Annabel's Private Cooking Classあなべるお菓子教室 ~ ” こころ豊かな暮らし ”

あなべるお菓子教室はコロナで終了となりましたが、これからも体に良い食べ物を紹介していくつもりです。どうぞご期待ください。

ミンスミートパイ

2018年05月12日 | お菓子の歴史

ミンスミートパイ


ミンスミートパイは「クリスマス又はニューイヤーに食するイギリスの伝統的食べ物である。スイートパフ又はショートカットペイストリィで作る直径2-3 インチの大きさのパイであり、アメリカでは8-12インチのパイを指す。」と一般に言われている。

そこでミンスミートパイを知る手掛かりとして イギリスの古い料理書から、できるだけ今のミンスミートパイに近い料理を2つ取り出した。


ca. 1390年刊のフォルム・オブ・クーリィから;

185.ミートデイのチュベット( chewet )

ポークの肉を用意して全てピースに切り、メンドリ(の肉)をいっしょに入れてパンの中で

フライする。小さなパイのコフィンを作り、その中に入れる。上に固ゆでした卵黄、パウダージンジャーをのせて、塩をする。 フタをしてグリスの中でフライする。

又はよく焼いてサーヴする。

 

195.ペティペラウント ( Pety Pernaunt )雄牛の骨髄を用意して, そのまま取り出して生のまま切る。パウダージンジャー、卵黄、ミンスしたデイツ、カラント、塩を少量(加える)。 ペイストは水を加えずに卵黄で作り、これでコフィンを作る。(骨髄を詰めて)ペイストを仕上げる。( 脂でフライする )

ミンスミートパイを語るとき、前者のチェベットが引き合いに出るが、同時代に作られた料理の中で現在のものに近いのは、 むしろペティペラウントであろう。

ミンスミートパイに欠かせないものは、牛、羊、マトンいずれかの肉、ペッパー、メイス、ナツメグ、クローブ、シナモン、 ジンジャーのスパイス、レーズン又は カラント、パイペイストであり、ペティペラウントはそのほとんどを備えている。 しかもPetyは小さいの意であり、ミンスミートパイに相応しい。

( ”Chewet”、“Pernaunt” は共に語源は明らかではなく、レシピの内容から訳語を作りだしている為にどちらがミンスミートパイの元の料理であるかは 断定できない。)   ペティペラウントは1350-1500年間に出た料理書に見られ、Pernaunt、 perneux, pernollys, peruaauntと綴りは変わるが、 いずれも同じ料理である。



MS Harley 5401 ca. 1100-1485では;

チュベット( Chewets. )

ローストしたシャポン又はメンドリを細かくチョップする。ジンジャーパウダー、クローブ、ペッパー、塩を振り、 小さなコフィンの中に入れる。 蓋をして脂で フライする。デイッシュに入れてサーヴする。

( 1467年のA Noble Boke off Cookeryにはプディング、パイ、チュベットのレシピがある。 1435年のHarleian MS 279、1508年のThe Boke of Kervynge にはプディング、パイ、チュベット、ペティペラウントのレシピがあるが これ以降ペティペラウントは料理書から姿を消す。) The Boke of Kervynge には料理名があるだけでレシピは無いので、 1435年のHarleian MS 279よりチュベットとペティペラウントを取り上げて比較してみよう。



チュベット( Chewettes )

小麦粉、水、サフラン、塩できれいなペイストを作る。丸いコフィンを作る。rissℏeshewes※の詰め物を作って入れる。

rissℏeshewesの時のように熱いままサーヴする。

 

※   rissℏeshewes とは ( HARL. MS. 4016 ab. 1450 から引用すると ) 骨髄のルスチューズ---------小麦粉、生の卵黄、砂糖、塩、パウダージンジャー、サフランでケーキを作る。骨髄、砂糖、パウダージンジャーを用意してケーキの上に並べて二つに折る。ルスチューズの方法で切り、フレシュグリスでフライしてサーヴする。

ペティペラウント ( .xx. Pety Pernauntes )

