の続きです。
新倉浅間神社に続いて行ったのは、
です。
社伝によると第五十代桓武天皇の延暦十二年、
征夷大将軍坂上田村麿が東征の折り、
此の地より、冨士の山容を拝し戦捷を祈請、
数々の苦難・災いを断ち、四年にして大勝のうちにその功業を収めたので
時に大同二年(皇紀一四六七年・西暦八〇七年)、社殿を草創したという。
当神社の社号は、最も古い記録では「宮」と記され、
時代が下り、近隣各村で浅間神社が祀られるようになると
「下宮浅間神社」「富士下宮浅間宮」と呼称されていましたが、
明治期に入り現在の「小室浅間神社」と改称されるようになりました。
「小室(御室)」とは、そこに神霊が常在するの意だそうです。
御神木の桂の木です。
南北朝時代、鎌倉で討たれた、
大塔の宮・護良親王(もりよししんのう/もりながしんのう)(後醍醐天皇の皇子)の御首級を
雛鶴姫が負って落ちのび、この地に葬ったという言い伝えがあるそうです。
小室浅間神社では、
毎年9月19日の例大祭に流鏑馬(やぶさめ)が行われます。
武士が武技練磨のため、騎馬で狩衣装を着け矢で的を射る流鏑馬とは異なり、
神事として神社に奉納される行事だそうです。
春の播種期に里に降りた祭神が、秋、富士山二合目の山宮に帰るとされ、
その秋祭りに流鏑馬を奉納し、翌旬再び里に降りるまでの間、
争いや火事などがないように祈願し、
馬の馳せた蹄跡による吉凶の「馬蹄占い」は
世襲の「占人」の存在とともにこの神事を著名なものにしている。
その流鏑馬の神馬がここで飼われています。
全部で三頭、
とても人懐っこいお馬さんたちでした。
首を撫でてあげると喜びます。