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ALGOの塾長日記~愚公移山~

-学習塾方丈記-

学習指導の由なしごとを
    徒然に綴ります。

音読暗唱(2)

2011年11月07日 | 中学受験 合格力随想

第1の問題点は、暗唱の目的が記憶となっているために、教育と文化が混同されがちだということです。例えば、平家物語や寿限無や枕草子を覚えることは、決して否定されることでありません。しかし、暗唱というとすぐにそのような古典や有名な文章にこだわるところに問題があります。 現在は、科学の成果が生活のすみずみにまで浸透している時代です。そのような科学の発達を考慮すれば、むしろ子供たちには知的感動の喚起を促す文章を読ませるべきではないかと思います。ファラデーの「ろうそくの科学」や寺田寅彦の物理学の随筆を読んで科学の面白さに目覚めたという人の話を聞きます。現代の子供が覚える文章は、論語や孟子のようなものでももちろんいいのですが、現代の文化を反映した文章へと領域を広げるときに来ていると思います。

問題点の第2は、教材に頼りすぎる傾向があるということです。つまり、限られた有名な文章を使うことで、その限られた少数の文章を歌やイメージによって、兎に角速く覚えるということが優先されています。 これは逆に言えば、教材がなければ学習ができないような学習の仕方をしているということになります。

問題点の第3は、暗唱の過程ではなく、暗唱の結果に重きを置いているという点です。暗唱を料理のようなものだと考えると、暗唱の結果は料理そのものです。大事なのは、料理の仕方、つまり暗唱の仕方を身につけることであって、出された料理を食べること、つまり暗唱がうまくできること、ではありません。暗唱の結果そのものを目的とすることから、歌やイメージによって、暗唱する対象を早く効率よく覚えることが暗唱の目的のようになります。これが、暗唱の結果を学習の評価と考えることと結びついて、百人一首を覚えたり、有名な短歌を覚えたり、県庁所在地を覚えたりするという暗唱のスタイルになっています。

このような暗唱の結果を数多く知っているということは、単にクイズ番組に出る知識をたくさん知っていることと変わりません。そのような知識は、学年が上がり学習上や生活上の必要に迫られてから覚えれば十分です。 もちろん、暗唱の方法は暗唱の対象と不可分に結びついていますから、暗唱の対象を何にするかということも重要です。しかし、ここで大事なのは、暗唱の対象を、先の学年で出てくる学習の知識を先取りするもののように考えることではなく、人生を豊かにする知識を身につけるという方向で考えていくべきだと思います。

例えば、もし覚えることそのものを重視するのであれば、日本語の持っているいろいろな色の名前を覚え、微妙な色合いの差を子供のころに感じ取れるようにするとか、野山の植物の名前を覚え、雑草にも親しみを感じられるようにするとかという方向で考えていくと、今の受験勉強には直接役立たないとしても、その子の人生そのものが豊かにし、生活に潤いを与えると思います。 しかし、いちばん大事なことは、やはり覚える対象ではなく、覚える方法を身につけることであることを肝に銘ずべきです。覚える対象は、それぞれの各人が自由に選べるようにした方が学習の幅が広がります。

問題点の第4は、暗唱が、覚えることを目的としているために、やりやすい方法として、聴くだけで覚えるというような方法がとられることもあるということです。 何度も聞いて覚えるというのは、覚える学習というよりも、単に何度も聞いたことに適応したという、人間の持つ適応力の一つに過ぎません。「門前の小僧習わぬ経を読み」という言葉があります。それは決して無意味なことではありませんが、そのことによって小僧が立派なお坊さんになるかというとそうではありません。成長には、主体的な意思が必要で、ただ環境になれることで成長するというものではないのです。

また、聴くだけで覚えるというのは一見便利なようにも見えますが、逆に聴くために作られた教材がないと学習できないという問題につながります。教材を必要としない暗唱の仕方は、自分の口で言って自分で聴いて覚えるという方法です。この「自分で言って自分で聴く」というのは、記憶力の本質に近い方法であり、この方法なら特別な教材が不要になるのは自明の理です。

アルゴの音読暗唱の目的は、記憶することでも記憶力を育てることでもなく、読解力と表現力を育てることです。それに付随するものとして、記憶力や記憶した結果が存在するのだと考えていま。



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