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新説・日本書紀① 香春岳 「三ノ岳」こそ天香山か 福永晋三

2024-08-04 06:44:35 | 旧日本史1 古代

新説・日本書紀① 福永晋三と往く - 古代史マガジン【KODAiZiNE】 (scrapbox.io)


「新説・日本書紀(やまとのふみ)」は、2018年に西日本新聞に連載された記事です。

※ は管理人のメモ書きです。本文中の太字も管理人によるものです。神話の翻訳のためのメモ書きです。
古代人の発想は、現代人の思考と少し違うため、古代人の思考にもどって翻訳しなおす必要があります。神話が何を意味しているか、「たかが神話」という訳にはいかないようです。古代人の世界に戻る必要があるようです。
クソとか、大便とか、ホトとか、マグアイとか、現代では考えられないような言葉が、古事記や日本書紀には平気で出てきます。彼らに悪気はないようです。そこから違うの
です。


2018年(平成30年)1月20日 土曜日

 香春岳 「三ノ岳」こそ天香山か

 [おほきんさん]との出会い

わが国初の正史 (国家として編修した 歴史)に『日本書紀』がある。
多くの歴史学者がこれにより、「大和王朝が近畿に興った」とする。
[戦後史学]は、15代[応神天皇]からが実在とし、[神代]から[神功皇后]までを架空としてきた。

これらの学説に対して、神功皇后を実在と見る私は、1998年5月2日、[香春]の「鏡の池」を初めて訪ねた。
[神功]は「書紀の中でも[豊前国]の[熊襲]を退治して回るが、「仲哀峠」や「鏡の池」が記されていない。

案内に従って進んだら、とある民家に入ってしまった。
間違ったと思い、車を反転させようとしたら、玄関から人が出てきて、「鏡の池はここでよかとですよ」 と声をかけられた。
声の主こそ柳井秀清さんだった。

「鏡の池」見学後に案内されたのが「おほきんさん」だった。
「[大王]様?」。
[天皇]の古い呼称である。
「香春に大王様? 誰?」。
頭は空回りするばかり、だが、眼前に確かに弥生期の[円墳]がある。

この時、同行していたのが古田武彦氏 (故人)であった。
[邪馬台国近畿説]が圧倒的多数を占める時代に、「『邪馬台国』はなかった」を発表し、第2書「失われた九州王朝」以降、「九州王朝論」 を唱えた人物である。
宿への帰途、氏がポツリ。
「仲哀天皇の墓でしょうかね」

しかし、氏の九州王朝論は詰まる所「筑前一元説」の考え方で、[卑弥呼]も[倭五王]も[日出処天子]もすべて[筑前]にいたとす る考え方である。
一方、書紀に描かれた[神武天皇]から[天智]・[天武]までの歴代天皇を全て「近畿大和分王朝」の系譜だとした。
結局、通説と同様、天皇は誰一人九州にいないのである。



古代田川に天皇がいた

古田氏の筑紫一元論に対し、私は素直に「豊前の大王様」、特に「田川の天皇」を真剣に考えることにした。
その正体を突き止めたい。その年の夏から十数年に及ぶ香春詣で、否、柳井さん詣でが始まった。

印象的だったのは、平松和夫さん(故人)の鉱石のコレクションを見せていただいたことだ。
香春[三ノ岳]の[横鶴鉱山]から出た自然金には度肝を抜かれた。
[記紀]などの神代に描かれた「天香山」からは[金]と[銅]が採れたと記してある。
が、[奈良県]の天の香具山からは何も出ない。
香春三ノ岳こそが本物の「天香山」と比定した。
その後、「神武は筑豊に東征した」を著わし、「おほきんさん」を本物の「畝傍東北陵」すなわち「神武天皇陵」と比定したのである。
また、「真実の仁徳天皇」 を著わし、再び、「香春の天皇」を論証した。

次に驚かされたのが「宮原盆地の謎の石造りの地下水路」の存在だった。
2011年、「頂吉」(かぐめよし)の地名に引かれて、 十何度目かの香春探訪の際に突如、柳井さんの口から出た。
その謎の地下水路こそ、斉明天皇紀に「水工をして渠穿らしむ。 香山の西より、石上山に至る。」と記された「狂心(たぶれごころ)の渠」に違いないと 直観した。
以後も、次々に日本書紀と事跡の合う遺跡が現れた。
「古代田川に天皇がいた」との確信がいよいよ深まった。

私は筑豊の人々に、筑豊が古代ヤマト の地であったことを伝えたい。
筑豊の真実の古代を知ってもらいたい。
「新説・日本書紀 福永晋三と往く」をつづろうと思う。

(記紀万葉研究家)

 

石灰岩が採掘される前の香春岳
(香春町教育委員会提供)



福永晋三(ふくながしんぞう)

1952年、宮田町生まれ。記紀万葉研究家。「神功皇后紀を読む会」主宰。
鞍手高をへて国学院大文学部文学科(漢文学専攻)を卒業後、2013年まで都立高校教諭を務める。
17年には川崎町に研究室を設け、「倭国」は「豊国」 との自説に基づいた田川と筑豊の古代史を発信している。
著書「真実の仁徳天皇」(不知火書房)や論文「神武は筑豊に東征した」(同時代社の「越境としての古代第6集」に収録)など多数。



新説 日本書紀「第1回 ガイダンス編(1/5)」(令和3年4月2日) 福永晋三

新説 日本書紀「第1回 ガイダンス編(2/5)」(令和3年4月2日) 福永晋三

新説 日本書紀「第1回 ガイダンス編(3/5)」(令和3年4月2日) 福永晋三

新説 日本書紀「第1回 ガイダンス編(4/5)」(令和3年4月2日) 福永晋三

新説 日本書紀「第1回 ガイダンス編(5/5)」(令和3年4月2日) 福永晋三



新説 日本書紀「第2回 日子山の神々(1/5)」(令和3年4月16日) 福永晋三

新説 日本書紀「第2回 日子山の神々(2/5)」(令和3年4月16日) 福永晋三




新説・日本書紀② 百余国の王 稲作漁労文明の地 筑豊 福永晋三

2024-08-04 06:43:15 | 旧日本史1 古代

新説・日本書紀② 福永晋三と往く - 古代史マガジン【KODAiZiNE】 (scrapbox.io)

2018年(平成30年)2月3日 土曜日

百余国の王 稲作漁労文明の地 筑豊

神代の神々は「王」だった

書紀の神々の系譜は恐ろしいくらい複雑だ。
本文で初代[神武天皇]につながる神の系譜と同時に、一書群で異なる説話(系譜)を記す。
これこそ古事記序文にある「諸家の賷てる帝紀」の反映だろう。
本来、神代の神々は「王」で、諸家とあるように「倭人は山島に依りて居を為し、およそ百余国あり、国ごとに皆王と称し」(後漢書)たらしい。
日中の史書から推測すると、彼らは「古遠賀湾の島と沿岸の山」に居をなしたようだ。

[984年]、日本国の僧[奝然]が宋の太宗に「王年代紀」を献上した。平安時代の[東大寺]に伝わっていたようだが、現在は失われ、中国の「宋史日本国伝」に残されていた。
[記紀]と異なり、
「初めの主は天御中主と号す。次は天村雲尊と日う、其の後は皆[尊]を以て号と為す」として、天八重雲、伊弉諾(いざなぎ)素戔烏(すさのお)、天照大神、正哉吾勝速日天押穂耳(あまのおしほみみ)、天彦、彦瀲(ひこなぎさ)など21人の尊を連ね、
「凡そ二十三世、並びに筑紫の日向宮に都す。彦瀲の第四子を神武天皇と号す」と記している。
大胆に「万世一系」の系譜と、神武に直結する二十三世の王(神)が記されている。

私は、全て筑紫の東すなわち豊国(豊前国)に都を置いたと解いた。
例えば、天村雲尊英彦山神宮上宮に祭られ、


※ 英彦山神宮の祭神      御祭神と由緒|英彦山神宮|福岡県添田町 (hikosanjingu.or.jp)より
御祭神 主神 天之忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)
    配神 伊耶那岐命(いざなぎのみこと) 伊耶那美命(いざなみのみこと)
御本社(上宮) 天村雲命(あめのむらくものみこと)


伊弉諾尊は、多賀神社や日少宮など筑豊の各神社に祭られている。
素戔烏尊も、須佐神社祇園社に、
天照大神尊も実は、宮若市磯光の天照宮や飯塚市の天照神社をはじめ、[遠賀川水系]や[彦山川水系]の各神社に広く祭られる。
正哉吾勝速日天押穂耳尊は、田川の神である。
天彦尊(=瓊瓊杵(ににぎ)尊)は、嘉麻市の馬見神社などに祭られ、宮若市の六ケ岳がその陵だとの伝承も残る。
この神々(王)の系譜を熟考すると、どうやら戦前の国史に名高い「天孫降臨」の系譜のようだ。


