荒川三歩

東京下町を自転車で散策しています。

緊急事態解除開けの花見/墨堤通り

2021年03月25日 | 散文

東京のソメイヨシノが満開になりました!明るいニュースですが、コロナの感染拡大が心配です。やって来たのは墨堤です。

 

隅田川土手を墨堤と言います。東京の観桜の名所の一つです。

 

満開で好天の花見です。

 

それでも今年は人出が少ないです。まだ、10時過ぎだからでしょうか?

 

今年は屋形船が一隻も出ていません。船宿の経営が心配です。

 

寂しい花見です。

 

あれは「桜橋」なのにね。

 

今年は屋台も出ていません。向島の町会が賑やかに営業するのが、墨堤花見の恒例だったのにね。

 

例年どおり桜橋から眺めます。

 

ここから観ると、スカイツリーが靄った例年の風景ではあります。

来年は賑やかな花見にしたいものです。

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緊急事態解除後の花見状況/千鳥ケ淵

2021年03月24日 | 散文

東京の桜が満開になりました。やって来ました千鳥ケ淵ですが、・・・凄い! 凄い人出です。

 

いつもここから遊覧します。

 

満開ですが、

 

人が多過ぎです。映り込んできた人はマスクをしていません。これは不安です! 緊急事態宣言が解除されて、桜が満開になって、もう歯止めが利かない、そんな状態です。でも、コロナウイルスが消滅したわけではありません。人の迷惑にならないようマスクはすべきです!

 

武道館で、東京六大学の一つ、近くに在るH大学の卒業式もやっていたようです。

 

いつも堀に出ているボートもありません。いつも乗るまでに1時間待ちとかで長蛇の行列でした。コロナ禍で休業しているのだと思います。

 

ここは退散します。

 

江戸城のお堀の桜を撮って満足します。

 

 

 

これはこれで十分見ごたえがあります。

 

 

今日の東京のコロナ感染者が400人を超えました。この陽気だし、緊急事態宣言で外出を控えていた人の我慢が限界です。

 

こんな状況下、今年の東京の花見が始まっています。

 

追伸:帰りに寄った国技館です。帰ったら鶴竜引退のニュースです。

仕方ないですね。むしろ決断が遅いです。

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鐘ヶ淵で出逢った「天水尊」

2021年03月24日 | 散文

鐘ヶ淵の路地で古民家に出逢いました。ここは古い下町なので、古民家は珍しくはありません。

 

パンツが干されたこんな下町らしい路地です。

 

立ち止まったのは、鮮やかな紺色のこれが目に入ったからです。

 

「天水尊」と書かれています。「雨水利用は地球を救う」ですか?

 

東京下町の路地で時々出逢う「天水桶」です。雨水を貯蔵しておいて、火災等に備えます。天の恵みを尊ぶ意味から「天水尊」なのでしょう。ここでは下に蛇口があるので、火災以外にも大切に利用しているのだと思います。

 

見上げる雨樋です。立派です。「山古」の文字は屋号でしょうか?

 

この雨樋が天水尊に繋がっている構造です。

自然に親しみ天に感謝して生きていた名残に見えます。

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「ゆめろ~ど千代田」があった。

2021年03月23日 | 散文

足立区を散策していました。例によって、初めての街に迷い込みました。さてどうしようと思っていたら、蛙が「いらっしゃい」「いらっしゃい」と呼んでいました。「ゆめろ~ど千代田」です。

 

「梅田」の地名です。八百屋さんがありますが、人通りはありません。どんなに寂れた商店街でも、八百屋だけは頑張っているように思います。

 

商店街を行きます。

 

脇道を覗き込みます。突き当たりは荒川の土手で、中空の首都高中央環状線をトラックが走っています。

 

シャッターが目立つ商店街を行きます。左で音がしています。

 

製麺所です。

 

歴史を感じさせる作業所です。

 

質屋がありました。営業している質屋も珍しくなりました。

 

更に行きます。さっきの質屋の看板があります。質屋は出入口が複数あるケースが多いです。ここもそのようです。

 

通り過ぎて振り返ります。休憩所のようです。「千代田商店街振興組合事務所」の看板があります。覗き込みましたが、誰も居ません。「ご自由におはいり下さい」とも書かれていますが、入る気になりません。座っていて誰か来たら話題に困るもの。

 

やがて終点です。

 

商店街の延長には国道4号線がありました。

ちょっと寒い春の午後です。

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門仲の路地にあった店

2021年03月23日 | 散文

新聞に促されてやって来た門仲の路地です。ついでに散策しています。ここにも行列がありました。パン屋です。

 

これは凄い!

