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ALGOの塾長日記~愚公移山~

-学習塾方丈記-

学習指導の由なしごとを
    徒然に綴ります。

「留魂録」の義

2011年09月08日 | 中学受験 行雲流水録

今年は、9月とはいえ残暑厳しく、秋の訪れは10月を待たねばならないようです。10月と言えば、その30年の生涯を自意識過剰と言うほど熱く駆け抜けた吉田松陰が処刑された月です。以前、私は松蔭を白皙の隠者然とした国士と思っていましたが、よくよく見るとその生き方は、賢くはあるのですが熱血漢そのもの。どちらかと言えば子どものように純粋な行動の人だったようです。

そんな松陰は、処刑される前日、門下生に向けて「留魂録」という約5000字ほどの書を書いています。半紙を四つ折りにして十九面に細書きし、コヨリで綴じ冊子にしてあり、始めに、「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留置まし大和魂」という歌が書かれていることでも有名です。

もちろん内容には心を揺さぶられるものがありますが、それ以上に圧倒されるのは、この書が世に出るに当たり、十数年間守り続けた沼崎吉五郎の生き方です。松陰と同じ江戸の獄舎にいた沼崎は、松陰に処刑の前日次のように頼まれます。「自分は、この書を別に一本郷里に送るが、無事に届くかどうか危ぶまれる。そこで、あなたが出獄したらこの書を長州人に渡してほしい」と。

萩に送られた「留魂録」は、門下生らによってひそかに回覧されますが、やがて所在が不明となります。また、もう一本の書を託された沼崎は、その後三宅島に流されてしまい、十数年たって幕府が瓦解したのちに流人の身から解放され本土に戻ります。しかし、老齢の身となっていました。

彼は松陰門下神奈川県権令・野村靖を訪れます。沼崎は、野村に、「貴殿が長州人と聞いたので」と、変色した「留魂録」を渡しそのまま静かに去っていきます。その時、既に松陰の処刑から十七年の月日が流れていました。

私は、ここに、目先の利益や欧米流の合理主義とは異なる、人間同士の義を重んじる生き方の強さを感じます。日本は、今、不況に沈み、格差は拡大し、さらに大震災がその疲弊に追い打ちをかけています。子供たちの教育も、確実に実を結んでいるとは言い難いでしょう。

しかし、日本が今後復活するとすれば、その最も確たる土台は、経済力や学力などではなく、国民一人ひとりが何よりも、沼崎吉五郎の義の姿=相手の信頼にひたすら応えるという生き方を、もう一度取り戻すことだと思います。この大震災からの6ヶ月間、東北の方々の真摯な姿を見るたびにそのことを強く思うのです。

「留魂録」には、血涙振り絞る松陰の義という魂魄が記されています。そして、それに関わる人の生き方は日本人の原点とも言うべき義の形が刻み込まれているのです。



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