天孫降臨は豊国侵略説話

「天照大神の孫、瓊瓊杵(ににぎ)尊が[三種の神器]を下賜され、豊葦原の水穂国(=豊葦原中国)に天降った」というのが天孫降臨の骨格だ。
古事記にはこうある。
「天之石位(あまのいわくら)を離れ、天之八重多那雲を押し分けて、伊都能知和岐知和岐弖、天浮橋に、うきじまり、そりたたして、筑紫日向高千穂久士布流多氣(くしふるだけ)に天降り坐しき」。
天之石位(あまのいわくら)は沖ノ島(宗像市)と思われる。
「ここは韓国に向かい、[笠沙の御前]に真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり」から、
宮地嶽神社(福津市)の「光の道」が導き出され、直近の対馬見(つまみ)天孫降臨地と比定できる。

天孫降臨は瓊瓊杵(ににぎ)尊一代限りの事業ではなく、何代にもわたり繰り返された「豊葦原水穂国への侵略」の歴史だった。
古代の筑豊は、[遠賀川式土器]に代表されるように水穂の国だ。山には木の実が実り、鹿や猪の鳥獣があふれ、北に玄界灘、東に周防灘、内に古遠賀湾と、魚やクジラの豊かな海もあった。
筑豊の多数の縄文~弥生の貝塚遺跡が証明する。

近年提唱された「森と水の循環系を守った持続型の稲作漁労文明」が、確かに古代筑豊に栄えていた。
そこに何度も王権交代が起きた。それこそが日本書紀の神代の歴史事実だろう。
書紀神代の説話は、断じて、ギリシャ神話などのいわゆる「神話」ではない。
わが国の「神」は生きている間は「人」だった。日本書紀はもともと「史書」だ。
書紀の神々は、結局、稲作の始まった弥生時代の「筑豊百余国の王たち」なのだ。



古遠賀湾などを再現した古代倭国地図(福永氏作成)

王年代記に記された二十三世の王(神)
天御中主 (あめのみなかぬし)
天村雲尊 (あめのむらくものみこと)
③天八重雲尊 (あめのやえくものみこと)
④天弥聞博 (あめのににぎのみこと)
⑤天忍勝尊 (あめのおしかつのみこと)
⑥瞻波尊 (みなみのみこと)
⑦萬魂尊 (よろずむすひのみこと)
⑧利利魂尊 (ととむすひのみこと)
⑨國狭槌尊 (くにさづちのみこと)
⑩角襲魂尊 (つのそむすひのみこと)
⑪汲津丹尊 (くみつにのみこと)
⑫面垂見尊 (おもだるみのみこと)
⑬國常立尊 (くにとこたちのみこと)
⑭天鑑尊 (あめのかがみのみこと)
⑮天萬尊 (あめのよろずのみこと)
⑯沫名杵尊 (あわなぎのみこと)
伊弉諾尊 (いざなぎのみこと)
素戔烏尊 (すさのおのみこと)
天照大神尊 (あまてらすおおみかみのみこと)
⑳正哉吾勝速日天押穂耳尊 (まさかあかつはやひあめのおしほみみのみこと)
㉑天彦尊 (あまつひこのみこと)
㉒炎尊 (ほむらのみこと)
㉓彦瀲尊 (ひこなぎさのみこと)


※ 重要な神
天御中主 (あめのみなかぬし)・・・瀬織津[せおりつ]姫(竜神、水神)ではないか、
              縄文時代の古い神ではないか
天村雲尊 (あめのむらくものみこと)・・・八俣の大蛇[やまたのおろち]一族(八幡[はちまん]神一族)の長、
                  実は大物主[おおものぬし]神一族の長ではないか

伊弉諾尊 (いざなぎのみこと)・・・海神系。ここで国生みをしたことにして、①②の神を消す。

素戔烏尊 (すさのおのみこと)・・・筑豊に「出雲[いずも]」の地あり。筑豊から追放された(殺された)神。
天照大神尊 (あまてらすおおみかみのみこと)・・・モデルは饒速日[にぎはやひ]ではないか。だとすると本来は父である⑳の後にくる神。架空性が強い。合成された神。
⑳正哉吾勝速日天押穂耳尊 (まさかあかつはやひあめのおしほみみのみこと)・・・大物主神を追い出して、福岡県英彦山(日子山)北岳の祭神となったのではないか。瓊瓊杵[ににぎ]と饒速日[にぎはやひ]の父。

記紀では①②の神が消され、さらに天照大神のモデルとなった饒速日[にぎはやひ]も実質的に消されている。この消された神々はすべて筑豊の神とするのが福永説。論証の困難さを補うために、記述された地名を当時の地形と比較し、地名の変遷などを考え、具体的な比定に成功していくところに福永説の特徴がある。







新説 日本書紀「第2回 日子山の神々(3/5)」(令和3年4月16日) 福永晋三

新説 日本書紀「第2回 日子山の神々(4/5)」(令和3年4月16日) 福永晋三

新説 日本書紀「第2回 日子山の神々(5/5)」(令和3年4月16日) 福永晋三



新説・日本書紀③ 神代紀 めまぐるしい王権交代 福永晋三

2024-08-04 06:42:23 | 旧日本史1 古代

新説・日本書紀③ 福永晋三と往く - 古代史マガジン【KODAiZiNE】 (scrapbox.io)

2018年(平成30年)2月17日 土曜日

神代紀 めまぐるしい王権交代

 草薙剣は筑豊の神器

筑豊で王権交代があったとして、その順が皆目分からない。
特に、英彦山上宮天村雲尊が[記紀]のどこにも記されていない。
記紀英彦山の神を削除したようだ。


※(「魏志倭人伝を解く」序章 福永晋三 同時代社 2021.9月 P380) 
英彦山(ヒコ山 福岡県)にも「水分(みくまり)の神」として竜神の瀬織津(せおりつ)が祭られているようだ。
現在の英彦山の三嶽に、天之忍穂耳(あまのおしほみみ)伊弉冉(いざなみ)伊弉諾(いざなぎ)が三羽の鷹神として祭ってあるが、中岳の女神がどうやら瀬織津姫であることが分かってきた。

熟考すると、古事記の冒頭の神のように思われる。
「天地の初めて發(ひら)けし時、高天原に成りし神の名は、天之御中主(あまのみなかぬし)、次に高御産巣日(たかみむすび)、次に神産巣日(かみむすび)、この三柱の神は、みな獨神(ひとりがみ)と成りまして、身を隠したまいき。」
彦御山宝印(ひこのおんやまほういん)図の真ん中が女神であり、天之御中主(あまのみなかぬし)の名と位置にふさわしい。高御産巣日神(高皇産霊神)の「高」が「鷹」の書き換えであるなら、元は鷹御産巣日神(鷹皇産霊神)であろう。神産巣日神と合わせて三柱の神は、元来、英彦山の鷹羽の神々であったようだ。
「日本書紀」の神代では古事記の冒頭の三柱の神は「一書」群にしか現れない。 

※(福永氏補足) 「公事根源」には、瀬織津(せおりつ)湍津(たぎつ)とする記述がある。瀬織津姫は筑豊の縄文時代の竜神・水神であり、一方の湍津(たぎつ)はスサノオの娘で、現在も宗像大社に祀られている宗像三女神の一つである。時代の合わない二つの神が一つにされている。こうやって筑豊の最も古い神は、スサノオによって新しい神に吸収されていくが、このことにより筑豊には瀬織津(せおりつ)の伝統が残されている。(動画5-3)

※(「魏志倭人伝を解く」序章 福永晋三 同時代社 2021.9月 P381)
 三柱の神の続きにこうある。

「次に国稚く浮ける脂の如くして、海月なす漂えるとき、葦牙(あしかび)の如く萌え騰る物によりて、成りし神の名は宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこじのかみ)、次に天之常立神。この二柱の神もまた獨神(ひとりがみ)と成なりまして、身を隠したまいひき。
上の件の五柱の神は、(こと)天つ神。」
葦牙(あしかび)とはおよそ水稲のことである。すると、宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこじのかみ)とは我が国に稲をもたらした神であり、弥生時代の始まりの神である。この「比古遅神」が古事記の「八千矛神」の段に別の表記で現れる。
「又其の神の嫡后須勢理毘売(すせりひめ)命、甚く嫉妬為たまひき。故、其の日子遅の神和備弖(わびて)、出雲より倭国に上がり坐さむとして」
古事記の「大国主」の段にはこうある。
「此の神、刺国大神の女、名は刺国若比売を娶して生める子は、大国主(おおくにぬし)。亦の名は大穴牟遅(おおあなむち)と謂ひ、亦の名は葦原色許男(あしはらしこお)と謂ひ、亦の名は八千矛(やちほこ)と謂ひ、亦の名は宇都志国玉(うつしくにたま)と謂ひ、併せて五つの名有り。」
大国主はおそらく大物主の間違いである。あるいは故意に書き直したようだ。
古事記と日本書紀の「神代の巻」を丹念に読み解くと、

宇摩志阿斯訶備比古遅神大物主神大穴牟遅神(大己貴神)八千矛神宇都志国玉神」の事実が復元された。
英彦山は古くは「日子山」と云った。天照大神の子、天之忍穂耳命(日子)が祭られているからだとされてきた。だが、今回の追求からは、
宇摩志阿斯訶備比古遅神大物主神=大穴牟遅神(大己貴神)」が祭られているからだとなる。
現に、英彦山の隣、鷹巣山の高住(鷹巣)神社に

