アマオケ活動記ブログ版

所属しているアマオケ(群馬シティフィル)での活動を中心に演奏会案内や練習状況など零します。

シューベルト、ああシューベルト、シューベルト

2014年07月29日 | Weblog
一句詠んでみました。

いやあやっぱ大変っす。苦行部分はカウントの頭合わせだけでも必死です。合唱の皆様が素晴らしいのでよほど頑張らないととは思います。

前にも張ったかもしれませんが(過去日記自分で読まないもので)
シューベルトの荘厳ミサ曲について詳細にいろいろ書いてくださってるサイトがあったので張っておきます。ざくっとでも読んでおくといいかもしれません。
http://www.kanzaki.com/music/ecrit/scb-mass5.html

そういえば、昨日管楽器の方が「ここはディミヌエンド解釈かアクセント解釈か」と質問されていましたが、そういえばシューベルトって直筆楽譜が悪筆で、本人はアクセントのつもりだったのがディミヌエンドで印刷されていたりするんだったなあ~って。
それも近年(?)になってシューベルト研究が進んでから、どうやらこれはアクセントだったらしいぞ、とかが有力になってきたりして、曲の箇所箇所でそっちの解釈を採用する印刷とか出てきた。
(とはいえ、もうどうしたって著者校正はないもんなあw )

そこでスコアによっては同じ曲でも記載が違っていたりするらしいのだけど、そのあたり、指揮者の解釈の好みというのもあるのでそこで質問されているのだな、と思って聞いていたんですが、あんまり主旨は伝わってなかったみたい。
が、使用されてるスコアにはディミヌエンドで記載されてるようだからそこの箇所はそれで行かれるということでした。
シューベルトだねえ…。

あと少し前に書いた「教会音楽はブレスで間が空かないようにする」という話、どこで読んだのだったかすっかり忘れてましたが、こないだ再び見つけました。
(株)ヤマハミュージックメディア発行のこの本です↓
ありそうでなかった 形から引ける 音楽記号辞典

たまたま先日読んだこの本の中の「ブレス」の項にこうあるんでした。
引用します。
》「息をする」というのは人間が生きている証です。教会音楽は「無」を表現するために、呼吸(ブレス)を見せない努力をしました。ブレスする位置をずらすことによって、永遠に持続する声を作ることを試みたのです。(中略)
対位法(ポリフォニック)の音楽も、対旋律を入れることによってブレスを隠しています。それに対して主旋律を基調とするホモフォニックな音楽は、呼吸を見せることに価値を求めてきました。現代(ロマン派の音楽以降)においては、こちらが主流となっていて、呼吸が音楽に反映してはじめて生きた音楽になるのです。《

こうやって読むと前回の紹介は多分に私の解釈が入っていますがw
ここで言う「無」とはおそらく肉体性の否定の意味です。神の永遠性、精神性は肉体性の対極にあるものだからということだろうと思います。なので前回書いたように一部二部(アリア、ピアコン)の人間性に満ちた音楽の成立と、三部のミサ曲では真逆なのですね。
一部二部の呼吸の合わせが難しいわけです。オペラはロマン派以降だけではないですが、でもオペラ自体が前回書いたように人間性の音楽ですから。
とはいえ、実際は歌い手は呼吸せざるを得ません、なので楽器が淡々と弾いてる間にどうしても若干の伸び縮みはあると思います、それをいかに上手く隠してつないでいくかというのが三部ミサ曲の難しさなんでしょうね。

ちなみに上記の本、ベテランの団員の皆様にはいまさらな音楽用語の基礎知識なのかもしれないのですが、コラムがけっこう面白いんですよ。なんとなく意味は分かってるつもりだったけど、という音楽用語の元々の語源とかいろいろ書かれていて、ああ、なるほど!と膝を打つこと多数です。
薄くて読みやすいので、良かったらお手にとってみてください。
私は一から読むと言うよりは気が向いたらぱらぱらめくって読んでます。
楽典の知識がまったくないので(私の音楽教育は中学止まりです、自慢じゃないけどw 数学物理苦手で、音楽のテスト苦手だったw それもあって高校の選択は書道取ったった)まあせめて言葉の意味くらいは、って感じですねー。