子どもたちの中に「長文読解が難しくて、意味がわからない言葉がたくさんある。一つ一つ調べていると、なかなか先に進まないのだが…」という人がいます。たしかに語句の意味を調べることは大切です。しかし全部の意味がわからなければ、長文を理解することができないのかというと、答えはNO(ノー)です。
私たちは、人の話を聞いているとき、内容を100%理解し、記憶しながら聞いているわけではないようです。本を読むときもそうです。あとで思い出したとき「だいたいこんな話だった」というところに納まれば、内容を理解したということになるのです。難しい言葉がわからない小さな子供でも、大人と対等に話ができるのは、わかる部分から全体をとらえ、「おそらくこんなことを言っているのだろう」と想像しているからです。
たとえばこんな話を聞いたことがあります。1枚の写真に何かが写っています。一人はピントが合ったその写真の切れ端を、何枚か持っています。もう一人が持っているのは、形は完全ですが、かなりピンボケです。さて、被写体が何かを当てることができたのは、どちらでしょう?
正解は後者です。
理由は簡単です。切れ端をいくらつなげても、欠けている部分に写ったものを当てることはできません。しかしたとえピンボケでも、全体が写っていれば、被写体が何かを想像することができるからです。それが家族写真であるとしましょう。欠けている部分があれば、家族が全部で何人なのか、またそこに犬が写っているかどうかもわかりません。でも全体が写っていれば、いくらピンボケでも家族の人数くらいはわかりますし、「人間でないようなものが写っているが、これはもしかして犬だろうか?」という想像ができるわけです。お父さんの髪が多いかどうか、お母さんが美人かどうかなどは、想像する方が楽しい場合もあります。
長文を1枚の写真だと考えると、同じことが言えると思います。はっきりわかる言葉の意味を断片的につなぎ合わせるより、ピンボケでも全体を理解している方がいいのです。そのピンボケを修正するためには・・・そう、「何度も読むこと」が必要なのです。完璧な理解を目指すより、全体を把握することが大切です。そして、それが完璧な理解への第一歩でもあるのです。
私たちは、人の話を聞いているとき、内容を100%理解し、記憶しながら聞いているわけではないようです。本を読むときもそうです。あとで思い出したとき「だいたいこんな話だった」というところに納まれば、内容を理解したということになるのです。難しい言葉がわからない小さな子供でも、大人と対等に話ができるのは、わかる部分から全体をとらえ、「おそらくこんなことを言っているのだろう」と想像しているからです。
たとえばこんな話を聞いたことがあります。1枚の写真に何かが写っています。一人はピントが合ったその写真の切れ端を、何枚か持っています。もう一人が持っているのは、形は完全ですが、かなりピンボケです。さて、被写体が何かを当てることができたのは、どちらでしょう?
正解は後者です。
理由は簡単です。切れ端をいくらつなげても、欠けている部分に写ったものを当てることはできません。しかしたとえピンボケでも、全体が写っていれば、被写体が何かを想像することができるからです。それが家族写真であるとしましょう。欠けている部分があれば、家族が全部で何人なのか、またそこに犬が写っているかどうかもわかりません。でも全体が写っていれば、いくらピンボケでも家族の人数くらいはわかりますし、「人間でないようなものが写っているが、これはもしかして犬だろうか?」という想像ができるわけです。お父さんの髪が多いかどうか、お母さんが美人かどうかなどは、想像する方が楽しい場合もあります。
長文を1枚の写真だと考えると、同じことが言えると思います。はっきりわかる言葉の意味を断片的につなぎ合わせるより、ピンボケでも全体を理解している方がいいのです。そのピンボケを修正するためには・・・そう、「何度も読むこと」が必要なのです。完璧な理解を目指すより、全体を把握することが大切です。そして、それが完璧な理解への第一歩でもあるのです。