こないだ某SNSで私がタイトルに「ベト7」と入れていたのを夫が見かけて、夫はクラシックは興味ないので「「ベト7」って何?ロト7みたいなー」と言ってきたので、「ベートーヴェンの交響曲7番を略して使うんだよー、言われて見ればロト7に似てるねw」なんつー会話をしました。音にしたら違うんですけどね。
チャイコフスキーの5番をチャイ5と言ってみたり、白鳥の湖を「白鳥湖(はくちょうこ)」で済ませたり、確かに中にいないとなんじゃいそりゃって呼び方かもしれません。
そんでオケによっても略し方が違うんでしょうねー私はあちこちのオケに参加したりしないから分からないけど。ちょっと面白いです。
ベートーヴェンの6番は難しかったねという話が先日の練習の際に出て、実は5番と6番はほぼ同時期に書かれているということが出ました。
一方は超深刻で重々しく、一方は幸福な音楽です。
その話の中で私が密かに思い出していたのが2011年に亡くなられた医学博士にして作家の北杜夫のこと。医師であり歌人でもあったかの斉藤茂吉の息子でもある。
中学生の頃よく「どくとるマンボウ」シリーズと呼ばれるエッセイを読んでいたのだが作家の遠藤周作と仲が良く、遠藤の狐狸庵シリーズのエッセイと合わせて読むとお互いのエッセイの中にお互いが登場していて作家さん同士の交友が覗ける感じも楽しかった。
北杜夫は精神科医でもあったのだが、自ら躁うつ病を発症していて、そのことを自分のエッセイにちょっと軽いタッチで書かれていたのが私には面白かったのである。
で、氏の純文学の方の代表作は「楡家の人びと」というシリアス大河小説なのだが(すみませんが未読です;)これはすっごく重たい話らしいので当時の私はてっきり鬱の時に書かれたのではなかろうかと思っていたのだが、氏のエッセイの中でどっかに「人生でも珍しい躁期の時に書かれた」というような一節があって目からウロコだった。
つまり、鬱病期というのは病としてともかく何もかもの気力を失っている時期なので、とてもそんなシリアスな小説は書けない、気力が充実した躁期だったからこそ書けた、というような主旨だったように覚えている。
で、氏の作品でいけば軽いタッチで読ませるマンボウシリーズの方が多いのだ。つまり病の軽い重いはよく分からないが(本当に重い鬱ならエッセイも書けないと思う;)鬱期の方が多い方だったのだなあ、と思ったのだった。
などなど…躁鬱で気力の波があった北杜夫のシリアス大河小説は氏の人生の中で特に気力が充実していた時に書かれた作品、ということを思い出していたというわけです。
(ちなみに躁状態も行き過ぎると今度は冷静な判断を失うので、北杜夫も株に手を出してとんでもない借金を作ったりした時期もあったようです;)
ベートーヴェンの「運命」というと、あのいかにも芸術家っぽい肖像画とともに思い出される超重々しくシリアスな作品ですが、恐らくは非常に創作意欲がなみなみとあふれ出した充実した時期だからこそ書かれたのだなあと。決してウツウツと沈んだ精神で書かれたものではなく。だから田園のような明るい幸福な作品も同時に書けたんじゃなかろうかーとちょっと思ったりして。
文学専攻だったので音楽家の研究はしたことがないので単に印象ですが。
でも音楽家に限らず作家でも漫画家でも才能が溢れて溢れてという充実期には重たいシリアスで陰々滅滅な作品を描きながら一方でそれのセルフパロディみたいな軽い作品も書いていたりするので、気力充実した中でも陰陽の精神のバランスを取りながら書かれるのかもしれないですね。先生もそういうことをちらっとおっしゃってましたが、同感です。
チャイコフスキーの5番をチャイ5と言ってみたり、白鳥の湖を「白鳥湖(はくちょうこ)」で済ませたり、確かに中にいないとなんじゃいそりゃって呼び方かもしれません。
そんでオケによっても略し方が違うんでしょうねー私はあちこちのオケに参加したりしないから分からないけど。ちょっと面白いです。
ベートーヴェンの6番は難しかったねという話が先日の練習の際に出て、実は5番と6番はほぼ同時期に書かれているということが出ました。
一方は超深刻で重々しく、一方は幸福な音楽です。
その話の中で私が密かに思い出していたのが2011年に亡くなられた医学博士にして作家の北杜夫のこと。医師であり歌人でもあったかの斉藤茂吉の息子でもある。
中学生の頃よく「どくとるマンボウ」シリーズと呼ばれるエッセイを読んでいたのだが作家の遠藤周作と仲が良く、遠藤の狐狸庵シリーズのエッセイと合わせて読むとお互いのエッセイの中にお互いが登場していて作家さん同士の交友が覗ける感じも楽しかった。
北杜夫は精神科医でもあったのだが、自ら躁うつ病を発症していて、そのことを自分のエッセイにちょっと軽いタッチで書かれていたのが私には面白かったのである。
で、氏の純文学の方の代表作は「楡家の人びと」というシリアス大河小説なのだが(すみませんが未読です;)これはすっごく重たい話らしいので当時の私はてっきり鬱の時に書かれたのではなかろうかと思っていたのだが、氏のエッセイの中でどっかに「人生でも珍しい躁期の時に書かれた」というような一節があって目からウロコだった。
つまり、鬱病期というのは病としてともかく何もかもの気力を失っている時期なので、とてもそんなシリアスな小説は書けない、気力が充実した躁期だったからこそ書けた、というような主旨だったように覚えている。
で、氏の作品でいけば軽いタッチで読ませるマンボウシリーズの方が多いのだ。つまり病の軽い重いはよく分からないが(本当に重い鬱ならエッセイも書けないと思う;)鬱期の方が多い方だったのだなあ、と思ったのだった。
などなど…躁鬱で気力の波があった北杜夫のシリアス大河小説は氏の人生の中で特に気力が充実していた時に書かれた作品、ということを思い出していたというわけです。
(ちなみに躁状態も行き過ぎると今度は冷静な判断を失うので、北杜夫も株に手を出してとんでもない借金を作ったりした時期もあったようです;)
ベートーヴェンの「運命」というと、あのいかにも芸術家っぽい肖像画とともに思い出される超重々しくシリアスな作品ですが、恐らくは非常に創作意欲がなみなみとあふれ出した充実した時期だからこそ書かれたのだなあと。決してウツウツと沈んだ精神で書かれたものではなく。だから田園のような明るい幸福な作品も同時に書けたんじゃなかろうかーとちょっと思ったりして。
文学専攻だったので音楽家の研究はしたことがないので単に印象ですが。
でも音楽家に限らず作家でも漫画家でも才能が溢れて溢れてという充実期には重たいシリアスで陰々滅滅な作品を描きながら一方でそれのセルフパロディみたいな軽い作品も書いていたりするので、気力充実した中でも陰陽の精神のバランスを取りながら書かれるのかもしれないですね。先生もそういうことをちらっとおっしゃってましたが、同感です。