読書と映画をめぐるプロムナード

読書、映画に関する感想、啓示を受けたこと、派生して考えたことなどを、勉強しながら綴っています。

追悼;水野晴郎さんとお茶の間を魅了した映画解説者たち

2008-06-11 16:20:20 | Weblog

水野 晴郎(みずの はるお、1931年7月19日 - 2008年6月10日)は、「映画評論家、映画監督、タレント。倉敷芸術科学大学教授、大阪芸術大学客員教授。本名は水野和夫(みずのかずお)。マイク・ミズノ (Mike Mizno) の通称でも知られている。独身。1931年、岡山県高梁市に生まれ、2歳からは満州で育ち、第二次世界大戦の終結後は岡山県に引き揚げる。青年期には岡山から大阪・神戸・姫路の映画館に通っていた。慶應義塾大学文学部(通信教育課程)を卒業。元郵便局職員で、紙幣さばきの名人と称されていた。両親が早くに亡くなり、年の離れた妹を男手一つで育てた」。

「映画との出会いは戦後であった。戦時中は軍人として死ぬ事を教育されていた水野は敗戦後の価値観の変化に戸惑う。アメリカに押しつけられた民主主義というものの意味が理解できなかった。そのときに出会ったのがアメリカ映画であった。『民主主義というのはこういう面白い映画をみんなが自由に撮れて、みんなが自由に観ることのできる社会なんだ!』そしてこの出会いは水野の人生そのものを決めることになったのであった」。

「1956年、20世紀フォックス映画に入社し映画界へ。5年後に日本ユナイト映画にヘッドハンティングされ、宣伝総支配人となり、1972年に独立。ユナイト映画在籍時、ビートルズの主演映画『ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!』や『史上最大の作戦』『真夜中のカーボーイ』『夕陽のガンマン』、意図的に誤字を使った『007/危機一発』などの歴史に残る邦題を考案したのも水野であるとされる(正しくは「危機一髪」)」。

「独立後は1972年10月4日から、日本テレビ系の映画番組『金曜ロードショー』(当初は『水曜ロードショー』)の解説を担当。1983年参議院議員選挙で新自由クラブ民主連合(新自由クラブと社会民主連合とが結成していた統一会派)から出馬し、落選。1983年6月から降板していたが、1985年4月に復帰。1997年3月まで24年半に渡って解説を続け、水野の知名度を飛躍的に上げることになった」。

「名文句『いやぁ、映画って本当に(「ほんっとうに」と発音)いいもんですね!(他に、「おもしろいもんですね」や「素晴らしいもんですね」もあった。)』は、お茶の間の人気を集めることとなった。番組プロデューサーによると『クルーカットに口髭という一目で覚えられる風貌だったことが採用の決め手になった』とのこと。そのため収録時は口髭をメークで強調。当初はカメラの前で極度に緊張するのでNG連発だったという。本番前にココアや豆乳を飲むことで気持ちを落ち着かせる等、慣れるまでは苦労の連続だった」。


淀川長治(よどがわ ながはる、男性、1909年4月10日 - 1998年11月11日)と、「映画評論家である。兵庫県神戸市出身。旧制兵庫県立第三神戸中学校卒、日本大学予科除籍。その独特の語り口からサヨナラおじさんとして親しまれた。有名な芸者置屋の跡取り息子として神戸に生まれる。実母は、父の本妻の姪にあたった。長く病身で、自分に子ができないことを悔いた本妻が、妾として姪を夫に推薦したのだった。本妻は、生まれてまもない淀川を病床で抱かせてもらい、安心したように数日後に永眠。実母がその後、本妻になった。姉が二人と、弟が一人いる(弟はのち自殺)。映画館の株主だった親の影響で子供の頃から映画に精通。

「旧制の兵庫県立第三神戸中学校(現在の兵庫県立長田高等学校)を卒業後、慶應義塾大学予科の入試に失敗し、日本大学予科に籍を置くが出席せずそのまま除籍となった。雑誌『映画世界』の編集者として活躍。その後UA(ユナイテッド・アーチスト映画社)の日本支社、東宝映画の宣伝部勤務、雑誌『映画の友』編集長を経て映画評論家として活動を開始」。

1936年(昭和11年)2月、来日したチャーリー・チャップリンとの会談に成功している。その後日本におけるチャップリン評論の第一人者と言われる。1960年代中盤に日本教育テレビ(現テレビ朝日)で放送された海外映画『ララミー牧場』の解説で脚光を浴び、中でも1966年から始まるテレビ朝日系長寿番組『日曜洋画劇場』(当初は『土曜洋画劇場』)の解説者として、番組開始から死の前日までの32年
間、独特の語り口でファンを魅了し続けた」。

「特に『怖いですねえ、恐ろしいですねえ』や番組末尾の『それでは次週をご期待ください。さよなら、さよなら、さよなら!』は淀川の名台詞として語り草とされており、子供たちやタレントの小松政夫がこれをものまねするなど一躍お茶の間の人気者となった。横浜市鶴見区に自宅があったが、1987年末からは日曜洋画劇場の収録を行っていたテレビ朝日アーク放送センターと同じアークヒルズ内にある東京全日空ホテル34階のスイートルームで暮らしていた(「棺桶がちゃんと入るかどうか、エレベーターの大きさを調べて決めた」と『徹子の部屋』で明言)。スイートルームの広い部屋の中は映画に関する書籍や資料で埋め尽くされていたという」。