 

バーですね。

 

 

隣も好いです。

 

「スペインイベリコバル」との看板です。

 

街歩きは路地が楽しいですが、門仲の路地はとても魅力的です。

また来たいです。

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源空寺墓所にて、

2021年03月22日 | 散文

伊能忠敬の墓にお参りしています。隣に、高橋至時の墓が有ります。

 

説明板も有ります。私的には無名ですが、偉人ですね。

 

隣には幡随院長兵衛の墓が有ります。

 

その隣が谷文晁の墓です。

 

 

墓の隣の石碑です。よく見ると、中央に人物、頂上付近に鳥の絵が描かれています。文晁墓石の関連です。

 

裏に回ってみました。文晁の墓です。

 

幡随院長兵衛の墓です。

 

高橋至時の墓です。

 

そして、伊能忠敬の墓です。

 

この辺りに日本全国測量の話が書かれています。

 

表側に戻りました。手前から、伊能忠敬、高橋至時、幡随院長兵衛、谷文晁の墓です。

これって、ヘンじゃないですか? 伊能忠敬と高橋至時は師弟なので、先に亡くなった先生の隣に並べで葬るのはまだ分かります。それでも忠敬が亡くなったのは先生のあと14年後です。ましてやそれ以外の人は死んだ年代も別々で、互いに縁もゆかりも無いのに、こうして見事に有名人が4人も並びますか?

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伊能忠敬の墓を訪ねて源空寺

2021年03月22日 | 散文

新聞に促されて出掛けた門仲で、伊能忠敬の業績と銅像と、住居跡を勉強しました。今日は墓所を訪ねます。

 

伊能忠敬の墓は、たまたま行き当たって知っています。上野の源空寺です。20年ぶりくらいの訪問です。

 

門前には、幡随院長兵衛と谷文晁の墓がある事を知らせています。「幡随院長兵衛 江戸初期の町奴。本名は塚本伊太郎。肥前唐津の士族で、幡随院の住職向導に私淑(一説には向導の実弟、または幡随院の門守の子ともいう)し、浅草花戸川に住み、奉公人を周旋する口入れ業に従事していたともいわれる。 当時町奴と呼ばれる任侠の徒が横行し、また、大小神祇組という旗本奴も市街を乱していた。やがて長兵衛は町奴の頭目となり、旗本奴の統領水野十郎左衛門と張り合ったという。この辺は多くの伝説と潤色で後世の人々にもてはやされているため、つまびらかにはできない。 慶安三年(1650)四月十三日、水野十郎左衛門のだまし討ちにあって没した。年三十六。」

「谷文晁 江戸後期文人画家。田安家の家臣で漢詩人谷麗谷の子である。名は正安、字は文晁のほかに子方、文五郎、号は画学斎、写山楼、文阿弥などといった。元・明・清画や狩野派、土佐派、文人画、西洋画など各派の手法を研究し画風を工夫し、関西文人画に対して江戸文人画壇の重鎮となった。門人として渡辺華山、立原杏所、高久靄崖ら多い。文晁の妻や娘も画家である。 文晁は松平定信に従って諸国を巡歴し、『集古十種』の挿絵を描いた。このほか『名山図絵』『本朝画纂』『公余探勝図(重要文化財)』『五柳先生図』などがあり、人物、山水、花鳥、虫魚を得意とし、特に水墨山水に妙を得ていた。天保十二年(1841)十二月十四日没。年七十八。」

 

正門は閉まっている事が多いですが、角を曲がったこちらの門がいつも開いています。ただし、この塀の中に墓所はありません。

 

道路を隔てたこちらが源空寺の墓所です。

 

さて、こちらに来てやっと、伊能忠敬の墓が有ることが知れます。20年くらい前の私は、こちらを見つけたのでした。

 

振り返ると浅草の路地の向こうにスカイツリーが見えます。左手が源空寺の本堂の塀です。

 

両名の墓が有る旨を寺の正面に記載していないのは何故でしょうか?幡随院長兵衛なんてやくざ者よりよっぽど有名だろうに・・・。子供の頃、何度か幡随院長兵衛が主役の映画を観た記憶があります。たしかに「もてはやされて」いたように思います。こちらの方が有名なのかな? ところで、隣に書かれている「高橋至時」って、誰?

