【石巻】
南三陸町と比べると、多くの人が瓦礫の片付けをしている。
・・・が、凄く埃っぽくて、とても臭い。
街全体が海水とタンパク質が混じって腐ったような臭いがする。
どうして神は、こんな酷いことができるのだろう・・・。
軽々しく「復興」なんて言える状態じゃない。
復興の途に着くまでに、多くの時間と労力が必要である。
こんなの見たら、頑張れなんて言えないよ。
自衛隊が造った簡易入浴場。
輪番制なんだろう、昼間から多くの利用者が来ていた。
流されて、防波堤に打ち上げられた石油タンク。
横倒しになった石油タンク。
鯨大和煮製造工場のタンク。
悪臭が凄い。
右舷に「第二十一宝徳丸」の名前が見えた。
向こうに石巻市立病院が見える。
つまり、ここが石巻市の中心街である。
災害派遣隊と日常が同居している。
地面には「復興するぞ!」と書いてある。
また涙が出てきた。
そして思う。
人間は強い!
あれから10年になります。被災地の方々は立ち上がって新たな人生を踏み出しています。一方で、10年になっても未だに日常が戻らない人も居ます。遠く離れて住んでいてもあの衝撃を忘れてはいけません。いつどこで地震が発生するか、日本に安全な場所は無いとの覚悟が必要です。あの時の気持ちを新たに東日本大震災を振り返ります。当時の気持ちをそのままに、原文のまま修正なしで報告します。
【南三陸町】
東北は初夏である。キラキラと輝く太陽を反射して色々なみどりが濃淡織りなして光る新緑の山道は、観光地を走っているようである。山の下りで視界が開けたと思ったら、突然被災地が現れた。
そこは修羅の場であり鎮魂の地である。
白い雲の下には何にも無い。誰も居ない。
この場所に立ったら、次から次に涙が出てきて、膝が震えて動けなくなった。
可哀想で、気の毒で・・・。
手で口を押さえて、歯を食いしばって嗚咽を堪える。
南三陸町防災センターが見える。ここの2階から防災無線で住民に避難を呼び掛け続け、津波で亡くなった女性従業員が居た事を私は忘れない。
最後まで落ち着いた声でした。「津波が発生しています。高台に避難してください」
普段はこんなに綺麗で穏やかな海なのに・・・。
毎日遺体が上がると云う・・・。
海岸近くのマンションに瓦礫が乗っかっている。
何もかも津波が持って行ってしまった。
海はずっと向こうである。
丘の上の南三陸町立志津川中学校にある避難所。
さすがに気の毒でここは見に行けない。
公立志津川病院。
ここでも多くの人が亡くなった。
苦しかったでしょう?・・・合掌。
仮設のセールスルームを作って営業を再開していた。
東北の人は粘り強いと云うけど・・・、凄いよ。
JR気仙沼線。
線路は使わないとすぐに錆びる。
赤茶けて真っ直ぐ伸びた平行線が痛々しい。
志津川小学校の子供たちの茶目っ気に、いっとき心が和む。
家族だけでなく友達も多く亡くしたのに・・・。君たち強いね。
健気さに泣いてしまう。
この話、続きます。