きれいな小麦粉、砂糖、サフラン、塩を用意してペイストとコフィンを作る。生の卵黄、砂糖、ジンジャーパウダー、カラント、ミンスしたデイツを適量用意する。これをボールに入れて一緒に混ぜる。コフィンに入れて脂でフライする。

フォルム・オブ・クーリィから約45年経った時点で、ペティペラウントはスイーツに、チュベットはミンツパイへと姿を変えたようだ。
残念ながら、変化の理由はわからない。

更に時代を遡ったca.1550年に刊行のA Proper newe Booke of Cokerye ( mid-16th c. ) にはマトンのチュベットパイ( Chuettes of pyes of fyne mutton )が登場する。

この頃からチュベットとパイは「チュベットパイ」とペアで呼称されることが多くなり、パイの範疇にチュベットが入る事になる。

以降、1594年のThe good Huswifes Handmaide for the Kitchinまでチュベットが登場するが、1573 年のジョン・パートリッジ ( John Partridge ) による

ザ・トレジャリィ・オブ・コモディアス・コンシート ( The Treasurie of commodious Conceits ) では、レシピからパイ(実体はパイであるが)の名が突然に(?)姿を消す。

 

ザ・トレジャリィから;

骨髄で作った豆の鞘 ( To make Pescods of Marow. )

骨髄をスライスする。ペイストを紙のように薄く延ばす。レーズン、シナモン、少量のジンジャー、砂糖を骨髄の上にのせる。

(ペイストで)豆の鞘のように包んでバターでフライする。シナモン、砂糖を振ってサーヴする。このレシピのようにザ・トレジャリィでは「雄牛のタンのパイ」は「雄牛のタンを焼く」、「チキンパイ」は「チキンを焼く」、「マルメロのパイ」は「マルメロを焼く」と表記され、全ての料理名からパイの文字が消えている。( レシピの中に ”パイ” 、”コフィン” は
出てくるが。) しかもパイ料理の数が少ない。上の料理は従来からの呼称を使えば「骨髄のパイ」となるはずだ。

 

「何かが起こったに違いない?」と考えるのは私一人でないだろう。唐突かも知れないが、オリバー・クロムウェル( Oliver Cromwell, 1599/4/25-1658/9/3、イングランドの政治家、軍人、イングランド共和国初代護国卿。鉄騎隊を指揮して清教徒革命の内戦において国王軍に対抗し議会派を勝利に導いた。)に注目した。

と言うのも、彼には『ネイズビーの戦い( The Battle of Naseby )で国王チャールズⅠ世をスコットランドに追い払い、護国卿となって独裁体制を敷いた。クリスマスを、聖書で容認されていない暴飲暴食、酔っ払いを産み出す不信者のお祭りであると決めつけたのである。オリバー・クロムウェル率いる清教徒会議は1657年12月22日、クリスマスを廃止し、ロンドンでは兵士たちが匂いをかいで町をまわり、クリスマスのために準備された料理を力づくで奪い去った。パイは「禁断の愉しみである」と見なし、罪深い料理であるとしたのである。又伝統的なミンスパイをも禁じてしまった。クリスマスはチャールズⅡ世( Charles II, 1630/5/29-1685/2/6 )が亡命先のオランダ, ブレダから1660/5/29にロンドンに入城してやっと元の姿を取り戻した。』と言う犯罪歴(?)があるからだ。

 

クロムウェルが現れた時代背景を少し知っておく必要があると思うので此処に少し述べておこう。

1641-1649年にかけて起きた清教徒革命またはピューリタン革命( Puritan Revolution または Wars of the Three Kingdoms )は、主因はチャールズⅠ世の政治能力の欠如だろうが、エリザベスⅠ世 ( 1533/9/7 – 1603/3/24 ) の治世末期に既にその原因が芽生えていた。農村や社会構造の急な変化に国家体制が対応できず、社会のひずみが次第に大きくなった時代である。ヨーマンは( Yeoman、イングランドの独立自営農民 )次第に裕福になってジェントリになる者と、より貧しくなって離農する者へ二極化する。エリザベスⅠ世は救貧法などで社会的安定を保とうとしたが、貧農が都市に集中して急激な人口増加がおきた、ここに宗教改革、修道院の解散などが起こり、貧しい人々をみる視線が「慈善の対象」から「怠惰の結果」に変わっていった。社会的・経済的に追いつめられた人々が急進的な思想を醸成し、ついに1642年には議会軍と国王軍の内戦が始まった。