大穴牟遅神豊日別国魂神(豊前坊)」が祭られている。本殿が大穴の中にある。
この神社の縁起には、「当神社は、豊前坊天狗神としても有名で、欲深く奢りに狂った人には天狗を飛ばせて子供をさらったり、家に火をつけたりして慈悲の鉄槌を下し、心正しく信仰する人には家来の八天狗をはじめ全ての天狗を集めて願い事を遂げさせ、其の身を守ると伝えられてきました」とある。
この大天狗が手にするのが「高羽の団扇」である。

つまり、英彦山は「高羽の神々が宿る聖山」なのである。 

※(管理人注) 日子山に住んでいた大物主、タギリ姫、タギツ姫は追い出され、海辺に祭られた。それが宗像大社である。これを行ったのは、壬申の乱の勝者である天武天皇である。

※(「魏志倭人伝を解く」序章 福永晋三 同時代社 2021.9月 P383)
 「(やまと)成す大物主」とは日本書紀崇神天皇の条にある、倭国大乱の後の歌謡の一節である。倭国はいつから始まったか。日本書紀によれば・・・皇紀元年すなわち紀元前660年から始まったことになる。これは、人皇初代神武天皇の橿原宮での即位年である。
神武天皇の年齢は127歳とあり、9代開化天皇115歳、10代崇神天皇120歳、11代垂仁天皇140歳、12代景行天皇106歳、13代成務天皇107歳、14代仲哀天皇52歳、神功皇后100歳、15代応神天皇110歳と続く。歴代天皇の寿命が長過ぎる。神武天皇の実際の即位年を西暦121年とした立場から言えば、大物主の倭国造りを隠そうとした、あるいは消そうとしたからだと推測される。
倭国は紀元前660年頃、日子山に拠点を置いた「宇摩志阿斯訶備比古遅神大物主神」の国造りから始まった。
大物主は「海を光して依り来る神(古事記)」であった。渡来神である。添田町(福岡県)に残る大天狗の面から推し量れば、インド・アーリア系の人種と思われる。
大物主のは国造りは、古事記・日本書紀において伊弉諾(いざなぎ)・伊弉冉(いざなみ)の国生みに書き換えられたようだ。

※(管理人注) 福永晋三氏が講演会(動画)で言うように、古事記の大国主の系譜には、大国主多紀理(たきり)ヒメと結婚した、とある。この多紀理(たきり)ヒメは宗像大社の沖津宮の神だが、天照大神と須佐之男との誓約(うけい)のときに生まれた神で、須佐之男の娘である。そして大国主は、その同じ須佐之男の7代後の子孫である。1代目の子孫と7代目の子孫が結婚できるわけがない。どう考えても時代が合わない。どうしてこんなことをするのか。それは本来の多紀理(たきり)ヒメの結婚相手を消すためである。もともと多紀理(たきり)ヒメは別の神と結婚していたのだが、無理やり大国主と結婚したことにされ、本来の結婚相手の神の存在は消された。古事記はこんなことをしている。その消された結婚相手こそ大物主である。

※(「魏志倭人伝を解く」序章 福永晋三 同時代社 2021.9月 P385)
 (古事記の大国主の系譜には)改竄の跡があり、もともと大物主から始まる系譜であったようだ。大国主は最低でも17代後の子孫であろう。「大倭国」は数百年続いたようである。
大物主は別名「八千矛の神」でもある。この神が引き連れてきた部族こそおそらく物部氏25部族であろう。銅矛の出土状況がそれを裏付ける。神代の倭国も断じて近畿にはなかった。


※(管理人注) 古事記の八千矛神の段に、大国主を突然、「日子」遅神(ひこぢのかみ)と別名で呼ぶ箇所がある。
この日子遅神とは宇摩志阿斯訶備「比古」遅神(あましあしかびひこぢのかみ)のことである。この神は、古事記の冒頭で出てくる最初の神のうちの4番目の古い神である。この神の名に「比古」(ヒコ)がある。この神が英彦(ヒコ)山のもともとの名である日子山の神であり、古事記も大国主を突然、「日子」遅神(ひこぢのかみ)と本名で呼んでいる。
この神は英彦山神宮の隣にある高住神社(豊前坊)大天狗として祀られている大物主のことである。

※(管理人注) 著者の福永晋三氏は、大物主の正体は、英彦山神宮の隣にある高住神社(豊前坊)に祀られている大天狗のことだとします。そしてこの天狗神は、インド=アーリア系の渡来神だと言います。
もちろんそのことは表面上は消されていて、御祭神は「豊日別大神」という別の名前になっていますが、高住神社の由緒書には「本社は豊前坊天狗神としても有名です」と今もはっきり書かれています。

※(管理人注) 田川の語源は鷹羽。 鷹羽 → 高羽 → 田川(福岡県)。


※(管理人注) 記紀の「出雲神話」とは「筑豊神話」のことです。素戔嗚(すさのお)を中心とする出雲神話は、実は筑豊で起こっていたことでした。
筑紫よりも筑豊のほうが歴史が古いのですが(筑豊の中心は大物主一族です)、天武天皇は壬申の乱で勝利した筑紫側の天皇であったため、敵側の筑豊の歴史を無いことにしたかった。葬り去りたかった。だから、古事記・日本書紀の作成を命じ、筑豊での出来事を出雲での出来事として記述することにより、筑豊の歴史を消し去った。

大物主一族である八俣大蛇一族を倒したのは素戔嗚(すさのお)です。それは筑豊での出来事ですが、それを出雲での出来事としたから、素戔嗚が建てた王朝を「出雲王朝」と言います。その「出雲王朝」を引き継いだのが、記紀の上では素戔嗚の子孫となっているの大国主です。
つまり大物主と大国主は、時代の違うまったくの別人です。その別人を同じ人物だとすることにより、大物主を消したわけです。それは「筑豊王朝」の存在を消し去ったということです。
その大国主に「国譲り」を強要したのが、次代の饒速日(にぎはやひ)です。
つまり日本の古代王朝は、
大物主王朝 → 素戔嗚王朝(大国主?)→ 饒速日王朝、と変わり、
次にこれがさらに初代天皇の神武王朝へと移っていくのです。 


ただ、この神が「三種の神器」の草薙剣に深く関わる。
草薙剣。一書に云う、本の名は天叢雲剣。けだし大蛇の居る上に、常に雲気有り。故以ちて名づくるか。日本武皇子に至りて、名を改め草薙剣という。(書紀神代第八段)」とある。
素戔嗚尊八俣の大蛇退治の時、その尾から出た鉄剣の本の名天叢雲天村雲は同名である。
大蛇は八尾だから、八振りの剣を有したはずだ。
遠賀には素戔嗚尊と日本武尊を祭る「八剱神社」が八社以上鎮座する。
中でも、鞍手町中山にある八剱神社には、
後の天智天皇7(668)年に、草薙剣を盗んだ新羅の沙門[道行]がこの地で風雨に遭い剣を放り出し、「この御山にしばらく安置奉る」との社伝までが残る。

[遠賀川]と[彦山川]流域は弥生時代、現在の飯塚市や糸田町付近まで深く湾入した海だった。
八剱を所有していたと思われる八俣の大蛇は、当時、この[古遠賀湾]一帯を治めていた有力な一族を指すのではないか。


※(ニギハヤヒ 戸矢学 河出書房新社 2011.12月 P132)
 第十代、崇神(すじん)天皇のとき、八咫鏡と天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)が祟りを成したので、皇居の外に祀ることとした。奉仕したのは皇女・豊鍬入姫(とよすきいりひめ)命である。

その後、奉仕の役目は豊鍬入姫命から倭姫(やまとひめ)命へと引き継がれる。
倭姫命は、第11代・垂仁天皇の第四皇女。二種の神器にふさわしい鎮座地を求めて遷御をおこない、最終的に伊勢の地に御鎮座となる。
これがいわゆる伊勢神宮である。正しくは皇大神宮(内宮)と豊受大神宮(下宮)。両宮を総称して神宮とのみ称するのが正式である。
そして倭姫命は初代の斎宮となった。つまり、伊勢神宮のトップであり、天皇の名代であり、国家の宗教的権威の象徴である。

さてそれでは、初代斎宮が奉仕する神は、何者であろうか。
もともと宮中で祀られていて、天皇の宗教的権威を保証する神とは。
八咫鏡は、皇祖神アマテラスの依り代である。
それでは天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)は、はたしていかなる神の依り代か。
いずれにせよ、伊勢神宮創建の際には、まぎれもなくこの二柱の神が祀られていたのだ。
三種の神器の一つである草薙剣(くさなぎのつるぎ)は、現在ではスサノヲの依り代ということになっている
しかし由来を考えると、十握剣(とつかのつるぎ)がスサノヲの依り代であれば合点が行くが、草薙剣(天叢雲剣)だとすると理屈に合わない。
スサノヲがヤマタノオロチを退治した際に、その尾から出てきたとしているが、それならばオロチ退治を成し遂げた十握剣こそがスサノヲの依り代として祀られるべきであるだろう。
スサノヲの佩刀(はいとう)・十握剣は「勝者の剣」であり、ヤマタノオロチの体内刀・天叢雲剣は「敗者の剣」である。だからこそ天叢雲剣は怨霊神となって、崇神天皇の御代に祟りを為した。敗者が祟るのであって、勝者のスサノヲが祟る謂れはないだろう。
つまり、天叢雲剣は別の誰かの依り代である。
崇神天皇は、剣の祟りを鎮めるために大神(おおみわ)神社を祀った。
その大神神社の祭神は誰か