「生涯独身を貫いたのは、『淀川家の血筋を絶やさぬためだけに妾にさせられた母が可哀相で仕方がなく、母に辛い思いをさせた淀川家に復讐するため、結婚せずに子供をつくらないことで血筋を絶やした』という痛切な告白を著書『私はまだかつて嫌いな人に逢ったことがない』の中で記述している。なお、淀川の母は当時『母がかわいそうだから結婚しない』と言っていた淀川の将来を案じ、一度花嫁候補の女性を家に連れてきて1週間一緒に住まわせたことがあるが、淀川自身がまったく相手にしないため、この女性は帰ってしまったと後に淀川自身が語っている」。


小森和子(こもりかずこ、1909年11月11日 - 2005年1月9日)は、「映画評論家、タレント。旧姓は安彦(あびこ)。愛称は『おばちゃま』『小森のおばちゃま』。東京都赤坂に生まれ育つ。東京府立第三高等女学校(現・東京都立駒場高等学校)卒業後、『婦人公論』誌編集部で見習い記者を務める。関係を持った菊池寛の運営する『映画時代』誌編集部へ移り、さらに京都で作家の川口松太郎の愛人生活を送るようになる。その後、神戸にあったイギリスの船舶会社『P&O』の日本支店でOL生活を送る。神戸で知り合ったNHK元会長の息子小森一郎とは32歳で結婚。神奈川
県藤沢市の鵠沼で第二次世界大戦の終結を迎えた」。

「1947年に『映画の友』誌の編集部に入り、当時の編集長の淀川長治の勧めで映画評論活動を開始。のち一身上の都合で『映画の友』誌の編集部を一方的に辞職し、そのために淀川と一時険悪な関係にあった。アメリカの映画俳優ジェームズ・ディーンの熱狂的崇拝者として有名。作家の三島由紀夫が戦後早々と渡米して、ジェームズ・ディーン行きつけのバーを訪れたことを知るや、『その時にあなたが穿いていたズボンを頂戴。ジミーが座っていた場所に座っていた、そのズボンを』と要求し、三島を驚かせた」。

「小森一郎とは48歳で離婚し、まだ日本人の渡米が困難だった1958年、単身渡米して、ジェームズ・ディーンの墓参を果たすと共に、『映画の友』編集者時代からの親友シャーリー・マクレーンの紹介でハリウッドを訪問。当時まだアメリカでは日本人女性が大変珍しかったのでフランク・シナトラたちから大歓迎を受けた。シャーリー・マクレーンの娘サチコの名前は小森和子の命名による。この渡米ではニューヨークで作家の檀一雄と恋愛関係になった」。

「1992年に熊本県熊本市の映画サークルに, 映画評論家時代の映画資料1万点を寄贈。1995年3月に火傷を負ってからはマスメディアに露出することがなくなり、1998年11月に車椅子で淀川長治の葬儀に出席したのが公の場に姿を見せた最後となる。晩年の10年はパーキンソン病、老人性痴呆症、鬱病を患い、寝たきりで自宅療養生活を送った。2005年1月9日午前1時42分、呼吸不全のため、東京都の自宅で死去。享年95」。


荻 昌弘(おぎ まさひろ、1925年8月25日 - 1988年7月2日)は「映画評論家。東京都出身。開成高等学校を経て東京大学文学部国文学科卒業。TBSテレビ『月曜ロードショー』の解説者を長年務めた。落ち着いた雰囲気で視聴者に語りかけるスタイル、そして映画が始まる前はストーリーには極力触れず、出演者やスタッフにまつわる話に絞った解説はおしなべて好評であった。また、食通としても知られ、その方面の著書も多い」。

「長年日本レコード大賞の審査員を務めたが、関係者からの贈答品を受け取らないことで有名だった。かつて毎年4月21日に放送されていた放送広告の日(現・民放の日)特番では、毎年司会を務めていた。そのためか、CBC開局35周年特番でも司会を務めていた。1988年7月2日死去。享年62。ホリプロ宣伝本部の荻昌樹は長男」。


他に著名な映画評論家として、次の三名がいらっしゃいますが、皆さん1930年生まれという共通点があります。

佐藤忠男(さとう ただお、1930年10月6日 - )は、「日本の映画評論家・教育評論家。新潟県新潟市出身。新潟市立工業高等学校(現在、新潟市立高志高等学校)卒業。高等学校卒業が最終学歴であり、独学で一般の大卒者も及ばない教養を身につけた。国鉄、電電公社等の勤務を経て、『映画評論』『思想の科学』の編集にかかわる。その後、日本映画学校校長などを歴任した。映画を主観的・客観的に鋭く分析評論する能力によって世界中の人知れず優れた現代映画を発掘し発展させることに貢献し、映画界全体の発展に寄与した」。

品田雄吉(しなだ ゆうきち、1930年 - )は、「映画評論家。北海道留萌管内遠別町生まれ。北海道札幌西高等学校、北海道大学文学部卒業。多摩美術大学名誉教授。日本芸術文化振興会運営委員・映画部会長。独立行政法人国立美術館運営委員。ゆうばり国際ファンタスティック映画祭顧問。ゆうばり応援映画祭実行委員長」。

田山力哉(たやま りきや、1930年6月1日-1997年3月23日)は、「映画評論家である。兵庫県神戸市出身。早稲田大学第一政治経済学部経済学科卒業。日本放送協会勤務を経て、フリーランスの立場で映画評論やフランス語翻訳などの執筆活動を行う。肝硬変、食道動脈瘤で倒れたが奇跡的に回復する。キネマ旬報を中心に執筆活動を行い、評論スタイルは徹底的に辛口だった。特に北野武監督とは激しい舌戦を展開した。1997年3月23日、肝硬変にて死去。享年66歳」。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