1)乾いた土地

EUTIZU

                      ギリシアとエルサレム

 アテネの山には木がありません。 緑がまばらで、地肌がむき出しになっています。この地域は、山に草木が生えない地域です。植物の育成の一番旺盛な夏に、雨が降りません。
 日本は植物の生い茂る夏に潤沢な雨が降りますから、稲も育ち夏草も生い茂ります。しかし地中海地方の雨量は日本の半分以下です。この地中海性気候の特徴は夏の「乾き」にあります。
 また、アルプスの北側の西ヨーロッパ地方の気候は西岸海洋性気候に変わりますが、やはり夏に雨が減少します。冬には少し湿り気が出てきますが、夏に雨が少ないという点では地中海性気候と共通しています。

 地中海性気候は地中海を取り巻くように存在しています。 この地域では農産物も、柑橘類、オリーブ、葡萄などしか育ちません。代表的なものは夏のオリーブ、冬の小麦です。つまり作物が豊かではありません。

 この地域は夏は緑が枯れて褐色になり、そして冬は湿り気が出てきて緑になります。つまり日本の景色と逆なのです。 こういう地域では農業が発達しません。土地が痩せていて、人口収容力が低いのです。

 日本人が一般に持つ地中海のイメージは、非常にきれいで、異国的で、青い原色の美しい海を思い浮かべますが、実はこの海は塩分濃度がかなり高くて、魚が住まない海です。 「風土」を書いた和辻哲郎流にいうと「痩せ海」または「死の海」です。 その理由は、地中海唯一の出口であるジブラルタル海峡の水深の浅さにあります。水深が浅く、海水の出入りが自由にきかないため、海水が閉じ込められています。 その上、地中海の南のアフリカ大陸には砂漠気候が広がって、広大なサハラ砂漠、そしてその北のリビア砂漠があり、そこから熱風が吹き込んできます。その風にあおられて地中海は水分蒸発量が非常に高く、塩分濃度が高くなっています。 このようなことから、地中海沿岸部分は農業にも漁業にも適しません。その理由はやはり乾燥にあるということができます。 

 いっぽう、この地中海は交通に便利で、この海には島が多くて港も多い、渇いているから霧はなく、遠望もききます。 こういった地域では人々は活発に動き回るようになります。そしてこのような社会は生産よりも交易を重視する社会を発展させます。 さらにそれが高じていくと、自分で作るよりも他人の物を奪ったほうが早いことになります。つまり交易はそれがうまくいかなかった場合、略奪になります。 そのことは、この地域が戦いの世界へと変化していくことを意味します。交易と戦いは、一見無関係に見えますが、実は非常に近い関係にあります。

 日本では海賊といわれてもピンと来ないのですが、同じようなことは日本の室町時代にも見られました。例えば日本の倭寇と呼ばれた海賊集団がそうです。 これは海賊だと言われるから分かりにくいのであって、彼らは最初から海賊であったのではなく、もともとは朝鮮半島や中国沿岸との交易を目的とした私的貿易集団でした。 しかし、貿易がうまくいかなくなると、略奪を行って沿岸の村々を荒らし回るようになり、やがて海賊化していったのです。

 ギリシア世界というのは、このような倭寇が絶えず発生する社会だと思えばいいでしょう。 日本と比較してみると、西洋は地中海をまたいで民族と民族が出会う場所であったのに対し、日本は島国であり鎌倉時代の元寇などの特殊な例を除いて、異民族との深刻な対立を経験していない非常に対照的な地域だということができます。


2)植民活動
 ですから、この地域では地中海をまたいでの人々の植民活動が活発になります。 そういったところにギリシア文明が花開きます。 ギリシャ文明の始まりは紀元前2000年頃からのクレタ文明や、その後の紀元前1600年頃からのミケーネ文明にあります。 

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                       ミケーネの獅子門

 ミケーネ王宮の獅子門は、強固な城塞に覆われ、戦いを意識した戦闘的な作りになっています。 この城塞の背後には荒涼とした山がそびえ立っており、決して緑豊かな土地柄ではありません。

