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ALGOの塾長日記~愚公移山~

-学習塾方丈記-

学習指導の由なしごとを
    徒然に綴ります。

作文が写し取るもの

2007年03月22日 | 中学受験 行雲流水録
何かを見たとき、聞いたとき、体験したとき、私たちはいろいろなことを感じます。作文では、その感じたことをどのように表現するかということが、とてもおもしろいものです。たとえば、何かを見たときどう思ったか。見る前の気持ち、見た瞬間の気持ち、あとになって思ったこと。ずっと気持ちが一定しているとは限りませんから、気持ちの変化を書くことができます。聞いたときや体験したときも同じです。自分が知っている言葉をいろいろ使い、また、たとえなども考えると、そのときの気持ちがより一層はっきりと表現できるものです。

しかし、子供達と話していると、「そのとき、どんな気持ち?」という問に、「別に。普通。」などと、具体的な言葉が返ってこないことが多くあります。皆さんは「これでは、とても自分の思ったことなど書けない」と考えられるかもしれませんが、決してそうではありません。「別に。普通。」とこたえたときも、まったく心が動いていないわけではないです。自分の気持ちをよく見つめると、そこには必ず自分自身の気付いていない気持ちの変化があるものです。

それでも、「別に。普通。」としか思えなかったら、逆に、自分がそれほど感動も驚きもしなかったことを文章にすることです。実は、私自身も、あまり感動したり驚いたりしないタイプの生徒でした。ですから、遠足に出かけても、運動会があっても、何をどう書いたらいいかわからなかったことがあります。でも、あるとき、大きく感動しない自分を周囲の人と比べたり、どうして心が動かされないかを自分なりに分析し、文章にしようとしたら、書くことが苦痛ではなくなりました。

さらに、それまでは、なぜかいいことやうれしいことしか書いてはいけないと思いこんでいましたが、ちょっとイヤだなと思うことや腹が立ったことなど思いを広げてみたら、書きたいと思うことがどんどん出てくるようになりました。

作文というと、どうしてもいいことしか書いてはいけないと思いがちです。しかし、決してそんなことはありません。前向きな気持ちばかりではなく、下や横を向いた気持ち、ときには少し後ろ向きの気持ちでも、どんどん言葉にすればいいと思います。なぜなら、それらの気持ちは、すべて自分の偽らざる心の動きだからです。そして、書き終えたとき、一つ重荷を下ろしたような感覚になるのは私だけでしょうか。

作文を書きながら、「このときはどんな気持ちだったかな?」と自分に問いかけ、素直な心の動きを写し取ることは、自分自身の心を純化していくことにもなるようです。

澪標
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