荒川三歩

東京下町を自転車で散策しています。

新聞に促されて門仲/横綱力士碑

2021年03月17日 | 散文

富岡八幡宮裏には、松尾芭蕉命を祀る「花本社」(行ってみてください。驚きますよ)等多くの見所がありますが、今日は新聞に従って巡っているので割愛します。 やって来たのは「横綱力士碑」です。早春の陽射しに佇んでいます。

 

新聞記事を紹介します。

 

説明板を読みます。「この力士碑は、横綱の顕彰と相撲の歴史を伝えるため、江戸時代最後の横綱第十二代陣幕久五郎が中心となり、明治三十三年に建てられました。 古くから庶民に親しまれてきた相撲は、江戸時代には幕府公認の勧進相撲(寺社修復などを目的に実施)へと発展し、大坂・京・江戸で興行として開催されました。

幕府が初めて江戸での勧進相撲を認めたのは、貞亨元年(1684)の富岡八幡宮境内でした。その後、明和年間(1764~71)には、春・秋二場所のうち一場所がこの地で開催され、亨和元年(1801)までに本場所三十一回を数えました。その意味で、富岡八幡宮は江戸勧進相撲の発祥の地といえます。 偉容を誇る横綱力士碑は、同時期に建てられた陣幕・不知火顕微彰碑や周辺の石像物(魚がし石柱、土台下玉垣は大正末ごろ)とともに、相撲と地域のつながりを示す貴重な文化財です。 平成十六年二月 江東区教育委員会」

そしてここには「超五十連勝力士碑」があります。

 

歴代の50連勝以上を達成した力士の名前とその記録が刻まれています。でも、千代の富士が最後です。未だに白鵬の63連勝が記録されていません。これって、引退してから刻むのでしょうか?

 

左に不知火、右に陣幕彰碑があって、その奥に、左右に魚がし石柱を配した「横綱力士碑」があります。

 

明治二十八年三月吉日の建立です。

 

その左右に、歴代横綱名を刻んだ石碑があります。

 

新しい部分です。次に刻まれる名前は誰でしょうか?私の押しは朝乃山です。

 

こちらは初代から始まっています。ビッシリと七十二代まで刻まれています。

 

そして更に、今後刻印する石碑が用意されています。 両国では三月場所が始まっています。気持ちが高ぶります。

この話、続きます。

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新聞に促されて門仲/現在の新田橋

2021年03月17日 | 散文

富岡八幡宮から離れます。永代通りの向かい側です。

 

これが現在2代目の新田橋です。

 

地下鉄木場駅と古い下町や新興住宅街を結ぶ橋です。多くの人が利用しています。

 

大横川の西側です。中空を横切るのは首都高深川線です。

 

東側です。何度かカヤックで通りました。左右の風情が好い界隈です。

 

橋の下には船宿が在ります。橋の向こうの道路の左に洲崎神社が在ります。もう少し行くと、「洲崎パラダイス」が在った界隈です。もうその面影はありません。今はマンション街になっています。

 

橋を戻ります。

 

前出、富岡八幡裏の八幡掘遊歩道に有ったのと同じ説明板が有りました。ここでは最後の一文が追加されています。「新田橋は、大横川(旧大島川)に架かり、江東区木場五丁目から木場六丁目を結ぶ、町の人びとの暮らしを支え続けてきた小さな橋の人道橋です。 大正時代、岐阜県から上京し、木場五丁目に医院の開業をしていた新田清三郎さんが、昭和七年、不慮の事故で亡くなった婦人の霊を慰める『橋供養』の意味を込めて、近所の多くの人たちと協力して架けられたものです。 

当初、『新船橋』と名付けられたが、町の相談役としても人望が厚く、『木場の赤ひげ先生』的な存在であった新田医師は、亡くなった後も地域の人々から愛され、いつしか『新田橋』と呼ばれるようになりました。 また、映画やテレビの舞台ともなり、下町の人々の生活や歴史の移り変わり、出会いや別れ、様々な人生模様をこの橋は静かに見守り続けてきました。平成十二年の護岸整備により現在の橋に架け替えられましたが、架かっていた橋は、八幡堀遊歩道に大切に保存されています。」

 

「まちなみ景観賞」です。

 

富岡八幡宮に戻ります。

 

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