 この時代と同時代の地中海の東側・オリエント地方(現代の中東地域)を見てみると、そこにはもともとメソポタミアを中心とするセム族、その西側にはエジプト文明を中心とするハム族がいます。 その上にカスピ海周辺にいたインド=ヨーロッパ語族南下し、ヒッタイトやミタンニなどの新しい国が乱立するようになります。

 特に今「イスラエル」のあるパレスチナ地方は、民族が行き交う交通路になっていきます。 そこに民族系統不明の「海の民」やアッシリアという新しい国が加わり、 北からはメソポタミアの文明に襲われ、 南からはエジプト文明が攻めのぼり、 西からは「海の民」が、 さらに東からはアラビアの砂漠から遊牧民が押し寄せて、このパレスチナ地方は民族の十字路になっていくのです。

 紀元前1000年前後の東地中海世界は都市国家や部族集団がせめぎ合う時代に入ります。「イスラエル」のあるパレスチナ地方は陸橋の役割を果たし、戦乱が続き、目まぐるしい社会変動に襲われています。そこはあらゆるところから異民族が押し寄せてくる地域なのです。

 このような人々の移動は、地中海世界全体に共通することです。 先に述べたミケーネの王宮が強固な城壁に覆われていたのも、絶えず外敵の侵入に怯えていなければならなかったからなのです。
 このミケーネ文明が紀元前12世紀頃にいったん滅んだあと、ポリス(都市国家)が出現するまでの400年間はギリシアは暗黒時代と呼ばれる時代にはいります。それは紀元前12世紀から前8世紀までの400年間のことです。 その400年の時間を経たあと、紀元前8世紀頃にギリシャのアテネ・スパルタなどを中心とする数々のポリス(都市国家)が登場します。

 では、400年間のギリシアの暗黒時代にどのようなことが起こっていたのでしょうか。 紀元前1200年頃からギリシアにポリスが発生する前8世紀頃までの400年間の暗黒時代を見ると、 エジプトでは紀元前1380年頃にイクナアトンによる宗教改革が起こり、その約100年後の紀元前1250年頃モーセの出エジプトという事件が起こっています。 この2つのことについてはあとで詳しく取り上げますが、そのときユダヤ人集団を率いたリーダーのモーセはシナイ山のふもとで、ヤーヴェという神から十の戒めである「十戒」を授かり、ユダヤ教の成立に大きな一歩を踏み出すのです。 そしてそれから200年後の紀元前1020年頃に、今の「イスラエル」の地にユダヤ人初の王国ヘブライ王国が建国されます。 ユダヤ教の成立やヘブライ王国の建国と、ギリシアの暗黒時代は同時代なのです。

 つまりギリシアの暗黒時代は、ユダヤ教という世界初の「一神教の誕生」が起こった時期なのです。 この「一神教の誕生」はその後の世界史に大きな影響を及ぼします。
 ギリシアは紀元前8世紀になると暗黒時代を終えて、各地にポリスが成立します。そしてそれはギリシア人による植民地活動が最も盛んな時期でもあります。 ギリシア人の植民活動を見ると、その背景にはポリスの成立という小国分立の状態があり、痩せた土地をめぐってのポリス間の争いが絶え間なく続いています。 その戦いに敗れた人々は土地を離れて海に出て行くしかありません。 それは冒険好きの者が好きこのんで出ていったロマン的な話ではなく、戦いや日照りなどで食うに困った人たちが母国から追い出されるように植民していったのです。 その結果、植民に成功した新しい植民市は母国から独立したポリスを形成します。 中には植民に失敗した人々もいるわけですが、彼らにはもはや帰る場所がありません。 ギリシア人の植民活動とは生きるための必死の活動です。

 これと似たことは日本にもありました。 日本人は江戸初期に東南アジアに出ていって、日本町を形成しました。 しかしその違いは、彼らはいわば一旗揚げて日本に帰ろうと思っていたのであって、当然帰れると思っていたのです。しかし、その後日本が鎖国になってしまって帰れなくなったのです。そこに長崎の平戸からインドネシアのジャカルタにわたり、ついに帰れなくなった「ジャガタラお春」さんのような悲劇も生まれます。

