うーん、午前中脚がフワフワしていた(>_<)
和身塾で感じさせていただいている軽い脚に近いけど、脚の感覚がなく地に着かない!
そのため脚に実感や手応えが欲しいのか、脚を踏もうとして脚の力に頼ろうとしている。
結果、脚が明確になくフワフワしているけど、脚を頑張らさせて重い脚ということになっている。
身体のバランスも悪く、走っていて上半身だけが前に突んのめる。
うーん、何でだろうと考えていたら、クーラーを付けたまま、居間でそのまま寝落ちしてしまったからだと思い浮かびました😅
途中気づき消しましたが、やはり体に不都合が起こりますね。
体だけでなく色々と不都合だと思います。
揺れないようして動くより
揺れながら動く方が
軸がとれたり安定したり
するんだなぁ
と自分だけでなく色々な方が実感している!
思考優先にならないとか力まないとか、揺れと揺れとの相殺などあります(もっと細かい仕組みではあります)が、行っている方はそういう仕組みより自分で実際それを体感して知り、覚える(そして現実やってしまっているので理屈は解らずとも納得しやすい)。
それはその人にとっての現実の姿であり、頭で解ろう、頭で指令して動かそうとしているより、ラインと体から入ってくることをそのまま受け入れているのだと思う。
そこから、だんだん何故こうなるんだろうという仕組みに意識が向くのかなと想う(必要なければ向かなくても良いと思いますが)。
そうして体で感じた感覚と仕組みが重なればさらに自分の中での体の感覚と頭の理解が繋がり、体と頭の行き来ができより動きやすく修正しやすいものになっていき、記憶が強くなるように思えます。
人工知能ではないですが、自分自身で体感・経験を積み、それを頭で記憶され、より機能的にし、修正速度も速く、しやすくしていくのではと思いました。
それの繰り返しで本来ある能力をドンドン引き出していくことでしょう。
・・・自分のセッション後にスラックラインを行ってもらいましたが、他者介入より本人で変化してもらうほうが本人自身の心身の変化の充実感、興味、修正しようという心構え、体やマインドへの興味が違うように思えました。
自立という風に言っても良いかもしれません。
それが楽しいということが大きければ、自然とそれらをやっていたりします。
自分ももっとそういうことをやりたいですね~
もちろん、他者介入というかサポートは大切な部分ではありますよ~。
ただ他者が何かをしてくれるという依存的にさせてはいけない、自分の体、自分という存在は自分で変えられたり、修正出来たりしていただきたいなぁと思いますが(これ以上は誰かに頼った方が良いという判断も)。
存在がここにない
体現の1つをしました!
今日はある同好会に参加することで、代々木まで行くことになっていました。
自宅で準備に手間取っていて
!
「もう出ないと間に合わない」
「いつも何時に代々木だから、電車で何分!」
「あっ!歩くともう少しゆとりを見ないと」
など、自宅から現地までのシミュレーション、
時間は経ち、遅れて参加になるなぁ思いながら準備して、移動。
何分だ?
「いつもなら新宿だな!」
「もう代々木に着いているな!」
という、電車に乗っているイメージ
電車の中で
「もう始まっているかな?」
という集合しているイメージ
少し経ち
「これをやっているのかな?」
「自分はどの辺りで参加できるのかなぁ」
という参加している想像
駅に到着し、
雨がポツリ!
「あっ!雨だ、傘買わないと!すごく並んでいるなぁ。また遅れてしまう、参加するといっておきながら、ドンドンやれる時間、体感する時間が少なくなるなぁ」
という、アクシデントによる現地で行って何かを得ている想像
そして、現地到着
誰もいない?
「あれッ!雨が少し降っているから、どこか雨宿りかな?」
と辺りを見渡す
「場所間違っていたかな?」
イベント情報確認
中止という案内
さらに私へのメッセージにも、中止にしますという連絡も来ていました。
Webや車のナビゲーションの地図で、
現在地を矢印↓を示しています。
行く先の場所を確認しようと移動させると、矢印は現在地のままで、画像だけ行き先の場所に行けますね。
これと同じで、
自分という「現在地」があるのに(存在があるのに)
気持ちは行く先に行っているということです。
なので、現在地、存在が今ある、ここにある状態でどうするかが大切なのだなと想いました。(絶対それで、うまくいくということを言っているのではないです)
そうすれば、
メッセージや案内を見るかもしれない、確認するかもしれないなど、その場で何かを気づいたり、思ったり、考えたりするという、何かをすることができると思います。
しかし、それが行く先に行ってしまっていたら、存在がないのに、あれこれ考えたり、予測するだけで何もできないということです。
いやぁ、素晴らしい体験をしました♪
体のことのにほとんど知識がない方に
背骨の動きを伝えた
パートナーにタッチしてもらい
どのように動いているか自分で感じてもらえるようにしました
その後動いてもらったとき
「背骨がわかる~」
と特別誰に伝えるという感じでもなく口から出てきていた様に見えました
また、別の方は
背骨の椎骨の屈曲伸展の動きのイメージを
「ダンゴムシみたい」
だと
フッと口に出してくれました
この、口から出てきた!何気なくとか、フッと出た
ということは非常に大きなことだと思います。
これは頭でこう動くようにと考えて出た言葉ではなく
体で動きを感じイメージが湧いてきた言葉です
これは
頭からでた言葉
と
体から出た言葉
の違いではと思います。
こういう時は体に素直で自分に素直なのだと思います。