の続きです。
に行きました。
この季節、花も少し咲いていましたが、
やはり、見所は、紅葉ですね~!
↑ここは「ロックガーデン」~「ドッグウッドガーデン」の付近です。
左に見えるススキのでっかいのは、「パンパスグラス」。
↑ここは「ウォーターガーデン」
↑こちらも「ウォーターガーデン」
↑そんでここは「メイプルガーデン」
11月29日(日)まで「紅葉ライトアップ」が行われます。
メイプルというのはカエデのことですが、
西洋カエデは真っ赤にはならないようですね。
↑「メイプルガーデン」のモミジバフウ
黄色と橙のグラデーションが綺麗でした。
↑「ウォールガーデン」のヒメリンゴです。
たくさんの実がなっていました。
この日は「イベントセミナールーム」で、
ジャズの生演奏もやっていて、
まだ本番前のリハーサル中でしたが、
ボーカル、フルート、ピアノの生演奏が聴けました。
調布市郷土博物館 へ、
を観に行ってきました。
調布市郷土博物館の開館35周年記念だそうです。
ただし、場所はとても分かり難いところでした。
京王線の京王多摩川駅の直ぐ近くというので、
それほど遠くないので、車で行ったんですが、
途中からとても細い道に…
車が一台やっと通れるぐらいの道で
この道でいいのか?
と不安になりながらも
なんとかたどり着きました。
入館料は、
嬉しいことに無料でした!
館内は写真撮影禁止とは書いてなかったけど、
気がひけたので、ちょっとだけ。
上の写真(二枚目の写真)は、入り口を入って直ぐに
入館者を出迎えるかのような、
おそらく、新撰組の近藤勇局長と思われます。
何にも説明がありませんでした…
たしか、近藤勇局長はこの辺りの出身だったような。
深大寺 というと、
『深大寺蕎麦』が有名ですが、
調布市の由緒あるお寺のようですね。
昔から豊富な湧き水があって、
水神信仰がその始まりではないかと言われているそうです。
展示では、深大寺の旧国宝で、
関東最古といわれる白鳳仏の
「銅造釈迦如来倚像」
のレプリカが目を引きました。
この釈迦如来像は、
珍しく、椅子に腰掛けているんです。
(一枚目の写真の左側を見てもらえると分かります。)
普通は座禅のように座っていると思うんですけど。
なぜ、このポーズなのか?
不思議です。
の記事の続きを書き忘れていました!
さて、中央高速を長野方面へ、
高速を降りたのは、諏訪インター。
目的地は、
です。
諏訪大社には、
上社 本宮
上社 前宮
下社 春宮
下社 秋宮
があります。
まず行ったのは、
下社 秋宮です。
なんでかというと…、
秋なので。
ちょうど、「菊花奉献大会」をやっていました。
これが有名(?)な
「根入りの杉」です。
『根入りの杉(ねいりのすぎ)
この杉は樹齢凡そ六~七百年、
丑三つ時になると
枝先を下げて寝入り
いびきが聞こえ、
子供に木の小枝を煎じて飲ませると
夜泣きが止まるといわれております』
こちらは「神楽殿」
太~い、注連縄!