 さらにギリシア人の植民は、同じインド=ヨーロッパ語族の移動である4世紀のゲルマン人の移動とも違います。 ゲルマン人の場合、同じ移動にしても、馬車を引っ張り家族を乗せて、部族全体で移動していきます。 これに対しギリシア人の植民は、いわば部族の断片である独身者が家族を伴わずバラバラに移動していくのです。そこに大きな違いがあります。


3)ギリシア・ローマ神話
 このような独身の放浪者の話はローマの建国神話にもみられます。 ローマの建国者はロムルスという男だと言われますが(このロムルスのロムがロームになってローマになったといわれます)、このロムルスが引き連れてきた仲間たちをみると、どうも彼らは独り身の男たち、つまり部族のはみ出し者であるようなのです。 このロムルスの出生伝説は、彼の母がある日昼寝をしているところを突然戦争神のアレスに襲われ、それで懐妊し、ロムルスを産んだことになっています。 つまりローマの建国者ロムルスの父親はギリシアの戦争神アレスになっているのです

 アレスというのはもともとギリシア流の呼び方で、ローマではマルスと呼ばれます。 ちなみにこの軍神アレスの不倫の相手が女神ヴィーナスであって、ヴィーナスは別にちゃんと夫(バルカンという火の神)をもちながら、軍神アレスと不倫を続けていく女神です。このこともローマ人の家族関係を考える上で重要な示唆を与えるのですが、ここではいったん横に置いておきます。

 ギリシア・ローマの神話には戦争神や軍神がよく出てきます。
 ローマを形成したこのような男たちが次にしたことは、女を獲得することでした。近くに住むサビニ族の娘たちを略奪し、自分の妻にしたのです。 

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            「サビニの女たちの略奪」 コルトーナ 1629年頃

「サビニの女たちの略奪」という絵には、ローマ人とサビニ族の間の戦いが描かれています。ローマ人に略奪されローマ人の妻となったサビニ族の女たちは不本意にローマの男の子どもを生んでいくのです。

 この戦いが続いたあと、どのようにしてそれが終わったかといえば、次の「サビニの女たち」という絵に見るように、 自分の子どもの父であるローマの男と、自分の兄弟が戦うという悲惨さの中で、サビニの女たちがこの戦いの中に割って入って、「戦争をやめるよう」に哀願するのです。 

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             「サビニの女たち」 ダヴィッド 1796年頃

 こういう物語りを考えると、ギリシアに悲劇が誕生する意味もわかる気がします。
 このような状況のなかで形成された家族には、家族のあり方にも変化が起こり、女たちは夫への怨みをもちながら産んだ子どもを育てるわけです。
 ポリス社会形成以後、ギリシアでは祖先の意識や家の意識は非常に薄くなっていきます。

 ギリシア人ももともとは強い祖先崇拝をもっていたといわれます。 例えばゲルマン人は家を重んじ、子孫の絶えることを何よりも恐れたといわれますし、 さらにその北方のヴァイキングは、自分の死後は祖先の霊の集まっている北の海にもどって、そこで祖先と再会することを念願していたといわれます。そういう強い祖先崇拝があったのです。

 そういう血のつながりのなかでKing(王)が発生します。KingのKinは「血筋」を表すのであって、Queen(女王)もKinの音便変化で血筋を表すといわれています。そういうなかで、ひときわ高貴な血統のものがKing(王)と呼ばれていくわけです。

 しかしギリシアやローマはこれと違って、家の意識の低下があらわれてきます。 ローマの建国伝説にみられる「女の略奪」というテーマはギリシア神話のトロイ戦争にもみられることであって、これはホメロスの神話に描かれています。シュリーマンのトロイ遺跡の発掘によって、これが単なる神話でないことは明らかになっています。

 トロイ戦争の始まりは、スパルタ王の妻(絶世の美女ヘレネ)がトロイの王子(パリス)に略奪されるところからはじまります。 すると妻ヘレネを奪われたスパルタ王のメネラオスは兄のミケーネ王アガメムノンを頼り、そのアガメムノンの呼びかけによって、全ギリシアによるトロイ総攻撃がはじまります。英雄アキレス(アキレス腱の語源となる英雄)の活躍もこのときのことです。 そして10年の長い戦いののち、トロイの木馬の奇策によってトロイは滅亡していきます。
 つまりトロイ戦争の伝説は、トロイの国の王子が他国の王の奥さんを横恋慕することによって、国が滅亡していく話なのです。 日本人からすると不倫まがいでけっして美しい話ではないと思います。 しかし、このような話がギリシア民族の神話になるということは、この社会のなかで女の略奪が決して特殊なことではなかったことを連想させます。 いわば女の略奪婚が、正当化された社会ではなかったかと思われます。 そこでは女たちは夫である男への怨みをもったまま生活をするのですから、その怨みはやがて子どもに伝わっていきます。 ギリシア神話に、息子による父への復讐というテーマがよく見られるのは、そのことと関係しているのではないでしょうか。