当初は実戦経験でまさる国王軍が有利であったが、軍制改革が行われて議会軍が強化されると、議会軍が優勢になった。当初騎兵隊の隊長であったオリバー・クロムウェルが議会軍のなかで次第に頭角をあらわし、ニューモデル軍結成時にはその副司令官となった。

議会軍はネイズビーの戦い( The Battle of Naseby ; 1645/6/14 )で勝利を決定づけ、急進的になった民衆や議会の下、1645年にウィリアム・ロード( William Laud、1573/10/7-1645/1/10、国教会の改革と宗教統一を持論とし、祈祷書の遵守と礼拝の統一、聖職者の統制政策を推進した。

聖職者が世俗問題に積極に関与することを勧めた。これに対し清教徒らは激しく抵抗したが、高等宗務官裁判所や星室庁裁判所を舞台に徹底的に弾圧した、政治家・聖職者であり、チャールズⅠ世の側近であった)が処刑され、1647年になるとオリバー・クロムウェルによりクリスマスの禁令が出され12月25日は平時の就業日とされた。暴動が起こる地域もあったがいつも通りにクリスマスを祝う処もあった。

教会での儀式、奉仕活動は兵士によって阻止され、クリスマスの商品を扱う店は権力により閉鎖された。ロンドン市長でさえもクリスマスの飾りをうち捨てた。クリスマスプディングも作ることは許されず、闇市場から手に入れる始末であった。1649年にはチャールズⅠ世が処刑された。

 

ジョン・テイラー ( John Taylor , 1578/8/24 – 1653 ,イギリスの詩人。自らを "The Water Poet"と称す ) は、「伝統的なクリスマスの食べ物は禁じられた。特にプラムプディングとミンスミートがその標的となった。ミンスパイ(横長の円形をしていた)を幼児キリストが寝ていた飼い葉桶であると言い、そこに加えるシナモン、クローブ、ナツメグが降誕をお祝いに来た東方の三博士※の贈り物を象徴すると言う。何をもってカソリック教的であると断じるのか!」と批評した。東方の三博士の贈り物の話は聖書からの引用であろう。少し長いが「マタイによる福音書」を引拠しておこう。

 

『 2:1イエスがヘロデ王の代に、ユダヤのベツレヘムでお生れになったとき、見よ、東からきた博士たちがエルサレムに着いて言った、

2:2「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。わたしたちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきました」

2:3ヘロデ王はこのことを聞いて不安を感じた。エルサレムの人々もみな、同様であった。

2:4そこで王は祭司長たちと民の律法学者たちとを全部集めて、キリストはどこに生れるのかと、彼らに問いただした。

2:5彼らは王に言った、「それはユダヤのベツレヘムです。預言者がこうしるしています、

2:6「ユダの地、ベツレヘムよ、おまえはユダの君たちの中で、決して最も小さいものではない。おまえの中からひとりの君が出て、わが民イスラエルの牧者となるであろう」。

2:7そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、星の現れた時について詳しく聞き、

2:8彼らをベツレヘムにつかわして言った、「行って、その幼な子のことを詳しく調べ、見つかったらわたしに知らせてくれ。わたしも拝みに行くから」。

2:9彼らは王の言うことを聞いて出かけると、見よ、彼らが東方で見た星が、彼らより先に進んで、幼な子のいる所まで行き、その上にとどまった。

2:10彼らはその星を見て、非常な喜びにあふれた。

2:11そして、家にはいって、母マリヤのそばにいる幼な子に会い、ひれ伏して拝み、また、宝の箱をあけて、黄金・乳香・没薬などの贈り物をささげた。

2:12そして、夢でヘロデのところに帰るなとのみ告げを受けたので、他の道をとおって自分の国へ帰って行った。』とあり、贈り物は必ずしも3種ではなく、ましてやシナモンの類ではない。確たる証拠はないが。

