雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

雨宮日記 10月25日(木) 則子さんは日本平へ被爆者の会へ参加しました

2012年10月26日 06時04分38秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 10月25日(木) 則子さんは日本平へ被爆者の会へ参加しました

 則子さんは、25日から26日の一泊二日で、静岡市の日本平ホテルでの被爆者の会の会合に参加しました。則子さんがいなくても、ぼくや次女は自分で適当に食べるので、問題ないけど、ぼくの89才の父は、則子さんがいないと、何を食べるか心配なようです。

 1日目は、父の好きな「煮物」をたくさん作っておいて、2日目は、近所の寿司屋さんに「お寿司」を注文しておいて、なんとかしています。

 父にとっては「同居する次男の嫁さん」ですが、則子さんがいなかったら、ぼくと父だけでは、かなり悲惨な生活になりそうです。ぼくが30数年前、則子さんと結婚して、ずっと夫婦でいることは、父にとっても幸せな事態だったと思います。

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 午後起きて、まずシャワーを浴びました。最近は、ほとんど湯船には入りません。そして、車でガソリンスタンドへ行って給油しました。1ヶ月に1回くらいですね。今日は24.36リッター、単価は149円で、支払い3630円です。

 そのまま松城町の中央図書館に行ったら、なんと休みでした。なにかの臨時休業でしょうね。

 車で「こじま電器」へ行って、パソコン印刷の普通用紙「画彩 250枚」を3つ、900円で買いました。

 上島の事務所へ行って、今月の給与(14万5千円)をもらい、家に帰って、則子さんが作っておいてくれた夕食を暖めて、父が起きてくるのを待ちましたが、起きてこないので、自分だけで食べました。

 次女のIさんは「遅番」で、帰宅は午後9時過ぎでした。

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 則子さんは26日(金)の夕方に帰宅予定です。


遠州の遺跡・寺社・地名 97 浜松の船岡山と京都の船岡山

2012年10月26日 05時31分20秒 | 遠州古代史

遠州の遺跡・寺社・地名 97 浜松の船岡山と京都の船岡山

 「遠州の遺跡・寺社 71 坂上田村麻呂伝説、東区半田山の船岡山・法源堂 」で紹介した「船岡山」ですが、その名前の起源は、どうも京都の「船岡山」ではないかと思いつきました。

 京都の船岡山は北区にある112mの岡で、平安京の南北の中心軸である「朱雀大路」の延長線上にあるため京都の都市計画の原点になったのではないかという説があります。

 船岡山には岩石祭祀の跡があり、平安時代にも宮廷の祭祀の場とされていたので、京都の原点という資格は充分あると思います。

 清少納言さんの『枕草子』の「231段」に「岡は船岡」と出ているそうですので、やはり「整地」だったのでしょう。

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 そういう「船岡山」が浜松にあって、しかも古代の坂上田村麻呂伝説に関連して出てくるということは、渡来人の伝説と言うことです。京都が渡来人の「秦氏」の地盤だったことは有名ですし。浜松でも坂上田村麻呂伝説の「漢氏」計だけではなく、「八幡」の地名がたくさんあるように「秦氏」がかなり栄えていたことは確実です。

 浜松の「船岡山」の南には、浜松の古代の中心都市があるでしょうか?古代から中世の「曳馬宿」があって、京都と浜松、規模は違いますが、北の「船岡山」とまっすぐ南に伸ばした「中心市街地」ということは共通しています。

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 和歌山県に「船岡山」があるのを見付けました。関係あるかどうか。

 滋賀県東近江市にも船岡山がありました。ここは万葉の「蒲生野」で、南に都市はなさそうです。滋賀県の「船岡山」は渡来人と関係ありそうですが。なぜかというと、天智天皇は「百済系」、天武天皇は「新羅系」という説があるからです。

 新潟県小千谷市にも船岡山がありました。