大神神社(通称 三輪明神 三輪さん) 奈良県桜井市三輪
 【祭神】大物主大神 (配祀)大己貴神 少彦名神 

すなわち、天叢雲剣は、オオモノヌシの依り代以外にはありえないということだ。つまり、祟り神はオオモノヌシである。

それではオオモノヌシとは何者か。
「最古の神社」といわれる大神神社は、実は祭祀形態としても古式をとどめていて、多くの神社とは異なっている。普通に参拝しただけではわかりにくいが、拝殿はあるものの、その奥に本殿はない。拝殿の奥はそのまま三輪山であって、三輪山そのものが御神体である。そして三輪山は、オオモノヌシの墓、陵墓であるだろう。
古事記では、オオクニヌシが三諸山(みもろやま)(三輪山)へオオモノヌシを祀ったとしているが、ヤマトを去ることになるオオクニヌシが、自らの霊威を引き継がせるために三輪の王としてのお墨付きを与えるための関連づけであるだろう。
そしてオオモノヌシの正体・実体について、「オオクニヌシの異称」や「オオクニヌシの幸魂奇魂(さきみたまくしみたま)」などとも記されているが、もともと別の神であるため、いずれも宗教的権威を継承する神であることを示す意図だろう。
そもそも出雲の長であるオオクニヌシが、オロチの長と同一では対立関係になりようがない。オオモノヌシは、オオクニヌシでもオオナムヂでもなく、まったく別の神だ。

オオモノヌシには伝説が多い。
神武天皇の皇后は、姫踏鞴五十鈴姫(ひめたたらいすずひめ)(伊須気余理比売 いすけよりひめ)であるが、オオモノヌシの女(むすめ)である(コトシロヌシの女とも)。
伝説では、オオモノヌシは丹塗りの矢に姿を変えて流れを下り、用足し中の勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)の女陰(ほと)を突いて懐妊させる。そして生れたのが神武妃となる。
また、いわゆる「箸墓(はしはか)伝説」では、倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)は夫のオオモノヌシが夜しか姿を見せないので訝ると、小さな蛇の姿を現す。これに驚いて叫んだために、オオモノヌシは恥じて三諸山(三輪山)へ登ってしまう。倭迹迹日百襲姫は悔やんで箸で女陰を突いて死んでしまう。このために埋葬された墓を箸墓と呼んだ。
いずれも「女陰を突く」という共通項があるのは、女系による血族をシンボライズしたものであるだろう。娘を神武の皇后にする、つまり神武を娘婿としてヤマトに迎えて、ヤマト王権を継承させることへの布石とも見える。
記紀の崇神(すじん)天皇の条には、災厄が多いので占ったところ、オオモノヌシの祟りであって、その子孫である大田田根子(おおたたねこ)に祀らせよとの神託があり、祀らせて鎮まった、とある。これは現在に続く大神(おおみわ)神社である。
この祟り神の依り代こそが天叢雲剣である。
大神神社・オオモノヌシは祟りなす強力な神であったが、天皇によって手篤く祀られたことにより国家の守護神となった。そしてその依り代は、三種の神器の一つとして、皇位継承の証ともなったのだ。

しかし、なぜ天叢雲剣がオオモノヌシの依り代なのか。
このことには重大な意味がある。
すなわち、ヤマタノオロチオオモノヌシであったということになるのだ。
あるいは、ヤマタノオロチに体現される賊衆の長オオモノヌシであったとも解釈できる。

※(福永氏補足) 大物主から500年ぐらい後に現れたのが大国主である。大物主の国は17代続いている。これが大倭(おおやまと)国だった。だが、その間にスサノオに国(の一部)を奪われ、最後に大国主はニギハヤヒに国を奪われた。そのニギハヤヒの父が、いま英彦山北岳に祀られている天之忍穂耳(あまのおしほみみ)である。それ以前には、大物主が英彦山北岳に祀られていた。  
大国主は国を奪われた後、今の出雲に流された。大国主は大物主の子孫であるから大物主を信奉し、その大物主を連れたまま現在の出雲に流された。だから大物主も今の出雲に祭られているはず(出雲地方の神社の家紋等による)。
日子山に住んでいた大物主とタギリ姫とタギツ姫は、沖に追い出され、そこで祭られた。それが宗像大社である。これを行ったのが、のち7世紀、壬申の乱の勝者の天武天皇である。こうやって大物主が筑豊から消された。

※(福永氏補足) 天照大神は、女神で日の神である大日孁(おおひるめ)尊を作り替えたもの。(動画5-3)

※(管理人注) 天叢雲剣は、スサノヲの剣ではなく、スサノヲがヤマタノオロチの尾から取り出したものです。だから、もともとはヤマタノオロチのものです。
その天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)は、ヤマトタケルの活躍によって、のちに草薙剣(くさなぎのつるぎ)と名前を変えます。つまり、ヤマタノオロチの剣=天叢雲剣=草薙剣です。
 

中国の神話に、長江下流域では[周]代ごろ、人頭蛇身の[女媧]という神が祭られていたとされる。この神を祭る一族との仮説も立つ。
ヤマタ(yamata)の「m」が「b」に変わると、ヤバタ(yabata)、すなわち八幡となる。
私は、八俣の大蛇一族が最初の八幡神で、「八幡王朝」古代筑豊にあったのではと考える。豊前神楽に「素戔嗚尊の八俣の大蛇退治」の演目が多く見受けられることも興味深い。


※(福永氏補足) 八俣大蛇一族は、一番古い八幡神ではないか。

※(管理人注) 八幡神の実体は謎である。通常は「武門」の神様だと言われる。そしてその御神体は応神天皇だと言われる。なぜ応神天皇が武門の神様なのかはまた謎である。

オオモノヌシを祭る物部氏
一族も「武門」の一族である。八幡神とオオモノヌシは「武門」を共通項としており、かなり似ている。



伊弉諾尊は古遠賀湾の王

書紀の系譜に従えば、伊弉諾(いざなぎ)が降臨し、洲国を産み、天照大神・月読尊・素戔嗚(すさのお)尊を生んだ。
[国産み]の時、大日本豊秋津洲(おおやまととよあきつしま)を産んだ。
その割注には「日本、此をばヤマトと云う。下皆此に効え」との重大なイデオロギーが現れている。
古事記の「倭」を日本書紀は「日本」と表記を切り替えたことになる。

また、直方市の天神橋貝塚からは[マッコウクジラ]の歯の装飾品が出土している。
古遠賀湾の存在から、伊弉諾尊は「鯨取り」の神で、「鯨取り淡海の海」の王者だったのではないか。
伊弉諾尊は火神カグツチ(=火男)を斬り、革命王権を建てたとも考えられる。
神武天皇紀の結びには、伊弉諾尊が「日本は浦安の国、細戈の千足る国、磯輪上の秀真国」と名付けたとある。
海がない奈良県「浦安の国」にはなり得ず、ヤマト国ではない。

一方、福岡県からは大量の銅矛・銅戈、筑豊では細戈(細型銅剣、紀元前2世紀ごろか)が出土している。
伊弉諾尊は晩年、「淡海の多賀に隠居した」と古事記は記す。
筑豊にある多賀神社(飯塚市勢田)やその別名の日少宮(飯塚市多田)辺りがゆかりの地ではないか。


※(「魏志倭人伝を解く」序章 福永晋三 同時代社 2021.9月 P386)
 伊弉諾(いざなぎ)は弥生前期の紀元前300年頃、長江下流域の越の人々が渡来したようだと述べてきた。・・・おのころ島を水巻町頃末(ころすえ)の多賀山に見出した結果、大物主の子孫の王に居住の許しを得、おのころ島直近の立屋敷遺跡を拠点にして東方に新天地を開拓したようだ。遠賀川式土器すなわち稲作文化が百年の速さで青森県まで伝播している。



宋史日本国伝が伊弉諾尊の次の王とする素戔嗚尊
「八雲立つ 出雲八重 垣妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」
の歌を[須賀宮]で詠んだ。
この宮は[須賀神社]の密集する点から、飯塚市内野の内野老松神社ではないかと思われる。

※ 内野老松神社 → 香春町の「鏡の池」の裏山の「玉垣様」に変更

その後、八俣の大蛇一族を退治し、筑豊に出雲王権を建てたとすれば、八雲とは筑豊で行われていたであろうたたら製鉄の大量の煙を指したものかもしれない。
内野老松神社近くの国道200号を北に約6㌔進んだ所には「出雲」という交差点もある。


※(福永氏補足) 出雲の地も嘉麻(福岡県)の地にあったと思われる。

※(スサノヲの正体 戸矢学 河出書房新社 2020.9月 P82)
 「出雲」という地名は出雲族とともに出雲国へと遷ってきたもので、実はきわめて人為的な名称である。・・・出雲は元は「伊豆毛」と表記したもので、元々は三輪こそが伊豆毛族の故地であったが、その後、三輪の地を追われて数か所に分かれて収容されることとなる。・・・(出雲は)吉字による当て字である。