ミンスパイの元となった食べ物はイスラム経由のものである。

高い文化を誇ったイベリア半島のトレド、南イタリアシチリアのパレルモを見れば解るように661-750年の間統治したウマイヤ朝、750-1258年まで続いたアッバース朝の下で、その地で暮らしていたイスラム人がヨーロッパに食文化-ミンスパイを伝えた。

 

1200年代に書かれた料理書、「Two Anglo-Norman Culinary Collections Edited from British Library Manuscripts Additional 32085 and Royal12.C.xii. Speculum, Vol. 61, No. 4. (Oct., 1986), pp. 859-882」にはチュベット或いはペティペラウントらしき料理はなく、現在手にする事のできる最も古い、ミンスパイに繋がるレシピは、MS Harley 5401 ca.1100-1485. の中の次のものである。

 

チュベット ( Chewets. )

シャポン又はメンドリの肉を細かくチョップする。粉にしたジンジャー、クローブ、ペッパー、塩を全て小さなコフィンの中に入れる。

周りを閉じて新鮮な脂でフライする。デイッシュに2個入れてサーヴする。

 

1200年代に編まれたアンダルシア地方の Kitab al tabikh fi-l-Maghrib wa-l-Andalus fi `asr al-Muwahhidin, li-mu'allif majhul. からミンスパイに似た料理を引用した。

この頃はまだスペインのレコンキスタが完了しておらず、イスラム色が濃いレシピであると判断したからである。( できればアラブ諸国の料理を紹介したかったのだが。)

 

ラムパイ ( Mukhabbazah of Lamb )

卵白をかき混ぜ、スパイスで香り付けをしたラムのミートボールを作る。ポットにスプーン一杯のオイル、コリアンダーの汁、スプーン一杯のタマネギの汁、1/2杯の murri 、ペッパー、シナモン、チャイニーズシナモン ( Cinnamomum cassia, カシア )、松の実を一握り、コリアンダー、少量のキャラウェイ、スプーン一杯の水を入れる。ミートボールが固くなるまでクックする。

ソースをクックする。卵2個をその中に入れてボイルし、炉端から取り出す。白い小麦粉、水、オイルを錬ってドウを作る。

これでパイクラストを作る。ここにミートボール、ボイルした卵を入れる。割って入れる。ドウのシートで蓋をする。オーブンに入れて焼く。  神の思し召しがありますように。

 

Mukhabbazah:パイ

Murri :赤い色素、スパイス?

 

上の2つのレシピを見る限り、ヨーロッパにミンスパイが伝わったのは1200年より以前のように思われる。カール大帝の頃の料理書が見つかる事を願うばかりだ。

 

ジョージ・トマソン ( George Thomason , 生年不詳-1666/4没 ) が1646年にバラッド、“ 世の中がひっくり返った ( The World Turned Upside Down ) ” でクリスマスが禁じられたことを悲しむ詩を発表した。

 

To conclude, I'le tell you news that's right,  結論を言えば、本当の事なんだ、
Christmas was kil'd at Naseby fight:     クリスマスはネイズビーの戦いで殺された
Charity was slain at that same time,     同時に慈悲の心も虐殺された、
Jack Tell troth too, a friend of mine,     友のジャックも本当のことだと言っていた、
Likewise then did die,               ローストビーフにシュレッドパイも
Rost beef and shred pie,             同じように殺された、

Pig, Goose and Capon no quarter found.   豚やガチョウ、シャポンだって容赦はない。                        

Final Chorus:                  繰り返し:
Yet let's be content and the times lament,   時代を嘆くほどにまだ納得はしていないが、
You see the world is quite turned round.   世の中本当にひっくり返ってしまったのだ。

     

                            上は“世の中ひっくり返ってしまった”と言う絵。

         The world turn'd upside down:London:  Printed for John Smith, Jan 28 1646.