 ギリシャ・ローマ神話には、父殺し、または父親による子殺し神話が多く見られます。 例えば、オリンポス12神の中心はゼウスですが、このゼウスの父クロノスは、子どもが生まれるとすぐ食べてしまいます。 なぜこんなことをするのかというと、父のクロノスは予言をされるからです。 「おまえは息子によって、天上の王位を奪われる」と。 それを恐れてゼウスの父クロノスは生まれてすぐの子どもたちを食べてしまうのです。ゼウスも危うく食べられるところを、父から逃れることによって難を逃れます。 そしてゼウスは成人したあと、予言通り、自分の父クロノスと戦い、父を倒すことによって、王位に就きます。 そうやって王位に就いたゼウスが自分の子どもをかわいがるのかというと、彼もまた父と同じように自分の子どもを食べていくのです。

 さらに言えば、このことはヴィーナスの誕生についても言えることで、「ヴィーナスの誕生」という有名なボッティチェリの絵がありますが、 ヴィーナスの誕生は、父ウラノスが母ガイアと交わろうとしたところに息子のクロノスがやってきて、 クロノスが父の男性器を刃物で切り、それを海に投げ捨て、そしてその中から、白い精液があふれ出したところから女神であるヴィーナスが誕生したことになっています。 我々からみると何とも壮絶でもの凄い話です。だからこの「ヴィーナスの誕生」の絵の背景は海であり、ヴィーナスは海の貝殻から誕生しているのです。 しかしこの神話の中にも親と子の対立という、テーマが隠されています。

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            「ヴィーナスの誕生」 ボッティチェリ 1485年頃

 さらに言えば、父親と息子の対立がヨーロッパ人の深い病理になっているという概念を提出した精神分析学者であるフロイトの「エディプス・コンプレックス」ともこのことは関係しています。 これはテーベの王エディプスが、父を殺し、母と交わっていくという救いようのない話です。
 またヴィーナスについても、ヴィーナスが男性の精液の白い泡から誕生したということは、 この女神は男の性的欲求とを結びついていて、それはどうも男の破壊性と結びついている女神ではないか、ということを我々に連想させます。

 ですからこのヴィーナスは19世紀になると、次のカパネルの「ヴィーナスの誕生」に見られるような、非常に過激でなまめかしいヴィーナスになります。 

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            「ヴィーナスの誕生」 カパネル 1863年頃

 やはり海が背景で、天使が舞っていたりしますが、こうなると神とは思えない非常に官能的なヴィーナスになります。(美術として個人的には好きですが)日本人は神の姿をこんな形で描いたりはしないでしょう。


4)奴隷制
 今まで述べた神話はギリシアの暗黒時代を反映したものといわれますが、その暗黒時代は紀元前1200年頃、ギリシア人の一派であるドーリア人の南下(または「海の民」の侵入)によってはじまります。 このことによって、ミケーネ文明は崩壊します。その破壊はすさまじく、それから400年間のギリシアは文字のない無言の暗黒時代を迎えます。 しかし、その間に非常に大事なことが起こったのです。

 先に述べたトロイ戦争はこの時代を知る手がかりだといえます。 少なくともそこではポリスの対立と戦いの世界が描かれています。 戦いの世界では征服者が先住民を殺していくのですが、仮に殺さなかったとしても先住民を奴隷にします。 つまり、戦いの社会奴隷制社会生んでいくのです。 奴隷の始まりは戦争捕虜にある、ということは一般に認められていることですし、ギリシアでは総人口の3分の1が奴隷です。 こういった世界では、最高の美徳は戦うことであって、食糧生産などは奴隷に任せておけばよいことになります。

