読解力の本質について少し。
読解力は、国語の成績にその一部が表れます。しかし、国語のテストで評価される国語力は部分的なものです。そのため、だれでも正しいやり方で勉強すれば高得点が取れるようになるという面を持っています。また、そうでないと客観的に採点したり、優劣をつけたりすることができません。
そこで、現在の国語の入試問題は、この高得点傾向を緩和するため、長文化する方向にあります。つまり、速度によって成績を篩い分けしようとしています。この国語の性質は、英語、数学、理科、社会などの他の教科の性質とは異なっています。英数理社の教科は、知識の体系がまず先にあり、問題はその組み合わせ方として作られます。したがって、過去問のパターンを身につけることが最良の勉強法となります。
そのこと自体、問題なのではありません。しかし、パターン確認の習熟度のみが点数の差となっているところが問題です。本来、学習の目的は、差をつけるためではないはずです。パターンの習熟度を強く求めるテストの作製と暗記のみに頼る学習指導からは、創造的な学習姿勢は生まれないと思うのですが…。それはともかくとして、現在は国語の問題の改善のため、作文試験を課すということも行われています。しかし、今のところ、これは評価に時間がかかるという技術的な難しさがあります。
さて、長文化され、速度が要求されるようになった国語の問題に、速読力をつけることによって対応することは有効でしょうか。速度が要求されるから速読力をつけようというのは表面的な考え方です。読解力をつけるためには、読解力についての本質を探る必要があります。
読解力を、「言葉のつながりである文章をより豊かにより速く把握する能力」と定義します。すると、読解力のない人とある人の差は、どのようになって現れるのでしょう。読解力のない人は、言葉のつながりとして与えられた文章を、それぞれの言葉について狭い範囲の理解で受け取ります。したがって、言葉と言葉のつながりを把握することに時間がかかります。
これに対し、読解力のある人は、与えられたそれぞれの言葉を豊かな理解を伴って受け取ります…『文化化』。したがって、言葉と言葉のつながりをすばやく理解することができます…『チャンク化=ばらばらだった複数のものがひとまとまりになること』。なぜそのようなことができるかといえば、自分の頭の中に言葉とそのチャンク化された思想が豊富に用意されているからです…『自己化』。
例えば、「香炉峰の雪はいかならむ」の問いに、御簾を高くあげるような対応がすぐにできるのは、清少納言に言葉の『文化化』→『チャンク化』→『自己化』ができていたからです。 つまり、これらの言葉の能力が読解力の本質になるのです。
では、これらの能力の開発にはどのような学習が有効なのでしょう。実は、これらは暗唱で身につける能力と同じといわれています。国語力アップの秘訣として、素読や暗唱・難読の復読が必要という考え方は、ここから生まれているのです。
「門前の小僧、ナントカカントカ…」
暗誦の極意に通ずるこの諺。もしかしたらこの小僧さんは大変な読解力の持ち主だったかもしれませんね。
読解力は、国語の成績にその一部が表れます。しかし、国語のテストで評価される国語力は部分的なものです。そのため、だれでも正しいやり方で勉強すれば高得点が取れるようになるという面を持っています。また、そうでないと客観的に採点したり、優劣をつけたりすることができません。
そこで、現在の国語の入試問題は、この高得点傾向を緩和するため、長文化する方向にあります。つまり、速度によって成績を篩い分けしようとしています。この国語の性質は、英語、数学、理科、社会などの他の教科の性質とは異なっています。英数理社の教科は、知識の体系がまず先にあり、問題はその組み合わせ方として作られます。したがって、過去問のパターンを身につけることが最良の勉強法となります。
そのこと自体、問題なのではありません。しかし、パターン確認の習熟度のみが点数の差となっているところが問題です。本来、学習の目的は、差をつけるためではないはずです。パターンの習熟度を強く求めるテストの作製と暗記のみに頼る学習指導からは、創造的な学習姿勢は生まれないと思うのですが…。それはともかくとして、現在は国語の問題の改善のため、作文試験を課すということも行われています。しかし、今のところ、これは評価に時間がかかるという技術的な難しさがあります。
さて、長文化され、速度が要求されるようになった国語の問題に、速読力をつけることによって対応することは有効でしょうか。速度が要求されるから速読力をつけようというのは表面的な考え方です。読解力をつけるためには、読解力についての本質を探る必要があります。
読解力を、「言葉のつながりである文章をより豊かにより速く把握する能力」と定義します。すると、読解力のない人とある人の差は、どのようになって現れるのでしょう。読解力のない人は、言葉のつながりとして与えられた文章を、それぞれの言葉について狭い範囲の理解で受け取ります。したがって、言葉と言葉のつながりを把握することに時間がかかります。
これに対し、読解力のある人は、与えられたそれぞれの言葉を豊かな理解を伴って受け取ります…『文化化』。したがって、言葉と言葉のつながりをすばやく理解することができます…『チャンク化=ばらばらだった複数のものがひとまとまりになること』。なぜそのようなことができるかといえば、自分の頭の中に言葉とそのチャンク化された思想が豊富に用意されているからです…『自己化』。
例えば、「香炉峰の雪はいかならむ」の問いに、御簾を高くあげるような対応がすぐにできるのは、清少納言に言葉の『文化化』→『チャンク化』→『自己化』ができていたからです。 つまり、これらの言葉の能力が読解力の本質になるのです。
では、これらの能力の開発にはどのような学習が有効なのでしょう。実は、これらは暗唱で身につける能力と同じといわれています。国語力アップの秘訣として、素読や暗唱・難読の復読が必要という考え方は、ここから生まれているのです。
「門前の小僧、ナントカカントカ…」
暗誦の極意に通ずるこの諺。もしかしたらこの小僧さんは大変な読解力の持ち主だったかもしれませんね。