馬が馬車を駆り、ネズミが猫を追いかける、兔が犬を追いかけて、手押し車が人を運ぶ等々。人々の驚きぶりが理解できるだろう。清教徒達は、ホリディはその名の通りHoly (神聖な) day(日)であり、騒ぎ立てずに厳粛に過ごすべきであると考えたのである。

                   

このような社会の変化を料理書はどのような影響を受けていただろう。社会が変貌する1550年頃から1660年の約100年間に出版された料理書を詳しく調べてみた。( 此処では見やすく、比較できるように料理書が発行された年代のみを記載した。著者、書名等は下記の参考文献を見られたい。)

 

1550年;チュベット、パイのレシピ有、プディング無、カンタベリー大司教 Matthew Parker所持。

1562年;フィッシュパイのみ、野菜のプディングのみ。

1573年;骨髄で作った豆の鞘、類似のレシピ有、プディング無。

1584年;パイ、プディングのレシピ多数有。著者はA.W.と記載。

1594/7年;チュベット4種、プディング8種、パイは無、著者不明。

1597年;チュベット無、パイ2種、プディング7種。

1615年;チュベット、パイ有。ミンス、シュレッドパイ無。

1646年のバッラドによればシュレッドパイと呼ばれるミンスパイがあったようだ。

1653年;アーティチョークのパイのみ、アーモンドパイのみ、著者不明。

1669年;パイ、プディング多数、チュベットは姿を消す, ミンスパイが姿を現す。

1684年;ミンスパイが溢れるように多数現れる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

1747年;パイ、プディング多数。

 

矢鱈(失礼)抑圧された内容になっているのでは?と思うのだが。1660年を境に溢れるように、真新しい、斬新なミンスパイが登場した事を持ってしても、料理書が歴史的な出来事に大きな影響を受けていたと考えて良いだろう。

 

ここで料理人以外の意見をもう一つ紹介しよう。

1659-1669年の間に日記をしたためていた人物がいる。サミュエル・ピープス( Samuel Pepys, 1633/2/23 – 1703/5/26 、イギリスの官僚。王政復古の時流に乗り、一平民から出世しイギリス海軍の最高実力者になった人物であり、国会議員及び王立協会の会長も務めた。王政復古後の海軍再建につくし「イギリス海軍の父」と呼ばれている。)の書き残した日記からミンスパイを引用する。日記を書いた時期は、その頃の様子を知る上で恰好のタイミングである。ミンスパイの記載は10年間に13回ある。

 

1661年の12/5,12/7,12/23、1662年の1/4,1/6、12/25,1663年の12/24、12/31,1665年の12/24、1666年の12/24、12/25にはミンスパイを巡る話題が語られている。その中から2つ引用した。

 

1661年12/5日.

今朝は早くから画家のところに出かけたが、四度も書き直しがあり、満足のいく結果が得られなかった。そこで財務省まで行き、既に来ていたドウブリュ・バッテン卿に会い、セント・ジョージの支払いを済ませた(?)。間もなくダブリュ・ペン卿が見え、話をしていたのだが、そのうちダブリュ・バッテン卿はディナーで帰られた。しばらくして戻ってこられ、三人で私の家に食事に来られた。

我々の注文で方々に出しておいたミンスパイが二つ、きれいに飾られて、使いのスレーターがもって来たので非常に幸せな気分になった。

ディナーのあと彼の馬車でホワイトホール※へ出かけた。妻と一緒にオペラ ”ハムレット” を観たが、見応えのある内容であった。

教会堂に行きターナー夫人に会った(彼女はまだ重症でいる)、そこから家に戻り床に就いた。

 

※ホワイトホール宮殿 ( Palace of Whitehall ) :ロンドンに1530年から1698年まで存在した宮殿で王室の居住地であった。1691年および1698年に発生した火災で大半が焼失した、ジェームズⅠ世も宮殿の拡張を行い、1622年にはバンケティング・ハウスを完成させた。建物の装飾は1634年にチャールズⅠ世(1649年に宮殿前で斬首された)の命により、サー・ピーテル・パウル・ルーベンス ( Sir Peter Paul Rubens, 1577/6/28 – 1640/3/30 ) の設計で完成した。1650年の時点ではイングランド最大の建物であり、部屋数は1500に及んだ。
建物群は不規則に配置され、複雑な様相を呈していたため、宮殿というよりも街の様相を呈していた。

