雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

雨宮日記 6月6日(日) N子さん名古屋へ、ハヤブサは帰還

2010年06月06日 22時31分54秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 6月6日(日) N子さん名古屋へ、宇宙探査機ハヤブサは帰還

 今日は、最初はいっしょに「名古屋の13カ所からの集中平和行進」へ行こうかと思っていたのですが、体がきついのと、遅れている各ブログの更新を必死でしたいので、
 「ごめん、一人でいきつける?」とN子さんに泣きつきました。

 N子さんは「いいよ」と、昨夜は、今日の家族の食事用に、たくさんカレーを作って、たぶん朝早く、朝7時10分浜松駅発のこだまで出かけていきました。

 名古屋の地下鉄東山線の一社駅からの「千種コース」を歩いたそうです。

 夕方、ニコニコして帰ってきて「よかったよ!やっぱり「百聞は一見にしかず」だね」
 「お帰りなさい。よかったね」と答えるぼく。

 (でも、内心では「見て、聞いて、現場にいないと、わからないようでは、N子さんの秘書・演出の役割は果たせないよ」「N子さんは行動の人だから、実際の現場で判断する人だけど」「N子さんだけはなくて、他人を助けることができるには、自分の居る場だけ理解しているようじゃ、だめなんだよね」と)

 夕方、ゲド戦記の第1巻「影とのたたかい」が手元に帰ってきたので、「本と映像の森44」の補足を書きました。

 N子さんは「残っているちらしまき、しようか?」と言っていましたが、やはり疲れたのか、眠ってしまい、いま午後11時、起きてきませんね。
 ゆっくり眠ってください。

 ぼくは、夜、高林のツタやに行って、CDでバッハの4枚組、DVDで「影とのたたかい」「ハウルの動く城」「ピアノの森」を借りてきました。
 見たら、感想を書きますね。

 ニュースで、日本の宇宙探査機「ハヤブサ」が、小惑星の「粉」をたずさえて、地球に帰還できそうだと。軌道修正がうまくいったようです。
 これまで、電波での遠隔操作に苦労して、無人探査機ってすごいですね。
 太陽系ができた46億年前の岩石の粉がほんとうに研究できるか?
 13日夜は、回収成功まで、見守りたいと思います。

 「ハヤブサ」と「ハイタカ」は同じ鷲鷹類。
 だから、どうということは、ないんですけど、なんだか嬉しいです。
 
 
 

本と映像の森47 小枩美彦さん『脳死・臓器移植の本当の話』

2010年06月06日 19時54分13秒 | 本と映像の森
本と映像の森47 小枩美彦さん『脳死・臓器移植の本当の話』PHP新書、2004年6月2日第1版第1刷、424ページ、定価950円+消費税

 臓器移植に賛成の方も、反対の方もいると思いますが(私は反対です)、この本を読んでから決めて欲しいと思います。

 つまり「脳死」は人間の死なのか、というより、「脳死」と判定された人は「本当」に死んでいるのか、意識はないのか、感覚はないのか、ということです。

 小枩さんは、死者が体を動かす「ラザロ兆候」という現象や、実際に脳死者から臓器を取り出そうとして、「死体」が動くために死体に「麻酔をかける」という多くの例をあげています。

 そして「脳死」判断をするために、きちんとした治療がなされなくなる可能性も、実例に則して検討しています。

 そして、通称「植物状態」で生きている患者について、表現系の「コミュニケーション障害」であって、感覚も意識も生きて作動している可能性についても述べられています。

 小枩さんはこう書いています。

 「「人間の尊厳」とは、いかなる状態であれ「あなた」と呼べる者がただそこに「いる」ということに思えてならない。
 思えば、脳死臨時調査会の最終答申はこう述べていた。

 『「脳が死んでいる」場合、すなわち意識・感覚等、脳のもつ固有の機能とともに脳による身体各部に対する統合機能が不可逆的に失われた場合、人はもはや個体としての統一性を失い、人工呼吸器をつけていても多くの場合数日のうちに心停止に至る。これが脳死であり、たとえその時個々の臓器・器官がばらばらに若干の機能を残していたとしても、もはや「人の生」とは言えない(3頁)』

 脳死のこの規定に巻き込まれるとき、私たちは具体的な生身の脳死患者の存在も、脳死患者と周囲の者との絆を忘れている。また、そうした絆と生身性を想像しえないとき、私たちは、「脳死」という1個の「政治言語」に圧倒されるのである。この忘却や屈服は、上の意味での「人間の尊厳」の冒涜に他ならないだろう。」(p403~404)

 「いる人生」と「する人生」については、『ゲド戦記』を参照してください。

 人間をばらばらにみる見方については、山本広太郎さん著『差異とマルクス ー疎外・物象化・物神性ー』(青木書店、1985年)での「悟性主義」批判を参照してください。

 たぶん今、絶版なので、関係する部分を引用しておきます。

 「「近代」のたんなる反対物は、「近代」にとってかわることができず、じっさいには「近代」を補完するだけである。
 なおここで悟性主義とは、ものごとの内的連関を把握しようとせず、ものごとをたんにバラバラに、分離的にのみみる見方をいう。」(p7)

 「他のものとの関係において、つまり対他関係において現われる眼でみえる差異的な現象を究極のものとみて、物の同一性、本質、実体の分析を拒否する「現象学」の方法は、同時に「俗流経済学の方法」そのものだった」(p186)

 「近年、歴史の紆余曲折を反映して、悟性主義が、洋の東西をとわず、一大ブームをまきおこし、「存在するものは差異なり、同一性と矛盾は仮象にすぎない」という教説をかかげて」(p195)