雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

雨宮家の歴史 19 「第2部 1-17 林泉書房」

2014年06月08日 04時04分22秒 | 雨宮家の歴史

雨宮家の歴史 19 「第2部 Ⅰ 17 林泉書房」

(十九) 店やめて独立せんと思へども 蓄えは大方使いはたしぬ
                           ( 昭和十三年 )

  私はこの歌を詠む度に、啄木の「はたらけどはたらけど 猶わがくらし楽にならざり ぢっと手を見る」を思い出す。兄弟二人の学費で、給料だけではやって行けなくなったので、古本屋で自立しようと思ったのである。

  最後の浜松城主、井上河内守正直が命名した最初の谷島屋の別名「博文舎」と名付けて、北隣の山口菓子店を買収して、谷島屋が古本部を設けた時、父がその主任となった。

  私が学校の帰りに寄ると、必ず甘い菓子がとってあった。父は無類の甘党で、御飯に汁粉をかけて食べる程であった。煙草や酒を少し嗜(たしな)むようになったのは、配給制になってからである。

  古本の売買には、古物商の鑑札がなければ出来ない。それに新刊書と違って、古本の目利きには長年の修行が必要である。父は谷島屋を一時やめた湯島天神町時代に、神田の古書市会に出入りし、本郷の棚沢書店に古本売買の手ほどきを受けた(第1部7「谷島屋書店」参照)ので、この時の経験を買われたのであろう。

  しかし、そうそう儲かる訳でもないので、昭和十三年、連尺町も通りが拡張されることになり、店も改築されて古本部は廃止された。この期に、父も独立することを考えたのである。

  蓄えは使い果たしたというが、資金の目途はついていたのであろう。下町の東海道筋の新町に、間口一間半、奥行き三間の店と、住宅付き二階建ての細長い借家を見つけて開業した。空襲で焼けるまで、ここで営業した。大家は隣のK商店で、小巾織の卸商であった。

  屋号の「林泉書房」の「林泉」は短歌の師であった篠原の医師柳本城西氏(第1部8「アララギ」参照)が名付け親だった。

  同じアララギ派の歌人、中村憲吉の歌集『軽雷集』の中の桂離宮を訪ねた時の歌 

   「林泉(しま)のうちはひろくしづけり翡翠が 水ぎわの石に下りて啼けども」

  の「林泉」或いは憲吉の第二歌集『林泉集』より採ったという。

  この年、国家総動員法が公布され、人的、物的資源の統制が始まった。綿製品や革・ゴムが統制され、私たちが入学した時は何でもなかった征服などの新調が禁じられてスフ(編注①)となり、靴も下駄ばきが奨励された。

  国は更に、人の心にまで入ってきて、国民精神総動員なるものも決めた。「欲しがりません勝つまでは」の標語で、国民は何一つ新しい物を手に入れることが出来なかった。尤もこの標語には後日物語があった。実際の作者は、小学生の女の子ではなく父親であった。

  また隣組制度によって、国民はその身をがんじがらめに縛りつけられて、自由を束縛された。その反面、「闇」が横行し、ある所には物があった。

  国民の生活が窮屈になり、娯楽面でもいろいろ制限されてきたが、本は割合によかったので、娯楽に飢えた国民には手ごろなものとなった。尤も製作面では紙の統制などで困ったが。

  林泉書房は小さな店であったが、割合順調にいったようである。同じ東海道筋の隣り町の板屋町に、泰光堂書店があったが、戦後の今も古本屋として続いているのは、この泰光堂と池町の典昭堂の二店のみである。

  浜工に入学した昭和十年はまだ平和だったが、十一年の二・二六事件のことは余り知らなかった。翌十二年七月、盧溝橋より日中戦争が本格的となり、毎日の新聞に載る日本軍の進撃地図に、日の丸をつけていた私は,今思うと、もっと物事の本質(表裏)を見極めなければいけなかったと反省している。

  五年生になると、支那語(中国語)が正課となり、英語と選択制となった。私は支那語を半年間やったが上達せず、ちんぷんかんぷんであった。

 (編注①)「スフ」 ステープル・ファイバー  の略。木綿の代用品の粗悪な人造繊維

 

 


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