荒川三歩

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「桜井の史跡と伝説」-39/伊予国分寺塔跡

2019年05月30日 | 散文

生家の本棚にこんな冊子がありました。著者は未だに不明です。
この冊子に書かれた現場を訪ねています。


39.伊予国分寺塔跡
奈良時代、聖武天皇の命によって桜井国分にも伊予国分寺が建てられた。
(743)、七重の塔の礎石16個のうち13個が今も国分寺の近くにあり、国指定文化財となっている。
この巨大な花崗岩の礎石は1.5~2mの自然石で、表面は頭大の繰形突起があり、経50cm程の繰形座の柱受けが刻み出され、天平時代の荒うち、のみのあとも鮮かで豪壮なものである。
この上にあった七十の塔は二百尺(約60cm)ともいわれ、広大な国分寺の姿をしのぶ貴重な遺構である。
又、当時のおもかげを残すものに布目瓦がある。布目瓦とは、瓦を作る時、丸太に粘土を巻きつけ、外側を麻布で巻いてかためた。
それをあとで、2つに切ってはがすことで、瓦に麻の布目がついたものである。


既報の資料を抜粋して報告します。

国分寺の近くに「史跡 伊予国分寺塔跡」の石柱が建っていました。


(案内板の表示内容)
「史跡 国分寺塔跡
奈良時代聖武天皇の勅願によって、桜井国分に伊予の国分寺が建てられたが、国分はその境内の跡で金堂の他七堂伽藍の大きな堂塔が造営されていた。


この巨大な花崗岩の13個の礎石は、1.5m~2mの自然石で表面に頭大の繰形突起があり、径50cm程度の繰形座の柱石が刻み出され、天平時代の粗うちのみのあとも鮮やかで豪壮なものである。礎石間の間隔は約3、6mで多少傾いたものもあるが整然と並んでいる。

調査の結果、いく段にもつきかためた粘土の層のうえに置かれた礎石は、創建当時の姿をそのまま残しているといわれている。この上のあった七重の塔は200尺(約60m)ともいわれ、広大な国分寺の姿をしのぶ重要な遺構である。
大正10年3月3日指定 文部省
史跡・名所の小路 今治市」

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