ALGOの塾長日記~愚公移山~

-学習塾方丈記-

学習指導の由なしごとを
    徒然に綴ります。

「あたりまえ」

2008年05月28日 | 中学受験 行雲流水録
私は、若いころに比べるとかなり遅読になっています。途切れ途切れに読むからかもしれません。そのせいか、文芸書を読むことが減り、実用書や論説文を読むことが多くなりました。(長文に疲れる年齢になったのかもしれません)しかし、夢中になれる本に出会うとうれしくてたまらないのは、本の種別を問わないのですね。先日も、初めて知ったことがらに「目からうろこ」のうれしさを体験しました。「なぜ、物は落ちるのか」という考察をめぐる論説文に、次のようなことがありました。

「なぜ物が落ちるのか」と問われたら、ニュートン力学を学んでいる私たちは、万有引力の法則にしたがって説明をすることでしょう。引力が働いているから、物は加速度運動によって落下するのだと、理科で教わったとおり理解しているはずです。「引力」という言葉は、小さい子どもでもちゃんと使えるところがすばらしい、いきわたった知識です。私は、この偉大な発見こそが、物の落下に関わるいちばん古い科学的考察だと思っていました。それ以前はもう、曖昧模糊の迷信の世界だと思い込んでいたのです。

ところが、科学の眼はもっと古かったのです。ギリシャの哲学者であるアリストテレスが「なぜ物が落ちるのか」という疑問にきちんと答えをだしていました。アリストテレスは森羅万象を、土・水・空気・火の四元素で説明できるとしました。四つの元素は下からこの順で階層をなしているのが本来の位置であり、なんらかの事情でその位置が乱れたときにはチャンスを見て元に戻ろうとするというのです。だから、もともと「土」で出来ている茶碗は、他の元素よりも下に位置するべきであるから、落ちるというわけです。同じように彼は、地震についても、その揺れは地下にあった蒸気が勢いよく地上へ吹き出すために起こるのであると説明しています。「空気」は上から二番目の本来あるべき位置へかえるというわけです。

なにやら「土」や「空気」に心が備わっているみたいで、キツネにつままれたような気がしないでもないですが、地震は地下で大ナマズや魚が暴れたから起こるといった昔ながらの神話のような話とはちがって、理論的つまり科学的といえないでしょうか。私は、自分が抱いていた「科学的」のイメージが揺れ始めたように思って、感動したのです。

科学的とか非科学的といって、私たちはとかく分別したがります。どういうわけだか、科学的だと安心で有意義であったりして、非科学的だと不安で値打ちを感じなかったりします。しかし、それは真実でしょうか。私たちは科学的かどうかの境界線について、真剣に考えたことがあったでしょうか。「科学的」とは、どういうことなのでしょうか。下手をすると、電力で動くものが「科学的」だという程度の安易な分別をしてしまっているのではないでしょうか。

知らないものに出会うと不安でたまらなくて、いったいなんであるのか確かめずにはおられない。これが科学の精神の始まりだと思うのです。そうだとすれば、今自分が知っている「科学的説明」の数々をそのまま鵜呑みにして唯一無二だと思い込むことは、科学の精神に照らしてどうなのでしょう。

じつはこのアリストテレスの説を読んだとき、感動のあまり、2人の生徒に話して聞かせました。その反応は、見事に二分割。
生徒1…
「そのくらい知ってました。ギリシャの哲学者たちは、朝から晩まで考えてばかりいて理屈をつくって居たんです。理屈はどこかで破綻しました。だから、近代科学が生まれたんです。」
生徒2…
「へえ、すごいですね。なるほど、茶碗は土だからか。そんな説明のしかたもあるんですか。じゃあ、鉄の球はどうなるのかなあ。」

この受け答え、果たしてどちらが科学的だと思われますか? 私たちは、いろんな「あたりまえ」について、ちゃんと自分で考えてみるのがやはり「あたりまえ」なのですなのです。


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