この建物は天保六年(1835)に立てられたそうです。
こちらの狛犬は(青銅製としては)日本一の大きさなのだとか。
こちらは「御柱」の内の一本。
こちらは「八幡社」
こちらは「恵比寿社」です。
この八幡社と恵比寿社の向こう側には駐車場があります。
その横に、手水が出ています。
本来の手水舎は正面の鳥居の手前にあるのですが、
この駐車場の横の手水は水が出ている所と、
温泉が出ている所があります。
龍の口から、ちょっと熱いお湯が滾々と湧き出ているのは驚きです。
この日は寒くて、手がかじかんでしまいましたが、
この温泉で温まりました。
この温泉は飲用には向かないそうですが、
御神水ということで、
近所の人が汲んで行かれる様なので
ペットボトルに入れて持ち帰りました。
ちょっとだけですが、お風呂に入れたら
体が清められるような気がします。
↓この記事の続きはこちらです。
の続きです。
新倉浅間神社に続いて行ったのは、
です。
社伝によると第五十代桓武天皇の延暦十二年、
征夷大将軍坂上田村麿が東征の折り、
此の地より、冨士の山容を拝し戦捷を祈請、
数々の苦難・災いを断ち、四年にして大勝のうちにその功業を収めたので
時に大同二年(皇紀一四六七年・西暦八〇七年)、社殿を草創したという。
当神社の社号は、最も古い記録では「宮」と記され、
時代が下り、近隣各村で浅間神社が祀られるようになると
「下宮浅間神社」「富士下宮浅間宮」と呼称されていましたが、
明治期に入り現在の「小室浅間神社」と改称されるようになりました。
「小室(御室)」とは、そこに神霊が常在するの意だそうです。
御神木の桂の木です。
南北朝時代、鎌倉で討たれた、
大塔の宮・護良親王(もりよししんのう/もりながしんのう)(後醍醐天皇の皇子)の御首級を
雛鶴姫が負って落ちのび、この地に葬ったという言い伝えがあるそうです。
小室浅間神社では、
毎年9月19日の例大祭に流鏑馬(やぶさめ)が行われます。
武士が武技練磨のため、騎馬で狩衣装を着け矢で的を射る流鏑馬とは異なり、
神事として神社に奉納される行事だそうです。
春の播種期に里に降りた祭神が、秋、富士山二合目の山宮に帰るとされ、
その秋祭りに流鏑馬を奉納し、翌旬再び里に降りるまでの間、
争いや火事などがないように祈願し、
馬の馳せた蹄跡による吉凶の「馬蹄占い」は
世襲の「占人」の存在とともにこの神事を著名なものにしている。
その流鏑馬の神馬がここで飼われています。
全部で三頭、
とても人懐っこいお馬さんたちでした。
首を撫でてあげると喜びます。
の続きです。
新倉山(あらくらやま)の山頂ではなく、中腹にあるのが、
です。
参道にある鳥居です。
因みに、「三国一」などと言ったばあいの三国は、
日本・唐土(中国)・天竺(インド)のことから転じて
全世界の意味だそうです。
振り返ると、富士山が正面に見えます。
鳥居を振り返って見ても、富士山!
本殿の様子。
お手水は地下から汲み上げた
御坂山系の御神水だそうです。
御由緒。
御祭神
木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)
大山祇命(おおやまずみのみこと)
瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)
木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)
大山祇命(おおやまずみのみこと)
瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)
創建は(第四十二代文武天皇の御世)慶雲3年(西暦705年)で、
甲斐国八代郡荒倉郷の氏神としてお祀りしたものである。
甲斐国八代郡荒倉郷の氏神としてお祀りしたものである。
(第五十一代)平城天皇(へいぜいてんのう)の御世、
大同2年(西暦807年)には富士山の大噴火があり、
朝廷の命により勅使が参向せられ、
国土安泰富士山鎮火祭を執り行った。
朝廷の命により勅使が参向せられ、
国土安泰富士山鎮火祭を執り行った。
この時、平城天皇より三国第一山の称号と
天皇の御親筆である勅額・破魔宝面・金幣が奉納された。
天皇の御親筆である勅額・破魔宝面・金幣が奉納された。
戦国時代には武田信玄の父・信虎が北条氏との戦にあたり、
境内地である新倉山に陣をとり、
当社で戦勝を祈願し勝利したことにより、刀を奉納された。
現在では災除け・家庭円満・安産・子育ての神として
地域の人々をはじめ県外に渡って広く信仰を集めており、
地域の人々をはじめ県外に渡って広く信仰を集めており、
また、春になると300本の桜が花を咲かせ、
富士の眺望とともに人々の目を楽しませている。
こないだの日曜日、11月15日の日曜日
とてもよく晴れていたので、
珍しく三男と一緒に、富士山を見に行きました。
今回は初めて行く場所で、
富士吉田市にある、
というところです。
新倉と書きますが、読み方は「あらくら」と読みます。
紅葉がもう終わりかけていましたが、とても綺麗でした。
はるか上まで続く長い石段…
397段あるそうです。
車でも登れる細い道があるようですが、
ここは健康のためにも
頑張って自力で登ることにします!
