雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

雨宮日記 6月5日(土)夜 里山の蛍と星と闇と

2010年06月05日 22時46分36秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 6月5日(土)夜 里山の蛍と星と闇と

 予定していた会議が流れました。ぼくの方から、何か言ったりしたわけではないのですが、妻のN子さんが「智彦くん、ホタル、見に行こうか?」と言いました。
 ぼくは、凄く嬉しくなって、すぐ「うん!」と答えました。

 浜北区・灰木川の、私たちの里山は、中区の自宅から車で40分くらいです。
 着くと、まだ真っ暗ではなくて。
 しばらく、田んぼの中のオタマジャクシやタニシを見ていると、ホタルたちが暗闇を待ってから光り始めました。

 白い小さな光りが、森の中にともりはじめて、その光りが、闇のなかを飛び始めます。

 アマガエルやシュレーゲルアオガエルやヌマガエルが鳴いています。

 初夏の夜のホタルは、日本人にとって特別の生命なのではないか、と思います。
 一つひとつの生命が、みんな、それぞれの光り輝く魂を持って、生きて、死んでいくことを自分の目で見て、感じることができる、それがホタルなのではないでしょうか。

 闇のなか、目の前や、田んぼの上や草や森の中で、ペカペカと光っているホタルと、今年も会うことができて、生命の尊さ、自分やN子さんの命が、どこまで遠くへ行けるか、自分の心の奥へ降りていって、深く考えざるをえません。

 ホタルさんの生命は、あと数日間です。
 ぼくやN子さんは?
 ぼくやN子さんの光りは、こんなにきれいなのかな?
 (N子さんの人格・魂の光りは、とても、きれいですけど)

 ホタルが飛んで上昇していくと、森の上の夜空には、ホタルと同じような小さな光りの星たちが、またたいていました。
 北斗七星、アークトゥルス、獅子座、火星。

 「帰る?」
 「うん」
 

本と映像の森46 マイケル・クライトン『ジュラシックパーク㊦』

2010年06月05日 21時37分35秒 | 本と映像の森
本と映像の森46 マイケル・クライトン『ジュラシックパーク (下)』ハヤカワ文庫、早川書房、1993年3月31日発行~5月15日3刷、420ページ

☆新刊だけでなく、旧刊や以前読んだ本も紹介していきます(紹介した本は、どんどん捨て ていって…部屋をきれいに……)

 上下2巻のSF小説ですが、上巻が見つからないので(どこかにはありますが)下巻だけ紹介します。

 映画にもなりましたが、映画が小説の核心的な部分「物語と一人ひとりの人格」を表現しているかどうかは、映画「ジュラシックパーク」とその続編は見ていないので、わかりません。小説の方は「すごくいい」です。
 
 中米の小国・コスタリカの沖合にある孤島を買い取った大富豪と遺伝子企業が、中生代の恐竜化石のDNAを復元して、実際に生きている恐竜を復活させて「恐竜動物園」をつくろうとしました。
 開園前に招かれた恐竜学者や生物学者・数学者・大富豪の孫の兄妹は、恐竜たちがコントロールを越えて暴走するのに直面します。
 
 リアルに描かれていて物語をなりたたせているのは、兄妹が直面した「泳ぐティラノザウルス」や小型で協同で狩りをする肉食恐竜「ヴェロキラプトル」と人間たちのたたかいです。

 パーク」の崩壊を予言した数学者イアン・マルカムの言葉は注目です。

 「連中にあるのは、わたしがいうところの〝見かけの知能〟だ。技術者は当面の状況しか見ない。」「要するに考え方の幅が狭いということだ。技術者はまわりを見ようとしない。結果まで見通そうとしない。だからこそ、こんな島ができあがってしまうんだ。見かけの知能の産物さ。動物を創りだしたなら、自然に行動しない方がおかしい。動物は予測のつかない行動もとるだろう。逃げ出しもするだろう。なのに連中はそれがわからないんだ。」
 (p180)

 エリー「時間をもどしたいというわけ?」
 マルカム「ちがう。みんなに目覚めてほしいだけだ。近代科学が発達して400年、そろそろなにがためになり、なにがためにならないかを考える時期にきている。変革の時が来ているんだ。」
 エリー「人類が地球を滅ぼしてしまう前に?」
 マルカム「やれやれ。ことははるかそれ以前の問題だよ。」(p184)

 「科学のどこがまちがっているか知っているか?」
 「それが相続財産の一形態であるという点だ。金持ちという輩がいかに先天的に腐りきっているかは、いまさら、いうまでもない。」
 「たいていの力というやつは、その力を望む者に多大の犠牲を強いる。力が欲しければ何年も忍従し、年季奉公の期間を勤めあげなくてはならない。」
 「この過程で興味深いのは、だれかが素手で人を殺せる能力をもとめたとして、それを獲得するころには、その力をみだりに使わないだけの分別がついていることだ。その種の力には自己規制力が内在している。その力を手に入れるために自分に課した修行が、力の乱用を規制するんだ。ところが科学という力は、相続財産に似ている。なんの努力もなしに手に入るからだ。先人の研究を読むだけで先へすすむことができるんだからな。それも、かなり若い内にだ。おかげで進歩は格段に早くなる。何十年も努力を積み重ねることもない。師という観念もない。老科学者は無視されるのみだ。そして、自然に対する畏敬もない。」

 「要するに、こういうことだ。危機に瀕しているのは地球じゃない。人類の方だ。人間にはこの惑星を滅ぼすだけの力はない。救う力もない。しかしー自分たちを救済する力くらいはあるかもしれない…」
 (p339)

 ここまで書いてきて、やっとわかりました。
 「ジュラシック・パーク」でのイアン・マルカムさんの主張と、「ゲド戦記」でのゲドやテナーやテルーなどの生き方は、まったく同等ですね。

 というより、数学者のイアンさんが理論で主張していたことを、ゲドやテナーやテルーは実際に生きてきたんですね。
 私も、そういう生き方を、N子さんといっしょにしたいなあと思います。

 




 

日本古代史を考える 「丸石神」または「竜の卵」について

2010年06月05日 05時39分53秒 | 古代史を考える

日本古代史を考える 「丸石神」または「竜の卵」について

 山梨県を中心に分布する、丸い石の信仰があります。「丸石神」というのですが。
 これが、人が丸く磨いたのか、自然に丸くなったのかが、問題です。

 わが浜松では、そういう信仰はないと思いますが、たとえば科学館前に、「丸石」がたくさん並んでいます。

 とんでも本の一つとされているデニケンさんの本(角川文庫)には、コスタリカの似たような丸石が指摘されています。

 そして、奈良県山添村では、どでかい「丸石」が出てきました。

 こういう問題を、自然科学で解くのか、社会科学で解くのか、どっちでしょうか?
 
 私は、自然科学的に、火山地帯で地中でできた「丸石」を、人間たちが「丸石神」として信仰したと解釈します。
 人為的な丸石ではないのではと。

 原作:小松左京さん、マンガ:一色登希彦さんの『日本沈没3 D計画』<ビッグコミックス>、小学館、では長野県の山中にこもっている科学者のことばで「竜の卵」として出てきます。