伊勢原市の日向薬師です。
参道に入るとすぐ右に石仏があります。
これは不動明王様ですね。
↓鎌倉時代の仏師、後藤雲久作の金剛力士像(市指定文化財)
石段を上ると仁王門があります。
仁王様こと、金剛力士像が悪者を見張っています。
こちらが阿形像。
こちらが吽形(うんぎょう)像。
どちらも鎌倉時代の作だそうです。
仁王様は、院内に仏敵が入り込むことを防ぐ守護神なんだそうです。
阿吽(あうん、Skt:A - hum)は仏教の呪文(真言)の1つ。
悉曇文字(梵字)に於いて、阿は口を開いて最初に出す音、吽は口を閉じて出す最後の音であり、
そこから、それぞれを宇宙の始まりと終わりを表す言葉とされた。
また、宇宙の他にも、前者を真実や求道心に、後者を智慧や涅槃に喩える場合もある。
次いで、対となる物を表す用語としても使用された。
特に狛犬や仁王、沖縄のシーサーなど、一対で存在する宗教的な像のモチーフとされた。
口が開いている方を阿形、閉じている方を吽形と言う。
転じて、2人の人物が呼吸まで合わせるように共に行動しているさまを阿吽の呼吸、阿吽の仲などと呼ぶ。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E5%90%BD
ちなみに、オウム真理教の「オウム」とはこの「阿吽」のことです。
しばらく登山道のような参道を上って行くと、
また石の仏様が…
さらに進むと前方にまた石段が見えてきました。
石段を上りきると、やっと本堂です。
珍しく茅葺き屋根です。
鐘楼も茅葺きでした。
脇には杉の大木があります。
日向薬師は、明治以前は12の子院を持つ大寺院だったそうですが、
明治政府、というか薩長政権の野蛮な「廃仏毀釈」によって、
多くの建物などが打ち壊されて、宝城坊と薬師堂のみが残ったんだそうです。
本当に明治政府はとんでもないことをしてくれたものです。
もし廃仏毀釈が無かったら、国宝は現在の3~4倍はあるだろうと言われます。
たくさんの貴重な文化財が失われました。
でも、本当に失われたのはもっともっと大切なものだと思います。
それは日本人から宗教心(信心)を失わせたこと。
今の日本は本当に道徳心やマナーが無くなり
「悪いことをしても見つからなければかまわない」、
「見つかっても、運が悪かっただけ」、
などと言う風潮がまかり通っています。
昔であれば、「悪いことをすれば罰が当たる」、
「誰が見ていなくても神様、仏様、閻魔様はお見通し。」
と言う風に教えられたものです。
日本人から宗教心を奪った明治の廃仏毀釈、それに続く国家神道の押し付け、
そして昭和になってからも、宗教を国家が戦争に利用したことの反省から
戦後、宗教を教育から排除してしまった。
それとともに道徳心までが無くなってしまったのではないか…
そう思うのは私だけでしょうか…
http://joy.poosan.net/kawagoka/isehara/hinatayakushi/hinatyak.htm より
県下随一の仏像の宝庫
「吾妻鏡」に記載される、奈良期・霊亀2(716)年2月行基(ぎょうき)の開創による、
十二坊の子院を有した大寺院・日向山霊山寺(りょうせんじ)が前身。
霊山寺は歴代天皇の帰依を得、元正天皇の時代には勅願寺として栄えた格式の高い寺院。
明治初期の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で衰退し、宝城坊と薬師堂のみが残ったもの。
日本三大薬師(他は、土佐の柴折薬師、越後の米山薬師)の一つ。
平安から鎌倉期の仏像が二十数体もあり、神奈川県下随一の仏像の宝庫。
鎌倉期には将軍頼朝・室政子が数回参詣している。
本尊は行基作といわれる薬師瑠璃光如来(116.6cm)で脇待・日光菩薩(123.3cm)、
脇待・月光菩薩(123.9cm)(以上の薬師三尊像は重要文化財の厨子に収蔵)、
阿弥陀如来、四天王、薬師如来の守護神で十二支を頭にいだいく十二神将(以上、国指定重要文化財)など、
23体もの仏像が宝物殿に納められている。
薬師三尊像は、県央地区でもっとも古く、鉈彫(なたぼり)像の代表格として有名。 三体とも桂材を用いた一木作りで、表面には鉈彫独特の丸ノミの痕を残している。 鉈彫は、他には横浜・弘明寺十一面観音立像や岩手・天台寺聖観音などがあるが、これらより先行したと見られ、十世紀~十二世紀の間の作。
はほぼ完全な形で残っている十二神将も素晴らしい。
日本中のお寺のうちでも十二神将はそう多くは見られず、興福寺、新薬師寺のものが有名。
現在の堂宇は1660年に徳川氏の助力を得て再建された。
屋根の茅は1998年早春の葺き替え。
国指定重要文化財。