11月22、23日の一泊二日で長野県の戸隠へ行ってきました。
戸隠と言えば、最近パワースポットとして大変注目を浴びています。
ブームよりもずっと前からの戸隠ファンとしてはあまり有名になって欲しくは無いですけど…。
ごく最近も吉永小百合さんが出ているTVCMでも有名になりました。
紅葉の盛りは過ぎましたが、前日の日曜日はすごい人出で、
旅館の人の話では、奥社は参拝に2時間待ちの行列だったそうです。
僕が行った日は天気が悪かったせいかそれほどではありませんでした。
戸隠神社は霊山・戸隠山の麓に、奥社・中社・宝光社・九頭龍社・火之御子社の五社からなる、
創建以来二千年余りに及ぶ歴史を刻む神社です。
その起こりは遠い神世の昔、「天の岩戸」が飛来し、現在の姿になったといわれる戸隠山を中心に発達し、
祭神は、「天の岩戸開きの神事」に功績のあった神々をお祀りしています。
平安時代末は修験道の道場として都にまで知られた霊場でした。
神仏混淆のころは戸隠山顕光寺と称し、当時は「戸隠十三谷三千坊」と呼ばれ、
比叡山、高野山と共に「三千坊三山」と言われるほどに栄えました。
江戸時代には徳川家康の手厚い保護を受け、一千石の朱印状を賜り、東叡山寛永寺の末寺となり、
農業、水の神としての性格が強まってきました。
山中は門前町として整備され、奥社参道に現在もその威厳を伝える杉並木も植えられ、広く信仰を集めました。
明治になって戸隠は神仏分離の対象になり、寺は切り離され、宗僧は還俗して神官となり、
戸隠神社と名前を変えて現在に至ります。
戸隠神社は一般的には五社と言われますが、
実は重要な場所がもう一箇所あります。
↑こちらが地蔵堂。
戸隠神社が神仏習合のお寺だった頃の仏像が安置されています。
「創建の年は定かではないが、現在、約50体、さまざまな事情で持ち寄られた仏像が合祀されている。
木造約行者倚像、木造学問行者像は江戸時代初期。
木造地蔵菩薩半跏思惟像も江戸時代前半のもの。
かつて宝光院本堂に置かれていた仏様か。」
「地蔵堂は、宝光社入口の広場奥にある。
創建の年は定かではないが、現在、約50体、さまざまな事情で持ち寄られた仏像が合祀されている。」
真ん中の白いお顔のがご本尊の地蔵菩薩です。
「地蔵堂正面、白面の石仏が主尊の地蔵菩薩座像。
天保3年(1832)の縁起には、地震で自然湧出した岩に
地蔵尊の姿を見た弘法大師がこれを刻み開眼供養したとある。
半身が地中に埋められているが、天変地異が起こる時、
地中からせり出してくるとも伝えられている。
「笹地蔵」「北向き地蔵」とも呼ばれる。」
↑こちらは地蔵堂の横にあるお地蔵様です。
パワースポットとして有名になった戸隠神社ですが、
かつては修験道とお寺と神社が融合したお寺だったことは
あまり知られていない歴史に真実です。
明治政府のやったことはタリバンのバーミヤンの仏像破壊以上の
文化と文化財破壊の野蛮なことだったのです。
単なるブームではなくそういう歴史も知ってもらいたいです。