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ALGOの塾長日記~愚公移山~

-学習塾方丈記-

学習指導の由なしごとを
    徒然に綴ります。

デカルトの「方法序説」

2014年07月01日 | 中学受験 行雲流水録

大学の時、読んだ本のひとつがケインズの「雇用利子及び貨幣の一般理論」があります。さすがに資本主義経済のバイブルですから内容が難しく十分に理解したとはいえませんが、こういう古典と言われる名著を読むと、作者が、考えている道筋を自分も一緒にたどって読むという感じがあります。古典を読むことが大切なのは、こういう経験ができるからです。「ケインズ入門」のような教科書や入門書では、すでに完成した答えが死んだ知識として並べられているだけなのに対し、原典には、作者が思索をしているその現場を自分も一緒に思索しながら読み進められるという利点があります。

同じように当時読んだ本の中に、デカルトの「方法序説」がありました。書名は難しそうでしたが、書かれている内容はわかりやすく、デカルトが自分の考え方の道筋をできるだけわかりやすく読者に知らせようという情熱の感じられる本でした。昔は全ての知的探訪が本から始まったのです。

話は少し変わりますが、よく途上国への支援で学校を建設するということが行われますが、学校のような支援で効果があるのは、途上国の中でもある程度の豊かさが保障されている都市部に限られるのではないかと思います。人口密度の薄い農村部で、草原の真ん中に学校が突然建っても、その学校を維持するコストのわりには周辺に与える効果はあまりありません。

これは、図書館の建設のようなことについても言えます。日本の社会に住んでいると、学校や図書館という形がすぐに身近な例として思い浮かびがちですが、世界の実態はそうではないのではないかと思います。貧しい国の教育に必要なのは、学校や図書館のような入れ物よりもむしろ、その国の家庭生活の習慣に根ざした文化形成で、その文化形成のためにテレビやインターネットは有効に活用できると思います。ただし、その使い方には、教育支援としてテレビやインターネットを活用するという独自の工夫が必要となるでしょう。

つまり、このテレビのような媒体を有効に使えば、新しい文化を形成することにも繋がるのです。独裁国家では、海外からのテレビ電波受信を禁止したり、インターネットの特定のサイトを禁止したりすることがよくあります。その理由はテレビやインターネットのプラスの影響力を恐れていることに尽きます。これはジャスミン革命で如実に証明した事実です。

私たちは、古典というとその本質を理解せずホコリの被った退屈な書物を思い浮かべます。確かに、この本を読まなくなった時代の中ではそのような認識も頷けます。しかし、一概にそれを嘆くのみでは知識の集積を怠ることとなります。であるならば、逆にテレビやインターネットの力を信じどっぷりと浸かり、新たな啓蒙の道具として極力利用していくべきです。インターネット新古典体系等という閲覧ソフトが動き出すのも近いことでしょう。そのときこそ、まさにインターネットは、「方法序説」=「理性を正しく導き、もろもろの知識の中に真理を探究するための方法」となるのです。



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