※(「魏志倭人伝を解く」序章 福永晋三 同時代社 2021.9月 P387)
 では、大倭国で最初にクーデターを起こしたのは何者か。素戔嗚(すさのお)ではないか。彦山の南から北伐を敢行し、八俣大蛇一族大物主蛇神でもある)を退治し、天叢雲剣(のちの草薙剣)を入手している。いわゆる「大国主の国譲り」は素戔嗚尊の放伐(武力革命)の故事であり、「出雲王朝」の成立ではなかったか。敗れた大国主は現在の出雲大社の地に移され、「祭り上げ」られた。出雲大社の「客人(まろうど)の間」は西に向いていて、「宇摩志阿斯訶備比古遅神=大物主神」が祭られている。

※(ニギハヤヒ 戸矢学 河出書房新社 2016.2月 P230)
 ヤマタノオロチ退治は、日本神話全編を通じて最大のクライマックスと言っても良いだろう。

ところがその神話の位置付けには基本的な問題が存在している。
「出雲国風土記」は、出雲地方についての最も古い記録であって、歴史的にも貴重な文献だが、ここには、いわゆる「出雲神話」が収録されていないのだ。出雲の手による、出雲自身の最も古い記録なのに、そこに「出雲神話」はほとんど見ることができない。
ということは、「出雲神話」は、出雲地方とは無関係の神話ということになりはしないか。少なくとも、出雲は「出雲神話」を認めていない。・・・
「出雲神話」の「出雲」という言葉に私たちは幻惑されているのではないか。現に「出雲国風土記」に収載されていない神話であるならば、他の神話である可能性を考えなければならない。・・・
ちなみに、古社は、すべてが縄文の神に、弥生の神が重ね合わされている。


※(スサノヲの正体 戸矢学 河出書房新社 2020.9月 P111)
 オオクニヌシはヤマト朝廷によって創り出された神名であり、統合神として地祇(くにつかみ)の象徴とされたものではないか? オオクニヌシがオオナムチ以下の多くの別名を持ち、しかして実体が定まらないのはこの理由によっているのではないか。・・・

大和地方(元・出雲)に盤踞していたスサノオの末裔を征討し、合わせて大社に祀り上げることによって、ヤマト政権は成立したのであって、オオクニヌシとは、彼らの集合体としての神名ではないかと。
政権移行のためには多くの血が流されたであろうし、新政権に対する「怨み」も残ったのは間違いない。出雲大社はその鎮魂の社なのだ。つまり、オオクニヌシ(あるいは出雲族の首長たち)は鎮魂されなければならないような死に方であったと理解できる。「国譲り」という美名によって糊塗されているが、実態は「服属」であろう。苦労して建国し統治していた国を、やすやすと他者に「譲る」はずがないのだから。つまりこれはヤマト族によって出雲族が「征服」されたという歴史的事件を、「禅譲」という美談に変換翻訳した神話であろう。

※(福永説補足) 因幡の素兎(しろうさぎ)も添田町下津野の高木神社に祀られている。狛犬の代わりがウサギになっている。このウサギ一族が辿り着いた先が大分県の宇佐である。そこに宇佐神宮がある。


この素戔嗚尊を倒したのが、神代のスーパースター「天照大神」だ。
この神もまた筑豊の王であった。

(本文終)



内野老松神社(中央)の境内には須賀神社(右端)の社殿も並ぶ






新説 日本書紀「第3回(1/5) 神代紀 めまぐるしい王権交替」(令和3年7月2日) 福永晋三

新説 日本書紀「第3回(2/5) 神代紀 めまぐるしい王権交替」(令和3年7月2日) 福永晋三

新説 日本書紀「第3回(3/5) 神代紀 めまぐるしい王権交替」(令和3年7月2日) 福永晋三

新説 日本書紀「第3回(4/5) 神代紀 めまぐるしい王権交替」(令和3年7月2日) 福永晋三

新説 日本書紀「第3回(5/5) 神代紀 めまぐるしい王権交替」(令和3年7月2日) 福永晋三




新説 日本書紀「第4回(1/5) 神代紀 めまぐるしい王権交替」(令和3年7月16日) 福永晋三

新説 日本書紀「第4回(2/5) 神代紀 めまぐるしい王権交替」(令和3年7月16日) 福永晋三

新説 日本書紀「第4回(3/5) 神代紀 めまぐるしい王権交替」(令和3年7月16日) 福永晋三

新説 日本書紀「第4回(4/5) 神代紀 めまぐるしい王権交替」(令和3年7月16日) 福永晋三

新説 日本書紀「第4回(5/5) 神代紀 めまぐるしい王権交替」(令和3年7月16日) 福永晋三




新説・日本書紀④ 神代紀 記紀が隠した天神降臨 福永晋三

2024-08-04 06:41:55 | 旧日本史1 古代

新説・日本書紀④ 福永晋三と往く - 古代史マガジン【KODAiZiNE】 (scrapbox.io)

2018年(平成30年)3月3日 (土)

神代紀 記紀が隠した天神降臨

消された真の天照大神

江戸期まで「武士の史書」として崇められた「先代旧事本紀(せんだいくじほんき)」という書がある。
その巻第3に天神本紀があり、記紀の天孫降臨と同様の記事が載る。
その主人公は天照国照彦天火明櫛玉饒速日(にぎはやひ)尊と云い、天孫瓊瓊杵(ににぎ)尊である。この神が、宮若市磯光天照宮に祭られる真の天照大神ではないか。

※(管理人注) 磯光の天照宮の主祭神は饒速日(にぎはやひ)であり、天照大神は祭られていない。それでもこの宮を天照宮というところから、天照大神とは饒速日のことではないか、という意味。

※(福永氏補足) 天照大神は、女神で日の神である大日孁(おおひるめ)尊を作り替えたもので、実際は饒速日(にぎはやひ)が天照大神に相当する。(動画5-3)


記紀と違い、男神で、
天照宮社記には「垂仁天皇十六(紀元前14)年、饒速日尊笠置山に降臨した」とある。


※(「魏志倭人伝を解く」序章 福永晋三 同時代社 2021.9月 P387)
 素戔嗚(すさのお)尊を倒したのが、天照大神こと饒速日(にぎはやひ)であろう。若宮市宮田町磯光の天照宮に祭られる男神である。「古事記」天の岩屋戸伝承にこうある。・・・

「千座(ちくら)の置戸(おきと)」とは何枚もの板状の石のことであり、素戔嗚尊は重い石を身体の上に置かれて圧殺されている。彼の一族は再び現在の出雲に流されたようだ
新王朝の主となった饒速日尊は、大物主の部下であった物部八十氏の新たな主人となったようだ。以後の物部氏を「天の物部氏」という。新物部氏の祖・饒速日尊の父こそ天忍穂耳(あまのおしほみみ)である。 

※ 英彦山神宮には天之忍穂耳尊が祭られており、彦山権現=天之忍穂耳尊である。

※(「魏志倭人伝を解く」序章 福永晋三 同時代社 2021.9月 P388)
 「彦山流記」と「彦山縁起」を解読すると、こうなる。

彦山権現(天之忍穂耳尊)が長い船旅の末、ようやく岸辺について上陸された時、香春明神に宿を借りたいと申し入れましたが、香春明神は狭小であることを申し立てて宿を貸そうとはしませんでした。そこで権現は大いに立腹され、大勢の金銅童子にお命じになって香春岳の樹木を引き抜かせてしまいました。そのために今まで生い茂った草木のために蔽い隠されていた。磐石がすっかり露出してしまいました。
それから権現は直ちに彦山に攀じ登られたところ、
前々から居住していた地方神の御三方(大己貴神・多紀理(たきり)姫・湍津(たぎつ))は、

快く権現に山を譲られて
②暫くは山の中腹に留まっていましたが、
③その後豊前国の許斐(このみ)山に移られました。
④この年は金光7年丙申の歳(576年)、敏達天皇の御代のことでありました。」
(添田町郷土史会の水上薩摩氏の口語訳を福永が一部改訂)
右記のの実態こそ武力革命と思われる。饒速日尊の笠置山降臨(実際は侵略)は、天照宮社伝によれば、紀元前14年のことのようである。
「先代旧事本紀」等によれば、饒速日尊の長男が宇麻志摩治(うましまじ)で、その弟が天香語山(あまのかぐやま)のようだ。宇麻志摩治は今日の大阪まで東遷し、天香語山(香春三ノ岳)尊は父の跡を継いだ。

これらに関連するのが、「後漢書」倭国伝の次の一節である。
「建武中元2年(57年)、倭奴国(いぬこく)奉貢朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の南界を極むるや、光武賜うに印綬を以てす。
安帝の永初元年(107年)、倭国王帥升等、生口160人を献じ請見を願う」
後漢の光武帝から下賜されたのが「漢委奴国王」の金印である。倭奴国王は、物部氏をよく統治し得たことから大物主(鷹羽の神)を崇敬したのではないかと思われる。倭奴国は万葉集の中では「天満倭(そらみつやまと)と呼ばれ、倭国でもある。

