荒川三歩

東京下町を自転車で散策しています。

養育院の引取人の無い遺骨を埋葬した先を訪ねて/了俒寺

2021年03月02日 | 散文

渋沢栄一像を探しに板橋へ行ったとき、そこが「養育院」の跡地とのことでした。「養育院」の存在を知らなかったので、渋沢栄一の功績に感動を覚えました。そこに気になる部分がありました。説明板の下記の部分です。

養育院は鰥寡孤独の者の収容保護から始め、日本の社会福祉・医療事業に大きな足跡を残した。特に第二次大戦後は、児童の保護や身寄りのない高齢者の養護、さらに高齢者の福祉・医療・研究、看護師の育成など時代要請に応じて様々な事業を展開した。平成11年12月、東京都議会において養育院廃止条例が可決され、127年にわたる歴史の幕を閉じたが、養育院が行ってきた事業はかたちをかえて現在も引き継がれている。

養育院に関する碑は、ほかに養育院の物故者中、引取人のない遺骨を埋葬、回向をお願いした東京都台東区谷中の大雄寺、了俒寺、栃木県那須塩原市の妙雲寺及び東京都府中市の東京都多摩霊園にある。 なお、碑の『養育院本院』は渋沢栄一の墨跡を刻んだものである。 平成25(2013)年 養育院を語り継ぐ会 この碑は元養育院職員等の篤志によって建てられました。 地方独立行政法人 東京都健康長寿医療センター」

 

台東区谷中は活動範囲なので訪ねてみました。場所はすぐに分かりました。光溢れるものの風が冷たい谷中の丘の上です。

 

谷中霊園へ行くときによく通りますが、ここにお寺が在る認識はありませんでした。改めて見ると長い塀がありました。

 

「りょうごんじ」と読みます。板橋の養育院跡の説明板にあったのと同じ漢字です。

 

寺紋です。

 

入って行きます。

 

入ってみると広い墓地を持ったお寺でした。

 

谷中霊園側の塀の一角に花が咲いていました。ボケの花でしょうか?寒い日の陽溜まりにホッとします。

 

広い墓地を探します。

 

ここかも知れない! 予感がしました。

 

読みづらいですが、「無縁塔」と書かれています。

 

向こうにも関係があるような石碑があります。

 

「念仏一千万遍供養塔」です。

 

石仏の足元の、これは線香立てでしょうか?蓮の蜂巣です。初めて見ました。

 

板橋養育院で亡くなって、身寄りが無い、あるいは引き取り手の無い人たちが沢山居たのですね。

 

こちらにも蓮の蜂巣です。お参りします。

 

無縁塔から見る景色です。

春待ちの景色です。この足で大雄寺へ行きます。

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松平定信によって創設された七分積金とは?

2021年03月02日 | 散文

渋沢栄一の銅像を訪ねて行った板橋養育院跡地で「七分積み金」を知りました。この部分です。

「養育院本院の碑 養育院は、明治5(1872)年10月15日に創設された。維新後急増した窮民を収容保護するため、東京府知事大久保一翁(忠寛)の諮問に対する営繕会議所の答申『救貧三策』の一策として設置されたものである。この背景には、ロシア皇子の訪問もあった。事業開始の地は、本郷加賀藩邸跡(現東京大学)の空長屋であった。その後、養育院本院は上野(現東京芸大)、神田、本所、大塚など東京市内を転々としたが、関東大震災後、現在地の板橋に移転した。養育院設置運営の原資は、営繕会議所の共有金(江戸幕府の松平定信により創設された七分積金が明治政府に引き継がれたもの)である。

養育院の歴史は、渋沢栄一を抜きには語れない。営繕会議所は、共有金を管理し、養育院事業を含む各種の事業を行ったが、渋沢は明治7年から会議所の事業及び共有金の管理に携わり、養育院事業と関わるようになった。明治12年には初代養育院長となり、その後亡くなるまで、50有余年にわたり養育院長として事業の発展に力を尽くした。」

 