 

1666/12/25日(クリスマス)

起き出すのが遅かった。寝ている妻をそのままに、座って朝の4時まで彼女のメイドがミンスパイを作るのを見ていた。教会では牧師のミルが説教をしていた。家に帰りビーフのリブロースのローストとミンスパイを食べた。妻と、弟、バーカーとだけで自分用のワインをたくさん飲み、心から楽しかった。今日の日のあることを神に感謝して、全能の神に祝福を。

 

ピープスによれば1660年には既にミンスパイが存在していたようだ。料理書では1669年ケネルン・ディグビイ( Kenelm Digby によるThe Closet of Sir Kenelm Digby Knightの料理書 )以降にミンスパイが顔を出す。

 

ディグビイから10年経った1675年のハナ・ウーリィの The Queene-Like Closet, The Second edition では数多くのパイが紹介されている。

 

101. すばらしいミンスパイ

仔牛の肉と脂を各1ポンド細かく刻む。レーズン2ポンド、カラント2ポンド、プルーン1ポンド、デイツ6個、砕いたスパイス、キャラウェイシードを少量、塩少量、ヴェルジュ、ローズウオーター、砂糖を入れる。パイに入れて1時間オーブンで焼く。

テーブルに出すときに上に砂糖を振る。

ディグビイ ( 1603/7/11 – 1665/6/11 ) は大きな政治力を持った人物であり、はっきりと自分の意思を料理に示すことができた。

次に取り上げたロバート・メイの ( 1588 –ca.1664 ) Accomplisht Cook はイングランド内戦の間、貴族の家庭を渡り歩いた料理人が、王政復古が終わって出した料理書である。ハナ・ウーリィ( Hannah Wooley , 1622–c.1675 ) は医師として名は知られていたが政治力を持たない女性である。その彼女が料理書の中にミンスパイを採用した。やっとミンスパイが一般社会の中に戻ってきたと言えるだろう。

(シュレッドパイがミンスパイと名前を変えて。)

 

1684年のAccomplisht Cookでは、

マトンのミンスパイを作る


マトンの脚、ビーフの脂4ポンドを用意して脚の骨を取り生のまま小さいピースにする。脂もピースにする。一緒に細かくミンスする。

カラント2ポンド、レーズン2ポンド、プルーン2ポンド、キャラウェイシード1オンス、ナツメグ1オンス、ペッパー1オンス、クローブ1オンス、メイス、塩6オンスを一緒に混ぜる。パイに入れて前と同じように焼く。


             

              

上の奇妙なかたちをした物はミートパイを作る型である。右上の図は、それらを並べた、いわゆるミートパイをサーヴするときのデザインであり、右の写真はパイの完成図である。
この時代は一口大に作った様々な形をしたパイを万華鏡のように左右、前後対象に飾り付けた。その為に一つ一つは奇抜な形をしたパイの形になったと言える。
形が自由なら中に入れるフィリングもウシのタン、牛肉、仔ウシの内臓、野兎、ターキィ、シャポン、マトン、コイ、ウナギ、サーモン、チョザメ、干し魚、オイスター、カニ、卵と変幻自在であった。この時代には、言葉を変えれば、湧き出すように、吹き出すようにミンスパイが姿を現した。

同書の中で更にミンスパイを探すと;

 

ビーフのミンスパイを作る

睾又はビーフを8ポンド、脂を8ポンド用意して非常に細かくミンスする。そこに塩を8オンス、ナツメグを2オンス、ペッパーを1オンス、クローブを1オンス、メイス、カラントを4ポンド、レーズン4ポンド入れて一緒に混ぜる。パイに入れる。

 

同書の中の二つのミンスパイは、フィリングの中でミートの占める割合が60-70%と半分以上を肉(肉類)が占めている。 

              