※(福永氏補足) 「地方神の御三方(大己貴神・多紀理(たきり)姫・湍津(たぎつ))」とは英彦山の神々のことであるが、このうち大己貴神とは大国主のことではなく、その始祖の大物主のことであり、湍津(たぎつ)姫とは縄文時代の水神、瀬織津姫のこと。この二神とも記紀からは消された神である。
天之忍穂耳が筑豊に上陸し、侵略することにより、彼らは英彦山から追い出された。(そして今は宗像大社に宗像三女神の一つとして形を変えて祭られている)(動画5-4)



約130年後の神武即位前紀の東征宣言の段にはこうある。
「昔我が天神、高皇産霊(たかみむすひ)尊・大日孁(おおひるめ)尊、此の豊葦原瑞穂国を擧(言葉に出して言うの意味)して、我が天祖彦火瓊々杵(ににぎ)に授けき。
是に、火瓊々杵尊、天關闢き、雲路披け、仙蹕(みさきはらい)駈ひて以ちて戻り止まり、此の西の偏を治す。
鹽土老翁(しおつちのおじ)曰く、
『東に美し地有り。青き山四に周り、其の中に亦天磐船(あまのいわふね)に乗りて飛び降る者(=饒速日)有り』と。
余、謂ふに、彼の地は、六合(くに)の中心か。何ぞ就きて都なささらん」。

※ 「日本書紀」には、「(神武)天皇は饒速日(ニギハヤヒ)が天から降ったということは分り、いま忠誠のこころを尽くしたので、これをほめて寵愛された。これが物部氏の先祖である」(全現代語訳 日本書紀 上 宇治谷孟 講談社学術文庫 P106)とある。

※ 「日本書紀」に従えば、神武天皇がヤマトに入るよりも早く、物部氏の祖・ニギハヤヒの命がヤマトに舞い降り、土着のナガスネ彦の妹を娶り、君臨していたという。(物部氏の正体 関裕二 東京書籍 P22)

※ 奈良県桜井市三輪山麓のの大神(おおみわ)神社の主祭神は大物主神であり、物部氏と関係があるとされます。(物部氏の正体 関裕二 東京書籍 P35前後参考)

神武は瓊瓊杵(ににぎ)の直系で、西の偏(筑紫国)を統治していた。
東の美し地(豊国)は、饒速日尊の子孫が治める六合(くに)の中心だった。
神武はこの地を東征しようとした。
また、天孫降臨を強調するため、記紀は大日孁尊を女神天照大神に置き換えたとも取れる。
さらに、「蹕(みさき)」とは「御車(天孫)」を指し、降蹕(こうひつ)は天孫降臨を意味する。
これらのことから、筑豊に「天神降臨」の史実があったが、記紀はそれを隠したと考える。

先代旧事本紀によると、
天神饒速日尊は32将・天物部25部族(別表)の大軍勢を率いて、六ケ岳(宮若市)の北麓、新北上陸作戦を敢行したと思われる。
その記録が「誓約(うけい)」の場面だろう。
素戔嗚尊は6柱の男子を産み(神代第六段一書第3)、天照大神は宗像三女神を産む。

※(管理人注) 書紀の本紀では宗像三女神は素戔嗚の子供とされているが、一書(第3)では上記のように記されている。

三女神は風土記逸文と六嶽神社社記に「六ケ岳に降臨」と伝わる。
続いて笠置山(宮若市)に降臨した後、立岩式石包丁を使う豊葦原瑞穂国を制圧。
古遠賀湾を渡り、田川市夏吉岩屋鍾乳洞素戔嗚尊を追い詰め
「天香山直近の天の岩屋戸で千座置戸(ちくらおきと)(スレート状の石)を負わせ圧殺した」と推測される。


金印国家[倭奴国]の創建

素戔嗚尊の一族を根之堅州国(旧出雲国)に追放した後、
饒速日尊も伊弉諾(いざなぎ)尊と同様に筑豊の地に「虚空見つ日本(そらみつやまと)の国」と名付けた。
万葉集29番には「天満倭(そらみつやまと)」と表記されている。
全国の天満宮には本来、天神(饒速日尊)が祭られていた。

この国はまた、中国正史の[後漢書]や[旧唐書]にいう「倭奴国(いぬこく)」であり、
福岡市の志賀島から出土した金印に彫られた「委奴国(いぬこく)」でもある。
倭奴国・委奴国の遺称なのか、筑豊やその周辺には豊前市の[犬ケ岳]、宮若市の[犬鳴山]、田川市の[猪膝]、水巻町の[猪熊]など「犬」「猪」の付く地名が多い。

倭奴国第2代の王は、天香語山命という。やはり香春の王であったようだ。
この王が後漢の楽浪郡(北朝鮮・平壌)に使者を遣わし、
[57年]、光武帝から金印を下賜された。
金印はかつて香春に安置され、後に神武東征の結果、筑紫国に持ち去られ、今日に至ったのかもしれない。


※(福永氏補足) 日本書紀は平安中期まで書き換えられた。
その間、3つの勢力の政権交代がある。天智天皇系、次に天武天皇系の奈良時代、次に天智天皇系の平安時代。(動画5-7)





饒速日尊の率いた天物部25部族の推定所在地
(立岩式石包丁の分布と重なる地名)

①二田(ふた)物部、鞍手郡小竹町新多二田ケ浦
②当麻(たぎま)物部、未詳
③芹田(せりた)物部、宮若市芹田
鳥見(とみ)物部、直方市頓野
⑤横田(よこた)物部、飯塚市横田
嶋戸(しまと)物部、遠賀郡遠賀町島門
⑦浮田(うきた)物部、未詳
⑧巷宜(ちまたき)物部、未詳
⑨足田(あしだ)物部、未詳、鞍手郡疋田説あり
⑩須尺(すさか)物部、糟屋郡粕屋町酒殿
⑪田尻(たじり)物部、未詳、みやま市田尻?
赤間(あかま)物部、宗像市赤間
⑬久米(くめ)物部、未詳、糸島市久米?
⑭狭竹(さたけ)物部、鞍手郡小竹町
⑮大豆(おおまめ)物部、嘉穂郡桂川町豆田
⑯肩野(かたの)物部、北九州市小倉北区片野
⑰羽束(はつかし)物部、遠賀郡岡垣町波津
⑱尋津(ひろつ)物部、鞍手郡鞍手町八尋?
⑲布都留(ふつる)物部、鞍手郡鞍手町古門?
⑳住跡(すみと)物部、未詳
㉑讃岐三野(さぬきのみつの)物部、未詳、福岡市博多区美野島?
㉒相槻(あいつき)物部、朝倉市秋月?
㉓筑紫(ちくしのきく)物部、北九州市小倉南区企救
㉔播麻(はりま)物部、未詳、筑紫野市針摺?針磨とも書いた
㉕筑紫贄田(ちくしのにぎた)物部、鞍手郡鞍手町新北





新説 日本書紀「第5回(1/7) 神代紀 記紀が隠した天神降臨」(令和3年10月1日) 福永晋三

新説 日本書紀「第5回(2/7) 神代紀 記紀が隠した天神降臨」(令和3年10月1日) 福永晋三

新説 日本書紀「第5回(3/7) 神代紀 記紀が隠した天神降臨」(令和3年10月1日) 福永晋三

新説 日本書紀「第5回(4/7) 神代紀 記紀が隠した天神降臨」(令和3年10月1日) 福永晋三

新説 日本書紀「第5回(5/7) 神代紀 記紀が隠した天神降臨」(質疑応答編①)(令和3年10月1日) 福永晋三

新説 日本書紀「第5回(6/7) 神代紀 記紀が隠した天神降臨」(質疑応答編②)(令和3年10月1日) 福永晋三

新説 日本書紀「第5回(7/7) 神代紀 記紀が隠した天神降臨」(質疑応答編③)(令和3年10月1日) 福永晋三




新説・日本書紀⑤ 神代紀終章 豊国・倭と火国・山門の興隆 福永晋三

2024-08-04 06:40:02 | 旧日本史1 古代

新説・日本書紀⑤ 福永晋三と往く - 古代史マガジン【KODAiZiNE】 (scrapbox.io)

2018年(平成30年)3月17日 土曜日

神代紀終章 豊国・倭と火国・山門の興隆

漢の倭奴国の隆盛

天神饒速日尊の降臨から始まった倭奴国は後漢への朝貢を続けた。

太宰府天満宮に伝わる唐代の百科事典で、天下の孤書「翰苑」にある[後漢書]には
「光武の中元二(57)年、倭国、奉貢朝賀し、使人自ら大夫(周代の官名)と称す。光武賜うに印綬を以てす。
安帝の永初元(107)年、倭王[師升]等、生口百六十を献ず」とある。
瀬戸内海に浮かぶ生口島(広島県尾道市)には、中国に献上された「生口」(奴隷)が囚われていたとの伝承が残る。
生口の地名は同市以外には見当たらない。

また、先代旧事本紀には、饒速日の子とされる可美真手命(古事記では宇摩志麻遅命)が、
筑豊から瀬戸内海を[東遷]、大和国(奈良県)の哮峯に舞い降いおりたと記され、筑紫物部氏の東征という史実を語っている。
筑豊の物部氏と大和国とのつながりを示す例はまだある。
嘉麻市馬見の馬見神社周辺を本拠とした馬見物部氏。
「馬見」という地名は、全国でも嘉麻市と奈良県河合町の馬見丘陵公園や同県広陵町にしかない。
2世紀初めには、田川を都とした倭奴国が近畿以西に進出した痕跡ではないか。