 

お参りします。伊能忠敬の墓です。

 

説明板があります。「伊能忠敬墓 墓石は角石で、正面に『東河伊能忠敬先生の墓』と隷書で刻む。

 

忠敬は延享二年(1745)神保貞の子として上総国に生まれる。名を三治郎という。のち下総国佐原の酒造家・名主の伊能家を継ぐ。名を忠敬と改め、伊能家の家業興隆に精出すかたわら、数学・測量・天文などを研究。漢詩・狂句も良くし、子斎と字し、東河と号した。 

五十歳の時、家督を譲り江戸に出て、高橋至時の門に入り、西洋暦法・測図法を学ぶ。寛政十年(1800)幕府に願い出て、蝦夷地(現北海道)東南海岸の測量に着手。以来十八年間、全国各地を測量して歩いた。しかし地図未完のうちに文政元年(1818)四月十八日没す。享年七十四歳。 地図作成は、幕府天文方が引き継ぎ、没後三年の文政四年に完成。その地図は。『大日本沿岸奥地全図』という。また『日本奥地全図』『実測奥地全図』ともいい、俗に『伊能図』と呼ぶ。わが国最初の実測精密図である。 平成七年三月 台東区教育委員会」 

 

出ました!「高橋至時」が。「よしとき」と読んで、伊能忠敬の先生でした。・・・失礼しました。

この話、続きます。

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新聞に促されて門仲/伊能忠敬住居跡

2021年03月21日 | 散文

更に西へ行きます。新聞記事の左端です。

 

そこは葛西橋通りでした。中空に首都高深川線が走ります。

 

葛西橋通りはよく走りますが、この石柱の存在を知りませんでした。伊能忠敬は千葉県九十九里町からここに引っ越して、ここから全国3万5千キロを歩いたのですね。

 

石柱にはビッシリと3面に説明文があります。「伊能忠敬は千葉県に生まれ江戸にでて高橋東岡に測量技術を学び寛政7年幕府の命をうけて全国を測量し沿海路程図を完成した

 

その測量の原点は忠敬の居宅であった忠敬ははじめこの付近にすみのち中央区八丁堀にうつり正確な地図を完成させた 

 

忠敬は文政元年四月十三日七十四(新聞記事には七十三)歳をもって死去し台東区源空寺に葬られている 昭和四十三年十月一日 江東区第二十一号」

 

最後の「二十一号」の意味が分かりませんが、新聞に促されて出掛けた門仲の、全記事の地を散策し終わりました。目をあげて、改めて場所を確認します。東方向です。

 

西方向です。手前の店は、先程から客が順番待ちをしていました。

 

評判店のようです。

こんな新聞に促されてやって来た散策でした。

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新聞に促されて門仲/深川東京モダン館

2021年03月21日 | 散文

この散策の終わりが近くなりました。清澄通りを越えて、新聞のイラストの左端へ行きます。この界隈は足を踏み入れた事がありません。

 

すぐに「深川モダン館通り」の道標がありました。この辺だと思います。新聞のイラストの建物を探します。

 

あれ!? ここのようです。

 

建物の雰囲気はイラストと近いように思います。でも、イラストとは違います。丸窓が無いです。

 

丸窓がありましたが、あれはドアです。

 

説明板がありました。

 

ここですよね?

 

入りました。数人の年配のボランティアさんが居ます。でも、「いらっしゃい」とも何とも言いません。居心地悪いです。

 

2階に行きます。

 

想定外に広い部屋がありました。

 

ここも食事だったのでしょうね。

 

1階に下りましたが、数人の年配ボランティアさんは無言です。近づいても来ません。早々に出ることにします。出口側にも階段がありました。ここからも先程の部屋に行けるようです。

 

ここにも道標がありました。あちらからこちらの間、つまり建物が在る範囲の路が「深川モダン館通り」のようです。

 

出てきたドアを振り返ります。ひょっとして、こちらが正式な入り口でしょうか?

