雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

雨宮日記 11月1日(金) 今日から「神無月」、出雲は「神在月」です

2013年11月01日 22時39分50秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 11月1日(金) 今日から「神無月」、出雲は「神在月」です

 今日から11月です。全国的には「神無月(かんなづき)」、出雲だけは「神在月(かみありづき)」です。

 つまり、出雲の大國主の命のもとへ、全国の「八百万(やおろず)の神さま」たちが「全員集合」で集まるので、全国的には「朝!」じゃない、「神さまがいない」のですね。

 そして全国から集まってくる神さまで、出雲は「神在月」になります。

 問題は、このイメージが古代からのものか、それとも近世~近代になってから「出雲大社」が作り上げた宣伝イメージなのか、ですね。

 ぼくが思うには、『古事記』『日本書紀』という、8世紀初頭の「日本古代国家」が作った「検定済み歴史教科書」に、堂々と「ヤマト朝廷は、出雲の大國主の尊から「権力」を「国譲り」で委譲された正当な国家である」と書いてあります。

 つまり、国譲りまでは、日本列島の支配権は「出雲」が持っていたと、公式に書いてあるのです。

 「記紀」の根幹である「国譲り」自体を否定するなら、『古事記』『日本書紀』の根幹が「ウソ」であり「創作小説」であるとしないといけなくなり、古代史が成り立ちません。

 ぼくは「国譲り」は実際にあった事実であると思います。

 ただし、そのことと「ヤマト天皇家」との関係は、「記紀」では明確ではありません。直系、とは書いてありませんので。

 

 


遠州の遺跡・寺社・地名(近世編) 119 蜆塚ー3つの寺ー曳馬城の東西線

2013年11月01日 22時23分59秒 | 遠州古代史

遠州の遺跡・寺社・地名(近世編) 119 蜆塚ー3つの寺ー曳馬城の東西線

 神社の研究はしていますが、お寺の研究は、あまりしていません。神社のことを考えるために、浜松市の中心部を見ていて発見しました。

 浜松の縄文時代を代表する遺跡である蜆塚遺跡は、古墳もあり、真横に東向きの「山神社」があることからも、縄文時代以後も、影響力をもった遺跡であると思います。

 その蜆塚遺跡=山神社から春分・秋分の日の出の方向、真東に東西線を引いていくと、西から「宗源院」「西来院」「普済寺」と3つのお寺を通っています。

 地図を見てもらえばわかりますが、3つのお寺とも「かろうじて、かすめて」いるのではなくて、3つのお寺の北端・南端は3つともほとんど同じです。

 そして、さらにまっすぐ東へ伸ばして、「中世~近世」という時代限定で考えると、当時の「曳馬城」、つまり徳川家康が侵略してくる以前の「飯尾氏」の時代のお城を通ります。

 つまり、同時代の「過去の遺跡ーお寺ーお城」が同緯度になっています。このことは偶然ではなくて、意味があることだと思います。

 家康は、浜松を占領してから、新たに、この緯度よりかなり南へ「浜松城」を築きます。このことも、過去の伝統と決別する意味で、重要なことだと思います。

 これって、これまでに誰か気がついた人がいるという事実がありましたら、ぜひ、私までご一報ください。