『きょうも生きて』を初めて読んだのは、たぶん中学校のときだったでしょうか。何がきっかけだったのか、今はその記憶も定かではありません。私が生まれた頃が初版だと思いますが、父を戦争で亡くした姉弟が、目の不自由な母とともに戦後の時代を、貧しくともたくましく生き抜いていくお話です。
その後、私はこの本のことを忘れていました。ところが、たまたま『きょうも生きて 第二部…天のふうせん』という題名を見つけました。あの本に続きがあったのです。私が読んだのは、『きょうも生きて 第一部…父のいない家』でした。古い本ですから、もう手に取ることもできないだろうと思っていましたが、偕成社文庫から出版されているとのこと。アマゾンで注文し、連休中に読んでいます。
改めて読み返してみると、初めて読んだときの思いが甦ります。とし子が〈詩・作文コンクール〉の詩の部で一位に入選し表彰式に出席しますが、無情な雨がその幼い身に降り注ぐ・「黄色い水」の場面は、以前読んだときも涙した覚えがあります。今回読んで、さらに鮮明に思いえがくことができました。私は、あの頃もこんな思いを持ってこの本に接していたのでしょうか。この本に何を求めていたのでしょう。
涙が出てきて停まりません。とし子の気高さに涙し、二郎の優しさにまた涙しています。この高揚感を不思議に感じます。ほぼ同じ時代を生きた郷愁なのか、それとも似た境遇を経験した共感なのか、心が洗われていくような思いに囚われています。ヒトは長く生きる間に本当に必要なモノを失い、必要でないモノを身につけていくのかもしれません。
作者は坂本遼氏です。児童文学や詩作に大きな足跡を残されていることを、今回インターネットで知りました。さらに驚いたことは、かって中学校の教科書に載っていた「春」の作者も彼でした。この詩はとても印象に残っています。この詩にも、ヒトがヒトとして生きることの悲しみと喜びが、限りない母への愛とともに詠われています。
思うと彼はずっと私に、人の目を気にして取り繕って生きる愚かさを教えようとしていたような気がします。貧しくても人を思いやり、素朴に実直に生きていくことが大切であると語り続けてくれていました。そのことが、今あらためて分かった気がします。今日帰ったら、小中学生の頃のアルバムを久しぶりに繙いてみたい気持ちになりました。
春
坂 本 遼
おかんはたった一人
峠田のてっぺんで鍬にもたれ
大きな空に
小ちやなからだを
ぴよつくり浮かして
空いっぱいになく雲雀の声を
ぢつと聞いてゐるやろで
里の方で牛がないたら
ぢつと余韻に耳をかたむけてゐるやろで
大きい 美しい
春がまはつてくるたんびに
おかんの年がよるのが
目に見へるやうで かなしい
おかんがみたい
その後、私はこの本のことを忘れていました。ところが、たまたま『きょうも生きて 第二部…天のふうせん』という題名を見つけました。あの本に続きがあったのです。私が読んだのは、『きょうも生きて 第一部…父のいない家』でした。古い本ですから、もう手に取ることもできないだろうと思っていましたが、偕成社文庫から出版されているとのこと。アマゾンで注文し、連休中に読んでいます。
改めて読み返してみると、初めて読んだときの思いが甦ります。とし子が〈詩・作文コンクール〉の詩の部で一位に入選し表彰式に出席しますが、無情な雨がその幼い身に降り注ぐ・「黄色い水」の場面は、以前読んだときも涙した覚えがあります。今回読んで、さらに鮮明に思いえがくことができました。私は、あの頃もこんな思いを持ってこの本に接していたのでしょうか。この本に何を求めていたのでしょう。
涙が出てきて停まりません。とし子の気高さに涙し、二郎の優しさにまた涙しています。この高揚感を不思議に感じます。ほぼ同じ時代を生きた郷愁なのか、それとも似た境遇を経験した共感なのか、心が洗われていくような思いに囚われています。ヒトは長く生きる間に本当に必要なモノを失い、必要でないモノを身につけていくのかもしれません。
作者は坂本遼氏です。児童文学や詩作に大きな足跡を残されていることを、今回インターネットで知りました。さらに驚いたことは、かって中学校の教科書に載っていた「春」の作者も彼でした。この詩はとても印象に残っています。この詩にも、ヒトがヒトとして生きることの悲しみと喜びが、限りない母への愛とともに詠われています。
思うと彼はずっと私に、人の目を気にして取り繕って生きる愚かさを教えようとしていたような気がします。貧しくても人を思いやり、素朴に実直に生きていくことが大切であると語り続けてくれていました。そのことが、今あらためて分かった気がします。今日帰ったら、小中学生の頃のアルバムを久しぶりに繙いてみたい気持ちになりました。
春
坂 本 遼
おかんはたった一人
峠田のてっぺんで鍬にもたれ
大きな空に
小ちやなからだを
ぴよつくり浮かして
空いっぱいになく雲雀の声を
ぢつと聞いてゐるやろで
里の方で牛がないたら
ぢつと余韻に耳をかたむけてゐるやろで
大きい 美しい
春がまはつてくるたんびに
おかんの年がよるのが
目に見へるやうで かなしい
おかんがみたい