 

建物を見ます。

 

イラストにあった丸窓の建物です。

モダンです。

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新聞に促されて門仲/辰巳新道

2021年03月20日 | 散文

深川不動堂の参拝を終えました。新聞記事を紹介します。「さらに西へ数分行けば、昭和の雰囲気が漂う飲み屋街の『辰巳新道』。ビールでのどを潤したいが、時間も早いし、ここはぐっと我慢。コロナが収束したら、『はしご酒』しようと思う。」

 

ここです。新聞のイラストとは違って、もっと西、清澄通りに近いです。

 

好いですねえ。入って行きます。

 

新聞記事通り、昭和の雰囲気です。

 

三差路が有りました。

 

こちらにも飲み屋があります。

 

振り返ります。典型的な飲み屋街です。

 

カラオケスナックの店頭です。懐かしい面々が並びます。

 

店名は「スナック・マルニー」ですね。突き当たりには赤札堂です。

 

振り返ります。

 

振り向き振り向き歩きます。

 

小さな飲み屋街が頑張っている雰囲気があります。

・・・そうですね。コロナが収束したら、ね。

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新聞に促されて門仲/深川不動堂

2021年03月20日 | 散文

境内に足を踏み入れます。先ず目に付くのは大きなわらじです。

 

数年ぶりの訪問です。境内の様子が珍しいです。

 

 

こんなくじ引きのようなおみくじ器が有りました。

 

犬や猫のもあります。ペットを飼っていないので初めて見ました。これも世相ですね。

 

石段を上がります。

 

 

お参りします。

コロナ禍で本堂に上がれませんでした。本殿の仏画が凄いのですが、残念です。

この話、続きます。

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伊勢丹社員の墓の背景のしだれ桜

2021年03月19日 | 散文

谷中の「夕焼けだんだん」です。春の陽気に人出が増えています。

 

石段を上がった丘にの頂上に、「本行寺」が在ります。別名「月見寺」といいます。上野のお山から道灌山を経て飛鳥山に至る大きな台地の上です。「夕焼けだんだん」は、昔、夕日が谷中銀座を染めるのを観る丘でした。同時に、月見にも絶好のロケーションだったと思います。この寺にしだれ桜が咲きました。

 

山門を入ってすぐ右のこの場所が花見のベストポジションです。背景は丘の下の日暮里駅前の高層マンションです。この丘より高いマンションです。今ではあのマンションの部屋が月見のベストポジションでしょう。時代の推移を思います。

 

ここは、墓石の前です。墓標には「伊勢丹社員の墓」と記されています。・・・以前カネボウ記念公園に「殉職社員の碑」を見たことがありますが、社員の墓は初めて見ました。創業者小菅丹治は社員が亡くなる度に本寺の過去帳に名前を記載して供養していたそうです。昔の経営者と社員は家族同然だった、とのエピソードを思い出しました。

 

墓前の石柱です。右に「伊勢丹呉服店」で、左は判読しづらいのですが「あまさけや呉服店」と読めます。私の知らない会社ですが、伊勢丹の関係会社に違いありません。

 

桜を見上げます。青空と高層マンションを背景にしたしだれ桜です。

 

コロナ禍の東京にも春が来ました。

 

いつもより見事な桜が咲きました。

緊急事態宣言が解除されます。罹患者が増えているのに、春の陽気に我慢できない都民を押さえる政策を創設できませんでした。・・・コロナウイルスの蔓延が心配です。

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東京の花見前線

2021年03月19日 | 散文

花見の名所上野公園です。ソメイヨシノはまだ花見にはなりません。緊急事態宣言が解除されますが、宴会はできません。

 

歩きながらの花見です。

 

私には花見の標準木があります。いつもここのしだれ桜を花見の基準にしています。やって来たのは谷中の長明寺です。思ったより早く満開に咲いていました!

 

山門を潜ります。

 

私にとって、今年最初の桜です。青空に咲いています。

 

いつもどおり樹の下に入ります。

 

見上げて通り抜けます。

 

振り返ります。数年前に山門を建て替えてから、谷中の路地から目立つしだれ桜になりました。次から次に人がやって来ます。抑圧されたコロナ禍に咲いた桜です。気持ちは皆同じです。

 

満開です!東京の春です。

 

お彼岸です。老夫婦が記念写真を撮っています。好いですね!じっと自宅に篭って待っていた桜です。高齢者の私は、来年の桜を観られる保証はありません。桜を愛でます。

 

再び花の下に入ります。

 

見上げます。しみじみと、綺麗に咲きました。今年も例年と同じことができました。

 

この桜が咲いたら、次に咲くのは、あそこです。

 

・・・あそことは、ここ六義園のしだれ桜です。

 

が、コロナ禍の為、名物のしだれ桜が開花してもクローズしています。非日常の花見です。

 

