フランシスコ会訳の旧約『シラ書』、30章13節に、「お前の子を躾よ。子供のために苦労せよ。/さもないと、お前は、その恥知らずの行いの故に、侮辱を受けることになる。」とあります。けれど、この最初のところの「躾よ」は、「け」を送って「躾けよ」としたほうがよい。
ここの「躾よ」とは「躾けなさい」ということなので、つまり動詞の命令形である。でも、現代の一般的な表記では、「躾よ」と書いてあったら、名詞「躾」+終助詞「よ」と受け取るのが自然だろう。まあ『シラ書』のこの文脈では誤読されることはないでしょうけどね。
○
なんでだしぬけに『シラ書』なんかが出てきたかというと、曾野綾子『アレキサンドリア』との関連で調べ読みしているから。この本が『シラ書』を下敷きにしたもんなのね。今年入院中に読み上げたんですが、その時ちゃんとした記録を残さなかったこともあって、また読んでます。
「お前の心を悲しみに渡し、/もの思いに耽って自ら悩むな。/心の喜びは、人の命であり、/快活は人の寿命を延ばす。/気晴らしをして、お前の心を慰め、/悲しみを彼方に追い払え。/悲しみは多くの人を滅ぼした。/悲しみに沈むことは、何の役にも立たない。/妬みと怒りは寿命を縮め、/心配事は老衰を早める。/朗らかな心は食欲を増す。/そして人は、食べ物にも心を配るようになる。」(シラ書、三〇、21-25、フランシスコ会合本)
ここに書いてあることは本当にそうだろう。悲しみから立ち直るためには気晴らしをせねばならぬ。ところで、この箇所、曾野さんが『アレキサンドリア』で書いている訳文とくらべると、ほぼ同じなのだけど表記が微妙に違っているところもある。曾野さんは分冊で出ていたころのフランシスコ会訳を参照してるのね。その後、合本で出るまでに、訳文に手が入れられたのだろう。
ここの「躾よ」とは「躾けなさい」ということなので、つまり動詞の命令形である。でも、現代の一般的な表記では、「躾よ」と書いてあったら、名詞「躾」+終助詞「よ」と受け取るのが自然だろう。まあ『シラ書』のこの文脈では誤読されることはないでしょうけどね。
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なんでだしぬけに『シラ書』なんかが出てきたかというと、曾野綾子『アレキサンドリア』との関連で調べ読みしているから。この本が『シラ書』を下敷きにしたもんなのね。今年入院中に読み上げたんですが、その時ちゃんとした記録を残さなかったこともあって、また読んでます。
「お前の心を悲しみに渡し、/もの思いに耽って自ら悩むな。/心の喜びは、人の命であり、/快活は人の寿命を延ばす。/気晴らしをして、お前の心を慰め、/悲しみを彼方に追い払え。/悲しみは多くの人を滅ぼした。/悲しみに沈むことは、何の役にも立たない。/妬みと怒りは寿命を縮め、/心配事は老衰を早める。/朗らかな心は食欲を増す。/そして人は、食べ物にも心を配るようになる。」(シラ書、三〇、21-25、フランシスコ会合本)
ここに書いてあることは本当にそうだろう。悲しみから立ち直るためには気晴らしをせねばならぬ。ところで、この箇所、曾野さんが『アレキサンドリア』で書いている訳文とくらべると、ほぼ同じなのだけど表記が微妙に違っているところもある。曾野さんは分冊で出ていたころのフランシスコ会訳を参照してるのね。その後、合本で出るまでに、訳文に手が入れられたのだろう。
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