       Mince pie designs from Henry Howard England's Newest Way  London 1703


上図は1703年に発表されたミンスパイの型である。この時点ではまだミンスミートがなかったのでは?と思われる。

  

ミンスミートパイが現れたのは料理書の中では、1723年のジョン・ノットの ( Jone Nott , Cooks and Confectioners Dictionary ) 当たりからである。

ミンスミートを作ってそれをコフィンに詰めて焼いたものがミンスミートパイである。


1859-1861年に出版されたイザベラ・ビートンの料理書 ( Isabella Beeton, The Book of Household Management ) でミンスミートは;


ミンスミート ( MINCEMEAT. )

1309. 材料—レーズン2ポンド、カラント3ポンド、ビーフ1 1/2ポンド、牛の脂3ポンド、砂糖2ポンド、シトロン2オンス、オレンジピールの砂糖漬け2オンス、レモンピールの砂糖漬け2オンス、ナツメグ1個、りんご1ポトル、レモンの皮2個分、レモンのジュース1個分、ブランディ1/2パイントとなり、肉と脂の割合は約27%となった。現在では牛の肉と脂は香り付け程度に入れる程度である。

 

イギリス本国から発せられた清教徒革命の波はアメリカのイギリス植民地、その他の植民地にまで波及したに違いない。お菓子もその影響を受けたことだろう。これについては又の機会に述べるとしよう。ひとまずミンスミートパイのお話に幕を引くことにする。

 


蛇足ではあるがサミュエル・ピープスがクリスマスに家族と一緒に食べたミンスパイは鯉、ウナギ、サーモン、蟹、卵, 仔牛、マトン、タンなどいろいろな材料をミンスした作ったフィリングをコフィンに詰めた焼いたミンストパイであった。恐らく右のような(イヤ、遙かに手の込んだものであったに違いない)、形が違えば、中に入っているフィリングも異なる-日本で言えば、にぎり寿司の盛り合わせのような-ものであったろう。このすばらしいミンスパイと一緒に、自ら管理しているワインセラーから家族の為だけのワインを取り出して過ごしたクリスマスは、ピープスならずとも神への感謝の言葉が口をついて出たことだろう。

                
                                 Photo: © copyright   HistoricFauxFoods.com

 

 

 

参考文献

Two Anglo-Norman Culinary Collections Edited from British Library Manuscripts . Additional 32085 and Royal 12.C.xii. Speculum, Vol. 61, No. 4. (Oct., 1986), pp. 859-882, ca.1200.

Kitab al tabikh fi-l-Maghrib wa-l-Andalus fi `asr al-Muwahhidin, li-mu'allif majhul., ca.1200.

MS Harley 5401 ca. 1100-1485.

The Forme of Cury, 1390.

Harleian MS 279, 1435.

The Boke of Kervynge, 1435/1508.

A Noble Boke off Cookery, 1467.

A Proper newe Booke of Cokerye. ca.1550.

William Turner, A Garden of Herbs, 1562.

John Partridge, The Treasuree of commodious Conceits, 1573.

A.W., A Book of Cookrye, 1584.

The good Huswifes Handmaide for the Kitchin, 1594.

Thomas Dawson, The Second part of the good Hus-wives Jewell, 1597.

John Murrell, A new Booke of Cookerie, 1615.

George Thomason , Ballad ; The World Turned Upside Down, 1646.

A Book of Fruits and Flowers, 1653.

Samuel Pepys, Diary of Samuel Pepys, 1659-1669.

Kenelm Digby, The Closet of Sir Kenelm Digby Knight,Opened, 1669.

Hannah Wooley, The Queene-Like Closet, The Second edition, 1675.

Robert May, Accomplisht Cook, 1684.

Jone Nott , Cooks and Confectioners Dictionary、1723.

Hanna Glassse, Art fo Cookery, 1747.

Isabella Beeton, The Book of Household Management, 1859-1861.

Wikipedia ; free-access, free-content Internet encyclopedia, https://en.wikipedia.org/

 

 

 


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