隣りの公園から柵越しに遠望しました。咲いていますねえ・・・。

 

東京では22日から緊急事態宣言が解除されます。ここが開園されるなら、名物のしだれ桜が観られそうです(一昨年の写真です。去年は色づきが良くなかったです)。

 

でも、こんな入場待ち(昨年の写真)はイヤだなあ・・・。

私の花見の始まりです。

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新聞に促されて門仲/深川伊勢屋から、

2021年03月18日 | 散文

先ず、新聞記事を紹介します。

 

「富岡八幡宮の境内を出て、西に約10メール進むと、線香のにおいがたちこめる深川不動堂に着く。和菓子や漬けもの、宝飾品など計40店舗が並ぶ参道の『人情深川ご利益通り』はたくさんの人で賑わっていた。」 (余談:ハト屋パン店がある「人情下町キラキラ橘商店街」はここからのネーミングでしょうか?)

 

新聞は「伊勢屋」を紹介しています。

 

「1907年創業。だんご、のり巻き、大福、いなりなどを販売。喫茶店も併設する。」

 

伊勢屋脇から深川不動堂の参道を行きます。新聞記事を紹介します。「成田山新勝寺の東京別院。1703(元禄16)年以降、永代寺境内の富岡八幡宮で度々行われた出開帳を起源とする。本堂の外壁には不動明王のご真言。」

 

表通りからここまでの角地です。伊勢屋はなかなかの大店です。

 

振り返ります。門前の大通りは「永代通り」で、その地下には「東京メトロ東西線」が走っています。

 

「人情深川ご利益通り」を行きます。

 

門前町を形成する商店を眺めながら行きます。

 

 

大きな屋根が現れました。

 

境内前に路地があります。東には富岡八幡宮の杜です。

この話、続きます。

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新聞に促されて門仲/富岡八幡宮境内

2021年03月18日 | 散文

新聞に促されて富岡八幡宮の境内に居ます。

 

富岡八幡宮拝殿です。横綱力士碑がある裏からやって来ました。

 

表参道の石畳です。

 

振り返る社殿です。 新聞記事を紹介します。「富岡八幡宮は、1627(寛永4)年、八幡神像の霊夢を見た長盛法院が、当時永代島と呼ばれた小島に創建したとされる。その後、周辺の砂州一帯は埋め立てられ、徳川将軍家からの保護も受けて、江戸随一の門前町として栄えた。」

 

境内に大関力士碑や、巨人力士身長碑があります。巨人力士の手形や有力関脇力士碑などもあります。

 

説明板です。

 

反対側には「深川めし」屋があります。

 

本店は深川江戸資料館前にあります。アサリ味噌汁ぶっかけご飯にしてはけっこうお高いですよ。

 

その前に、「伊能忠敬」像があります。「二百余年前、この『深川の八幡さま』にに通い、旅の安全を祈願した人物がいる。日本国中を測量してまわり、初めて実測による日本地図『大日本沿岸輿地全図』(伊能図)を完成させた伊能忠敬(1745~1818)だ。」

 

「忠敬は上総国の小関(現千葉県九十九里町)の出身。下総国の佐倉(現同県香取市)で事業家として成功。幼い頃の『地球の大きさを知りたい』という夢をあきらめきれず、50歳で江戸に出てきた。門前仲町に居を構え、正確な一歩を積み重ねる歩測の練習をしながら浅草の暦局に通って、歴学や天文学を学んだ。その後、55歳から17年間にわたり、全国測量の旅にでかける。」

 

「忠敬は北海道から九州まで計10回の旅のうち、遠国に出かけた8回の出発前、門人と一緒に参拝したそうです」 「歩測しながらの過酷な旅は、数ヶ月から時には2年にも及び、忠敬自身の全旅行距離は計3万5千キロ。しかし、全図の完成を見ぬまま、忠敬は73歳の生涯を終える。3年後の文政4年、門人の手によって、全図は完成、幕府に献上されたが、明治期の皇居火災で正本が焼失するなどし、いまの日本人が伊能図の全貌を知るのは今世紀に入ってから。米国で大量の写しが見つかった2001年だ。今年は伊能図の幕府献上から200年にあたる。」

 

「世界測地系の採用を記念して」の記念碑です。

 

タイムカプセルもあります。

 

富岡八幡宮を退出します。

行き先は、すぐ隣と言っても差し支えない近くです。

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