ひーひー言いながら、
登る途中で振り返ると、
綺麗な紅葉の向こうに
綺麗な富士山が…
また頑張って登ります!
登りきったところで、富士山を眺めると、
すごい絶景!
今までの苦しさを忘れてしまいますね~!
下を見ると、やはり長い石段…
登った以上はやはり頑張って下ります!
高幡不動尊 では、
紅葉だけでなくて
鶴を模ったものや、
竜宮城と浦島太郎の菊人形もありました。
こちらは孔雀ですね。
菊の盆栽です。
まるで木のようですけど
これも菊なんですね。
面白い形の菊です。
菊の御紋に似た形ですね。
鎌倉時代、後鳥羽上皇が菊の花の意匠を好み、
「菊紋」を天皇家の家紋としたそうです。
こんな派手な菊もありました。
「江戸菊」という種類です。
江戸菊の特徴は花びらが開花するにつれて
花がさまざまに変化する(芸をする)のが特徴とされ、
この変化を「狂い」と言うそうです。
花がさまざまに変化する(芸をする)のが特徴とされ、
この変化を「狂い」と言うそうです。
「狂い」の芸は花弁が咲き始めてから起こり、
変化が終るのに一ヶ月近くもかかるそうです。
「大掴み」
奥州地方で発達したので奥州菊とも呼ばれます。
花の上部が両手でぎゅっと掴んだような形に何段にも豪快に盛り上がり
外側の走り弁は太くたくましく垂れ下がって咲きます。
「管物」
管状の花弁が長く真っ直ぐ伸びて、花弁の先は小さく固く玉巻き状となり、
花芯の部分はカップ状か茶筅状になったものが良い花です。
花芯の部分はカップ状か茶筅状になったものが良い花です。
管の大きさで「太管」、「間管」、「細管」に分けます。
ちょっと緑色のような珍しい菊です。
これは「肥後菊」という種類です。
熊本で発達し、長い間門外不出とされて、ごく限られた人しか栽培を許されなかったそうです。
肥後藩の藩主細川重賢が民の精神教育と品性の向上をはかるための
文化政策として菊作りを奨励したことから出来た菊です。
先週の日曜日、11月8日のことですが、
日野市の高幡不動尊 へ
まだ早いかな~っと思いつつ、
紅葉を見に行ってきました。
おりしも、七五三と菊祭りと紅葉見物とで
けっこう賑わっていました。
紅葉は部分的にでしたが、
もう始まっていました。
五重塔をバックに。
五重塔と紅葉は絵になりますね。
稲荷社から。
裏山の紫陽花園の楓
まだ、ちょっと時期が早いですね。
でも、緑と、黄色と、橙と赤、
様々な色が楽しめるのは、
この時期ならではかもしれません。
五重塔側から、大師堂の手水舎、
真っ赤に色づいていました。
まだまだ12月始め頃まで楽しめそうです。
諏訪大社 下社春宮 に行きました。
社頭から真直ぐ800m程伸びる道路はかっては春宮の専用道路で、
多くの武士達が流鏑馬を競った馬場だったそうです。
御影石の大鳥居は
万治二年(1656)建立と推定されています。
春宮の名が示すように、
ここに神様がおられるのは2月1日から8月1日までだそうです。
御神木 「結びの杉」
途中から二本に分かれています。
夫婦は一心同体ってことでしょうか?
拝殿は修復中でした…
神楽殿と拝殿、左右片拝殿及御宝殿と続く建物の配置は秋宮と同じです。
拝幣殿は安永8年(1779)竣工の柴宮長左衛門の名建築で、
片拝殿と共に国の重要文化財に指定されています。
「神楽殿」
下社では寅年と申年の左右の御遷座祭の他に
半年毎に春宮と秋宮の遷座祭が執行されます。
神楽殿は修改築が幾度となくなされています。
大きさこそ違いますがその構造は全く同じで、
春秋両社の建築は彫刻に於て技が競われております。
春宮の社殿は地元の宮大工柴宮(伊藤)長左衛門が請負い、
秋宮より後から着工して一年早く安永九年(1780)に竣工しました。
春宮へお参りを済ませ、
帰る頃は諏訪湖に日が沈むところでした。
諏訪湖の夕暮れ