 ギリシア最大の哲学者、ソクラテスは哲学ばかりしていたのかというと、当時起こったペロポンネソス戦争(前431年~前404年)には当然のごとく従軍しています。 いわば、戦争に行くことが当然視された社会だったのです。

 奴隷と厳しく対立した社会の例としてスパルタの奴隷制があります。スパルタはドーリア人が先住民を征服して建てた国で、紀元前1200年ごろ、彼らは先住民を村ごとまとめて、奴隷化していきます。 そして、支配者になったスパルタ人は先住民と決して同化することなく、奴隷化された先住民たちは常に不満を抱いて不穏な状態にありました。 いわばスパルタ人と先住民は、混じり合うことなく階層的に住み分けていたわけで、そういった意味ではインドのカースト制に似ています。そういう伝統を受け継ぐヨーロッパは今でも階層性の強い社会です。

 よくスパルタ教育というと、理想的な教育のように言われて、そこでは心身の鍛錬が男ばかりでなく、女性も心身の鍛錬を行っていたといわれますが、彼らは好きでそんなことをしているのではなく、必要に迫られて仕方なくやっていたと考えるべきなのです。 どれほど厳しい社会であったのかといえば、体の弱い子どもは捨てられる社会であって、母親は子どもへの育児権を奪われる一方、強い子どもを得るためにスパルタの女性は夫以外の強い男との間に子どもをもうけることが容認された社会です。 平たく言えば不倫が容認されるわけですが、このようなことが容認される社会で家族の絆が強まるわけがありません。それは血筋の意識が芽生えない社会です。

 「ヴィーナスの誕生」を描いたボッティチェリは、このような「ヴィーナスとマルス」という絵も描いています。 

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           「ヴィーナスとマルス」 ボッティチェリ 1483年頃

 ヴィーナスはバルカンの妻ですが、同時に戦争神マルス(ギリシア名はアレス)と不倫関係にあります。 女神と戦争神が結びついているのです。 見方によってはヴィーナスは男の戦争神を操る女神だともいえるわけで、やがてその女神は戦争を率いるようにもなります。

 フランス革命の際には、民衆の先頭に立ち、民衆を率いる「自由の女神」の姿が描かれます。ドラクロアによる有名な絵があります。 

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           「民衆を率いる自由の女神」 ドラクロア 1830年

 また現在の覇権国家アメリカの入り口にもフランスから贈られた「自由の女神像」がリバティー島に立っていて、これも戦争好きなアメリカの象徴的な構図だと思われます。 2003年のイラク戦争のとき、アメリカのブッシュ(ジュニア)大統領が言った言葉は「フリーダム、フリーダム、フリーダム」でした。アメリカでは「自由」という言葉は戦争の理由になるのです。 イラク戦争には勝利したアメリカですが、戦争の原因となった肝心の「大量破壊兵器」は見つからず、アメリカはこの戦争の正当性を完全に失ってしまいます。 にもかかわらず、イラク大統領のフセインは捕らえられ、3年後の2006年12月30日に処刑されました。 

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             リバティー島に立つ自由の女神  

 ところで日本では、ギリシアやローマとは違った家族観があるのであって、久隅守景の「夕顔棚納涼図屏風」(江戸初期の絵)を見ると、夫婦の情愛、親子の情愛、そういう家の理想が、平凡な庶民の間にも成立していたことがわかります。 

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            「夕顔棚納涼図屏風」 久隅守景 江戸前期

 日本人は今でも金持ちで冷たい家よりも、貧しくてもくつろげる家に価値を見いだそうとする、そういう共通認識はあると思います。 こういう家族は血縁の意識を必然的に高めます。しかしギリシアではそのような家の血筋の意識というのは非常に希薄でした。


5)ギリシアの暗黒時代   前12C~前8C
  

a)神々の沈黙
 そこで、見過ごしてならないのが血統の弱まりとともに起こっている神々の変化です。 このオリンポスの神々の役割を見てみると、例えば最初に出てきたアレスという神は戦争の神、ヴィーナスは愛の神・美の神、そしてそのヴィーナスの正式な夫であるのがバルカンなのですが(バルカン半島のバルカンなのですが)、これは火の神です。