もう一つの葦原水穂国

豊国の倭奴国が隆盛を誇る中、
南でも葦原水穂国が新興した。
火国(=肥国)山門。中心地は熊本県の菊池川流域にある[菊鹿盆地]だ。太古に大きな湖があった。

熊本県教委文化課の調査では、小野崎遺跡(菊池市)からは弥生式土器や後漢鏡、鉄鏃(鉄の矢じり)、鉄斧(鉄の斧)、鉄製の釣針2本などが出土。
縄文~古墳時代の出土物はコンテナ2千箱分に上る。
吉野ケ里遺跡に匹敵する大環濠集落のうてな遺跡(同)からは8~23年の[新]王朝の貨幣、
城ノ上遺跡(菊池市)からはジャポニカ種のもみ痕がある弥生土器が出土した。

これらのことから、菊鹿盆地と長江下流との関連性がうかがえる。
ジャポニカ種の米は、長江下流から広がったとの定説がある。
また、考古学者の奥野正男氏らの説では、弥生期の製鉄技術は長江下流から[北部九州]に波及したとされる。
山鹿市には特別天然記念物の[アイラトビカズラ]が生息しているが、市の解説には原産地が長江流域とある。

両地域の関わりを記した文献もある。
国立国会図書館などに所蔵される「松野連姫氏系図」だ。
冒頭には「夫差 ― 公子忌 ― 順」とある。
夫差は春秋時代に長江流域を治めた「呉」の最後の王だ。
中国の史書には紀元前473年、「越王句践、を滅ぼす」とある。
系図は公子忌について「孝昭天皇三(紀元前473)年来朝し火国山門に住す」、
順は「委奴に居す」と注を施している。

系図には断絶や脱落も多いが、日中の史書を分析、総合すると、
1世紀後半、菊鹿盆地に神代最後の王、彦波瀲武(ひこなぎさたけ)鸕鷀草葺不合(うがやふきあえず)が現れたと推定する。
日本書紀では、この王が神日本(かむやまと)磐余彦(いわれびこ)(後の神武天皇)らを生み、[日向]の吾平山上陵に葬られたと記す。
山鹿市に吾平山吾平山陵が実在する。

ところで、「呉越同舟」という故事成語がある。
呉を滅ぼしたは紀元前334年、[楚]に滅ぼされた。
この時、仲の悪い呉越の民が同じ船に乗り、東海の島に逃れたのではないか。
の民は菊池川流域に、の民は遠賀川流域に移住した。
あくまでも推量の域を出ない仮説だが、後の神武東征や魏志倭人伝に出現する邪馬台国の数々の謎を解く鍵にもなるのである。

(本文終)



川崎町にある[天降神社]の由緒書き。主祭神には神代最後の王「鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)」が祭られている。





新説 日本書紀「第6回(1/7) 神代紀終章 金印の王朝 倭奴国」(令和3年10月15日) 福永晋三

新説 日本書紀「第6回(2/7) 神代紀終章 金印の王朝 倭奴国」(令和3年10月15日) 福永晋三

新説 日本書紀「第6回(3/7) 神代紀終章 金印の王朝 倭奴国」(令和3年10月15日) 福永晋三

新説 日本書紀「第6回(4/7) 神代紀終章 金印の王朝 倭奴国」(令和3年10月15日) 福永晋三

新説 日本書紀「第6回(5/7) 神代紀終章 金印の王朝 倭奴国」(令和3年10月15日) 福永晋三

新説 日本書紀「第6回(6/7) 神代紀終章 金印の王朝 倭奴国」(令和3年10月15日) 福永晋三

新説 日本書紀「第6回(7/7) 神代紀終章 金印の王朝 倭奴国」(令和3年10月15日) 福永晋三





新説・日本書紀⑥ 神武東征① 神武、九州西部を治める 福永晋三

2024-08-04 06:39:36 | 旧日本史1 古代

新説・日本書紀⑥ 福永晋三と往く - 古代史マガジン【KODAiZiNE】 (scrapbox.io)

2018年(平成30年)3月31日 土曜日

神武東征① 神武、九州西部を治める

菊鹿盆地から福岡平野へ

神代最後の王、鸕鷀草葺不合(うがやふきあえず)尊の第4子として、神日本磐余彦(かむやまといわれひこ)天皇(後の神武天皇)が菊鹿盆地の南方、山都町の奥で生まれたとの説がある。
記紀ともに母は海童の少女玉依姫とする。
磐余彦は菊鹿盆地に育ち、15歳で太子になる。
日向国の[吾田邑]の吾平津媛を妃とし、手研耳(たぎしみみ)命を生む。

磐余彦の祖父、いわゆる山幸(彦火火出見(ひこほほでみ)尊)は、兄の海幸(火闌降命)と戦い勝利した。
私はこれを、菊鹿盆地の国と福岡平野の国との戦いで、磐余彦がその長きにわたる戦いにけりをつけたと考える。


※(管理人注) 日本書紀の神武天皇条に、神武天皇の「諱(実名)は彦火火出見(ひこほほでみ)という」とあり、山幸彦の本名の彦火火出見(ひこほほでみ)と同じ名である。同一人物ではないか。


古事記には、[神武東征]の初めに「日向より発たして、筑紫にいでます」の一節がある。
通説は宮崎から福岡に進発したとするが、
山鹿市の日向村から進発し、筑紫に北伐したと解釈している。



お佐嘉の大室屋の決戦

日本書紀を読み解くと、その北伐の途中に「お佐嘉の大室屋」で一大決戦があったことが記されている。
神武は「大室を[忍坂邑]に作り、酒席を設け、敵をだまして殺せ」と家来に命じる。
合図に歌われたのが次の歌だ。

「お佐嘉の 大室屋に 人多に 入り居りとも 人多に 来入り居りとも みつみつし 来目の子らが 頭椎い 石椎いもち 撃ちてし止まむ」(原文は万葉仮名)
(お佐嘉の大室屋に、人が多勢入っていようとも、人が多勢来て入っていようとも、勢いの強い来目の者たちが、頭椎・石椎でもって撃ち殺してしまおう。)

[佐賀]は古くはサカと読んだ。
通常、奈良県の[忍坂]をオサカとするが、弥生時代の「大室屋」は、佐賀県の吉野ケ里遺跡の他にないことは、復元の様子からも推測される。
吉野ケ里遺跡からは、出雲系の銅鐸が出土しており、神武以前の時代は、出雲王朝の一国だったと推定される。

ただ紀元前に、糸島半島に上陸した瓊々杵(ににぎ)尊の率いる五部造(筑紫物部軍団)に襲われ、一度滅んだと考える。遺跡東側の逆茂木遺構がそれを暗示する。
日本書紀の紀年によれば西暦83年、瓊々杵尊の一族が再建した「お佐嘉の大室屋」神武軍が攻略し、陥落させた。


※(古代に真実を求めて 第3集 平野雅廣 古田史学の会編 明石書店 2000.11月 P120)
 私は、最近「ヤマトタケル物語」が史実であり、その舞台が佐賀県にあったことを知ることが出来た。新史料を手に入れたのである。『佐賀県史蹟名勝天然記念物調査報告』上巻中の佐賀郡鍋島村大字蠣久(かきひさ)に在る「蠣久府址」の説明に、

「往昔此地は九州一方の都会、肥州の国府長岡ヶ庄蠣久と云ひ、戸数三千、富家巨商軒を連ねし所、此地元斥鹵(せきろ 塩分を多く含んで耕作の出来ない荒地)の地、蠣殻多かりし。日本武尊河上村に熊襲追討、日向の国より兵船に乗りて蠣久津に到着し、蠣殻の上を歩みて河上村に至り給へり。文徳天皇天安二年(858)勅許を以て、肥前国府市、芸州宮島市、筑州宰府市を開けりとぞ」・・・・・・
 後漢の永初三年(107)、委奴国が朝貢してから幾年経ったであろうか。国王は、脊振山脈を越えて南麓の佐賀平野へ進出した。山間に発する水脈が清冽な川上川となって南の平野を潤す地勢を、有望なりと見て取ったのであろう。かくして川上村を中心とする一帯は、委奴国の穀倉地として重要な都となり、河口に向け開けた蠣久の津は、南九州から大陸までも通ずる賑やかな港町として知られるようになったのであろう。この南方進出によって、当時の委奴国王取石鹿文(とろしかや)は、豊かな財力と強固な権力とを併せ持つ「川上梟師(たける)」と称されたのであった。
 だが人生夢幻、新宮殿も落成して目出度い祝宴の一夜、女装の童男、日本武尊の刃に倒れたのであった。
 「大乱」の火種は、ここに発火したのである。東方程近い神埼郡の「吉野ヶ里」は、この大乱に巻き込まれた遺跡の一つではなかろうか。