調べてみました。転写します。ちょっと長いけど、今後の大河ドラマで取り上げられるであろう重要な題材だと思います。

「七分積金とは、町入用節減額の十分の七の積金と言う意味である。寛政三年松平定信は江戸の地主階級が負担する町費すなわち町入用を節減するため、天明五年より寛政元年まで五ケ年平均の町入用を算出させ、その額より出来る限り節約した町入用節減高を書出させて、節減を実行させ、その節減額の十分の七を備荒貯蓄のための積金並びに米穀購入費に充て、会所と籾蔵を向柳原に設立した。これが江戸の救済事業機関たる町会所であった。町会所は七分積金を取扱い、それによって備荒のための事務や市民の救済事業を行う事務所といえる。この町会所の設立によって江戸の市民が不時の災害から救われた数はおびただしいものであって、又一般貧困者も会所支給の米金によって大きな恩恵を蒙ったこと言う迄もない。江戸における社会救済事業の機関である町会所の事業が維新後の変動のため、どのように活用されるに至ったか、この金をとり扱う役所が営繕会議所より東京会議所となり、旧来の町会所の事業から一転して、営繕事業から教育事業にまであらゆる面にこの積金が利用されるように発展していった。市民の共有金という意味より、一般市民の福利事業がこの積金によって遂行されたこと及び災害のたびに米金を支給する事は救済の根本でなく、恒久救済施設の整備こそその根幹をなすものであるとの当局者の見解から、養育院、日雇会社、工作場の設立となって、当時政府及び府当局が最も悩んだ乞食浮浪者の処理対策に主役を演ずるに至った経過をのべ、この会議所によって着手された事業が、会議所廃止後東京府に引継がれてどのように運営されるに至ったか、府管理時代に至ってこの共有金はどんな方面に支出されたか等、積金が江戸より東京への変転に従って、その使用目的に於て、飛躍発展していった。

 

幕府当局者が幕末維新の変転きわまりない時代にあって、幕府の財政は窮乏の極に達し、正にその大樹倒れんとする際にも、この莫大な積金米穀に一指も触れることなく、積金米穀はあくまで市民のもので救恤のための費財として保存され、維新政府に引継がれた。(たとえそれが地主階級によって積立てられた文字通り市民の金であったにせよ)ことについては、幕府の態度を賞讃するに吝かでない。しかし、結果的にこの金の運用を引つがれた維新政府は財政困難なため、あらゆる方面にこの金の助けを求めた。五年八月設立を見た営繕会議所が十月東京会議所となって、教育費十万円上納、銀座道路修築費五万円献納等の政府、東京府への直納金をはじめ道路、橋梁、水道の補修に大半の金を支出してしまい、会議所附属土地の売却を行う状態であって、養育院の経営も維持のための支出に多額の費用を要し、会議所の資金だけでは継続することが容易でなく、ガス事業にしても商法講習所にしても当時としては一歩進みすぎていたため、その維持継続は甚だ困難であって、会議所が七分積金すなわち共有金を以てこの事業を打つたものの、結局はこれらは府の直営とか民間に払下げるとかの結末を着けざるを得なかった。ただこうした金をこのように多方面に使用して、維新混乱の際の東京市民に対して大きな貢献をしたのは、渋沢栄一を中心とする先覚者の多大の努力によるものであった。その指導者であった渋沢栄一は定信の考えを明治以降の東京の上に立派に護り育てたというべきであろう。

 

さて、やって来たのは深川の霊厳寺です。コロナ禍での園児お迎え風景です。霊厳寺は保育園を経営しています。

 

ここに松平定信の墓があります。

 

この囲われた廟所に眠っています。彼は「寛政の改革」の実施者として有名です。

 

また、調べてみました。転写します。

寛政の改革とは。厳しすぎる政策に、評価は「失敗」

1787年から1793年までの間、江戸幕府の老中・松平定信が中心となっておこなった一連の政治改革のことです。幕府の財政赤字を減らそうとさまざまな取り組みがなされましたが、人情に配慮しない厳しすぎる方針が続いたため、一般庶民だけでなく官僚からも反感を買うようになります。さらに期待していた結果が出ず、定信は改革を始めてから6年後に老中を解任され、失脚しました。一般的に寛政の改革は、失敗に終わったと評価されています。

 

なぜ寛政の改革は実施されたの?背景と理由

松平定信が幕政の主導権を握る前は、10代将軍・徳川家治のもとで田沼意次(たぬまおきつぐ)が老中として権勢をふるっていました。彼は商売を盛んにする政策をし、経済を活性化させます。その半面で、政治家や官僚が賄賂を受けとることを黙認していたため、幕府のモラルが著しく低下。しだいに信用を失っていったのです。もともと田沼一族は身分が高かったわけではなく、そんな彼に権力が集中していたことも含めて政権への反感が膨らみ、ついに意次の嫡男である田沼意知(おきとも)が殺害されてしまいました。これによって意次も失脚します。ちなみにこの一連の事件には、定信も加担していたのではないかといわれています。当時幕府の赤字は膨らみ、それに加えて全国各地で自然災害や飢饉が発生。それにともなって「打ちこわし」や「一揆」が増えていました。そのため、お金に厳しく清廉な政治ができるリーダーを求める世論が高まっていったのです。ちょうど同じころ、定信は白河藩(現在の福島県)の藩主をしていました。食糧難の際も備蓄していた米を領民に分け与えて餓死者をほぼ出さないなどし、名君と呼ばれていたのです。将軍との血縁が近かったこともあり、老中の適任者として推薦され、就任。ここから、彼独自の路線で改革を進めていくことになるのです。

有名な「寛政の改革」は失政との評価ですが、「七分積金」の功績が埋もれているのは残念です。ちょっと見直しました。

大河ドラマに登場すると思います。 どう扱うか楽しみです。

コメント (2)
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