 こういった神々は民族との直接的な血のつながりを持ちません。これを日本の神々の役割と比べると、日本の神々は基本的には祖先神です。 その祖先神は中世になると村々を守る産土神(うぶすなしん)になります。 しかしギリシャのオリンポス12神はギリシア人の直接的な祖先神ではありません。 もっと抽象的な、愛とか美とか知恵とか火とか、そういった機能神になっているのです。 それは日本のような祖先神ではなく、人間と神の間の血縁関係が切れている状態だといえます。

 ギリシアの暗黒時代の混乱の中では神々の質も変化していきます。 この神の変化をもたらす要因に、激しい戦争の時代であることがあげられます。 戦争は人間同士の部族間の戦いですが、単にそれだけではなく、戦争は部族が崇める神と神との戦いでもあります。 戦争に負けると、負けた部族の神は「ダメな神」とされます。そして負けた神はその責任を取らされ、消されるかおとしめられていくのです。

 このことはゲルマン社会にも見られます。 2世紀のゲルマン社会ではマルコマンニ戦争というローマ帝国との激しい戦争が行われて、その間にゲルマン社会の王の性質と神の性質が変わっていきます。 まず王はそれまで高貴な血統のものであったものが、戦争が終わると王はたんに軍隊の指導能力のある者が選ばれるようになり、王の質の変化がみられます。 そして部族の神もそれまでは平和の神ティワズであったものが、戦争が終わるころになると戦争神オーデンにとって変わります。このように、戦争の中では神々も死滅し新しい神に変化していきます。

 それに対し、日本の場合、神々の性質が変わるほどの激しい戦争は行われません。 大和政権の国家統一の方法を見ると、古事記や日本書紀の中で天皇やその皇子はしばしば地方に巡幸しています。 そして地方の豪族たちの娘を娶ることによって、大和政権の勢力下に組み込みます。 一種の婚姻政策によって大和政権の勢力拡大が図らるのです。 このように大和政権は地方豪族を滅ぼさずに、彼ら地方豪族にそのまま地方の支配を委任していきます。 その地方豪族が6世紀の氏姓制度の時代にはその地域をとりまとめる国造(くにのみやっこ)となり、また7世紀以降の律令制度になると郡司となって現れます。彼らはともに地方に根を張った豪族たちです。 それとともに地方豪族たちが崇めていた神々も死滅することなく、維持されていき、神々の融和図られて、日本の多神教の世界がつくられていきます。

 日本には多くの神々を一緒に拝むという風習が古来からあって、それが後の神仏習合につながっていきます。 この神仏習合というのは日本だけのものではなく、実は世界的に広く見られるものであって、「シンクレティズム」と言われます。 このシンクレティズムのシンクロというのは、スポーツのシンクロナイズドスイミングのシンクロであって「共鳴する」という意味です。 つまり2人の演技が1つになることを目指すものです。この日本の神仏習合によって2つの別々の神を1つにする努力が払われます。 それが理論化されたものが平安時代に発生する「本地垂迹説」(ほんちすいじゃくせつ)です。日本の神は、本物(本地)であるが仮の姿(垂迹)であるとなって現れたもので、実体は同じであるという考え方です。のちには逆に、本物が神で仮の姿が仏であるとする「反本地垂迹説」も現れますが、2つの別々の神が本来は同じ神であるとする発想は同じです。


  b)神官の消滅
 戦争によって神々が排除されると次は神官の消滅が起こります。 なぜなら戦争に敗れた神を呼び出したのは神官なのですから、当然神官の責任が問われます。それで神官の力が弱まり、やがて消滅します。

 ギリシアにポリス社会が成立する紀元前8世紀には、ギリシアには神の神託を受けるデルフィの巫女はいても、特権的な神官はいなくなっていますここがメソポタミアやエジプトと違う、ギリシア社会の特異な点です。

 それと同時に大規模な神殿(代表的なものがパルテノン神殿 これはポリス全盛期のもの)が造られるわけですが、そこは神官の権威を見せつける場所ではなく、たんに共同体全員の祭祀が行われていく場所になっています。神官が消滅し、神殿のもつ意味も変わっています。 

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                  パルテノン神殿