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ALGOの塾長日記~愚公移山~

-学習塾方丈記-

学習指導の由なしごとを
    徒然に綴ります。

「ほどよい」ということ

2007年09月18日 | 中学受験 行雲流水録
「ワガママ」とか「ジコチュー」というのは、いけないものの代表のように言われています。誰かのことを指して、「あいつはワガママだから」と言われたら、まずは好かれているとは思えません。では、まったく「ワガママ」や「ジコチュー」といわれない人が「いい人」なんでしょうか。そういう人を、めざしていくべきなんでしょうか。

答えは、「NO」なんですね。まったく誰からも「ワガママ」とも「ジコチュー」とも思われない人というのは、もしかしたら、いつも誰かの意見に賛成している人なのかもしれません。いつも、誰かに従っているだけなのかも。「これは好き」「あれは嫌い」という自分の意見は、もともと少しは「ワガママ」な気持ちなのですから。そういう人は、特別嫌われることもない代わり、特別好かれることもないでしょう。つまり、いつも自分の意見にうなずいてくれるだけの人と、友達になりたいと思いますか? そういう人といて、面白いでしょうか?かといって、もちろんみなさんもわかっているとおり、本当にいつも「ワガママ」で「ジコチュー」で、自分の意見ばかりを押し通そうとする人とも、おつきあいはしたくないのは明々白々です。

ということは、「ほどよくワガママで、ほどよくジコチュー」でなければならないということです。実は、この「ほどよく」ということにポイントがあります。「ほどよく」って、どれくらい? こんなことは、本にも書いてありません。何かで測るわけにもいきません。誰かに聞いても、わからないでしょう。では、どうすれば、「ほどよいワガママ」を知ることができるか。

これはもう、経験に尽きます。いろいろな人の中で、嫌われたり、好かれたり、けんかしたり、あやまったりしていく中で、どれくらいが「ほどよい」のかを、自分自身で学んでいくしかないのです。そして、その100人100通りの経験を通じて、100通りの個性が作られていくのです。

さらに、蛇足を承知で述べるならば(笑)、文章作法においてもこのことは同じです。自分なりの意見、自分なりの経験が書かれていない文は、さらっと読めて、特別何の引っかかりもありません。そこにどんなにいいことが書いてあったとしても、個性のない作文というのは、読んだ人の心の中に、何の感情のざわめきも引き起こさないからです。つまるところ、これが「文は人なり」といわれる所以かもしれません。何事も「ほどよいワガママ」「ほどよいジコチュー」を目指して…。


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