みたいに、血まみれの男女が手をとりあって大地に倒れていたりするんだけど、このあたりはおよそ説得力ないなあ。