馬糞風リターンズ

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「帯広・オベリベリ・オペレペレケプ」・・・地名の話(16)続き

2010年02月15日 | 地名・地誌
「帯広・オベリベリ・オペレペレケプ」・・・地名の話(16)の続きです。

何の疑いも無く「帯広」は「オペレペレケプ・オベリベリ」が「帯広」表記になったものと思っていました。
 音韻変化としては「チョットおかしい」とは思いながらも納得していました。

昨年「帯広図書館」で明治期の史料を大量にコピーしたことを当ブログで紹介しましたが、現在、史料を分析中です。

今回、当ブログを書くに当たり、もう一度資料に目を通したところ、そう簡単な問題でない事実が幾つも出てきました。

 現在、各方面に資料の依頼や問合わせ中ですから断定的なことが書けません。
しかし、簡単に問題点だけを紹介しておきます。

帯広の前段階の地名「オベリベリ」は、明治15年頃、晩成社が十勝に関心を示した頃からの資料に現れる「地名」です。

明治3年、十勝が「一橋・田安」の領地であった頃の史料に「下帯広」表記が既にあっるそうです。
また、明治6年製の地図に「下帯広村」の表記があります。(この地図は、コピーを持っています)
そうすると「帯広」表記は明治3年には既にあったということになります。

信じて疑わなかった「オベリベリ」→「帯広」は間違い、と云うことになります。
また、迂闊なことですが「晩成社事業報告書」に「下帯広村オベリベリ」と云う記述もあります。

 「帯広市史」はじめ「北海道史」などの地域史にも、この部分についての記述が極めて曖昧に書き流しています。
何故、明治3年の「下帯広」が、「帯広」地名の初めと云わないのかが分かりません。
素人の悲しさで「分かり切った事」、帯広地名を語る上で「基本的な知識」でいまさら言うまでもない事実を僕が知らないのかもしれません。

 ただ、これらに関する資料が「帯広市立百年記念館」に全くないこと、学芸員も「関心」がなく「道庁」に聞いて欲しい、と云うだけなのが残念です。

また、「北海道開拓記念館 学芸部」(近代史担当)に問合わせても、応対は丁寧であっても「地名」が専門でありませんので、との回答です。

 どうも「一橋家文書」を捜しあてなければ解決しないようです。

「下帯広」を「ポン・オペロヘロフ」と読ませていたようです。

写真は中島公園内にある拓聖「依田勉三翁」像:中島みゆきの祖父中島武市の寄付により建立されました。

 

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1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
はじめまして (十勝ごぼう屋)
2010-07-17 13:08:21
オベリベリの意味を検索していましたら、こちらにたどり着きました。

32年ぶりに生まれ故郷に戻り、今は有機栽培農法を学ぶ生活が3年目を迎えたものです

我が故郷、帯広開拓の祖
勉三翁の記事を拝見し感動です
ありがとうございます

本日は午前中「帯広発祥の地公園」にて地元の親子さんたちと自然観察会を終えてきたところです・・・
十勝はまさに盛夏
今朝の勉三翁も清々しいお姿でした♪

これからも十勝帯広をよろしくお願いします
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