※(管理人注) ヤマトタケルという名前は、熊曾建クマソタケル 日本書紀では川上梟師(かわかみのたける)が名づけた名前であり、ヤマトタケルの本名は小碓命(おうすのみこと)です。名前を与える行為は、上の者が下の者に対して行う行為であり、下の者にとっては非常に名誉ある行為です。この名誉ある行為を、新築祝いの宴会の席での暗殺シーンとして『記紀』は描いています。この宴会の主催者は熊曾建(クマソタケル)であり、ヤマトタケル(小碓命)はその宴会に呼ばれた出席者にすぎません。(しかも女に扮して殺しています)。このことは、ヤマトタケルが地方の一支配者にすぎず、このときの本当の支配者は熊曾建(クマソタケル)であったことを意味しているのではないでしょうか。


神武軍の北伐は続き、博多湾岸までを領した。
糸島、福岡両市の境、高祖(たかす)山頂にあったとされる高祖神社には、彦火火出見尊と玉依姫などが祭られている。
九州の西を領有した神武は、戦国時代の織田信長のように「天下布武」を志した統一への野望が「高千穂(高祖山)の東征宣言」となる。

「昔我が天神、高皇産霊尊・大日孁尊、此の豊葦原瑞穂国を擧(ことあげ)して、我が天祖彦火瓊々杵(ににぎ)尊に授けき。是に、火瓊々杵(ににぎ)尊、天關闢き、雲路披(おしわ)け、仙蹕(みさきはらい)(お)ひて以ちて戻り止まり、此の西の偏(ほとり)を治す。
鹽土老翁(しおつちのおじ)曰く、『東に美し地有り。青き山四に周り、其の中に亦天磐船(あまのいわふね)に乗りて飛び降る者(=饒速日尊)有り』と。
余、謂ふに、彼の地は、六合(くに)の中心か。何ぞ就(ゆ)きて都なささらん」

※ 書記には、この2行後に「天磐船に乗りて飛び降る者」の名として実際に饒速日の名が出てくる


諸皇子たちが答える。
「理実(ことわり)灼然(いやちこ)なり。我も恒に以て念(おもい)としつ。早に行いたまえ」と。
ちなみに、「いやちこ」は、大分の麦焼酎「いいちこ」と同じ豊前方言で、「いいことだ。もっともだ」の意である。

日本書紀ではこの年を114年、神武45歳の時としている。
こうして神武は、天神饒速日尊の末裔が治める筑豊への東征を開始した。

(記紀万葉研究家)






新説 日本書紀「第7回(1/7) 神武東征① 東征謀議」(令和3年11月5日)(通説の神武東征) 福永晋三

新説 日本書紀「第7回(2/7) 神武東征① 東征謀議」(令和3年11月5日)(通説の神武東征) 福永晋三

新説 日本書紀「第7回(3/7) 神武東征① 東征謀議」(令和3年11月5日)(第一次神武東征前) 福永晋三

新説 日本書紀「第7回(4/7) 神武東征① 東征謀議」(令和3年11月5日)(第一次神武東征前) 福永晋三

新説 日本書紀「第7回(5/7) 神武東征① 東征謀議」(令和3年11月5日)(質疑応答編) 福永晋三

新説 日本書紀「第7回(6/7) 神武東征① 東征謀議」(令和3年11月5日)(質疑応答編) 福永晋三

新説 日本書紀「第7回(7/7) 神武東征① 東征謀議」(令和3年11月5日)(質疑応答編) 福永晋三


新説・日本書紀⑦ 神武東征② 第1次筑豊侵攻は大敗 福永晋三

2024-08-04 06:38:58 | 旧日本史1 古代

新説・日本書紀⑦ 福永晋三と往く - 古代史マガジン【KODAiZiNE】 (scrapbox.io)

2018年(平成30年)4月14日 土曜日

神武東征② 第1次筑豊侵攻は大敗


糸島から古遠賀湾へ

日本書紀の神武紀には、神武天皇が[第1次東征]に大敗した記述がある。
神武紀にある各記事の時系列を整理した上で、記された地名を福岡県内で探し当ててみた。

[114年]10月、神武自ら諸皇子と船団を率いて東(筑豊)を討つ。
11月、筑紫国(豊国を指す)の岡水門(おかのみなと)(芦屋町の岡湊神社)に至る。
翌年3月、軍備を整え(古遠賀湾の)流れをさかのぼり中州(なかつくに)(鞍手町中山付近。剣岳が島だった頃か)に侵入しようとする。

※ 鞍手町中山 → 飯塚市立岩遺跡に変更

その時、長髄彦が兵を起こして孔舎衛(くさえ)坂(未詳)で防戦。
神武の兄五瀬命のひじに流れ矢が当たった。軍は進軍できない。

神武は憂慮し、自らの決意を兵士に述べた。
「私は日神の子孫でありながら日に向かって敵を討つのは天道に逆らうことだ。一度退却して神祇を祭り、次は背に日神の威光を負い、影に従って敵を討とう」と。
全軍が「そのとおりだ」と答え撤退、筑紫に戻った。

草香の津(福岡市中央区の大濠公園辺り)に至り、盾を立てて雄叫びをあげた。そこを盾津と名付けた。
時に五瀬命の矢傷の痛みがひどくなった。
進んで紀国の竈山(かまどやま)(太宰府市の宝満山。竈門(かまど)神社があり神武の母玉依姫が祭られる)に至り、五瀬命が病死したため竈山に葬った。
神武は古遠賀湾での戦に敗れ、博多湾岸に敗走し、大宰府の宝満山に入ったことが自然に分かる。

なお、糸島から岡水門に至る経由地は、神武東征伝承が残る熊野神社(古賀市莚内)、神武神社(福津市津丸)、八所宮(宗像市吉留)などが考えられる。
福岡県神社誌によると、各伝承の大意はこうだ。

[熊野神社] 神武天皇が東征の際、船を海浜につなぎこの山に登られ、腰かけた石を御腰石という。

[神武神社] 神武天皇が東征をしようと[日向国]より官軍を率いて[岡の湊]に向かった際、乗り物を仮止めした跡に社を建立。天照大神から6代目のため六の権現として祭り、明治になって神武神社と改称した。

[八所宮] 神武天皇が東征する際、遠賀郡の岡の湊にしばらくとどまり、当郡の蔦(つた)岳に向かうと、当社の神が[赤馬]に乗り形を現し、人民を指揮して皇軍に従わせ、永く当地の守護神になろうと誓った。そこから赤馬の庄と名付けられた。


竈山で再軍備に3年

日本書紀には、岡水門に至った後、神武が直ちに安芸国(広島県)、吉備国(岡山県)、浪速国(大阪府)へと瀬戸内海を東進する記述がある。
従来の解釈では、浪速国で大敗後、すぐに[熊野]に再上陸して敵の大軍を少人数で討ち果たすとしている。
ただ、それでは矛盾が多い

吉備の高嶋宮の条には次のような一文がある。
3年経る間に船をそろえ、兵糧を蓄えてもう一度挙兵し、天下を平定しようと思う」
瀬戸内海東進を書紀の改ざんとみなせば、神武が大宰府の竈山で3年間再軍備に励んだ姿が見えてくる。

竈門(かまど)神社の由緒にこうある。
祭神の玉依姫命は海神の御女で、鵜葺草葺不合命の后神武天皇の母君である。
神武天皇は皇都を(筑豊の)中州(なかつくに)に定めようと東征にお就きになり、天皇は諸皇子とこの山に登りなさって、自ら御胸鏡を榊の枝に取り掛け、厳(いつ)の太玉串を刺し立て建国の大偉業を告げて(玉依姫命の)御加護をお祈りなさった」
この由緒からも、神武が鞍手町中山にあった筑豊の都を制圧するため、太宰府市で軍備を再編し、第2次東征の出発地としたと直観したのだ。

※ 鞍手町中山 → 飯塚市立岩遺跡に変更

[118年]、大軍勢を整えた神武は筑豊への第2次東征を開始する。

(記紀万葉研究家)






新説 日本書紀「第8回(1/7) 神武東征② 射手引神社社伝」(令和3年11月19日)(第一次神武東征) 福永晋三

新説 日本書紀「第8回(2/7) 神武東征② 射手引神社社伝」(令和3年11月19日)(第一次神武東征は失敗) 福永晋三

新説 日本書紀「第8回(3/7) 神武東征② 射手引神社社伝」(令和3年11月19日)(鞍手郡誌の神武東征) 福永晋三

新説 日本書紀「第8回(4/7) 神武東征② 射手引神社社伝」(令和3年11月19日)(鞍手郡誌の神武東征) 福永晋三

新説 日本書紀「第8回(5/7) 神武東征② 射手引神社社伝」(令和3年11月19日)(鞍手郡誌の神武東征、質疑応答) 福永晋三

新説 日本書紀「第8回(6/7) 神武東征② 射手引神社社伝」(令和3年11月19日)(質疑応答) 福永晋三

新説 日本書紀「第8回(7/7) 神武東征② 射手引神社社伝」(令和3年11月19日)(質疑応答) 福永晋三


新説・日本書紀⑧ 神武東征③ 筑豊で激戦、倭奴国滅ぼす 福永晋三

2024-08-04 06:37:22 | 旧日本史1 古代

新説・日本書紀⑧ 福永晋三と往く - 古代史マガジン【KODAiZiNE】 (scrapbox.io)

2018年(平成30年)4月28日 土曜日

神武東征③ 筑豊で激戦、倭奴国滅ぼす

宇佐から田川を攻略

日本書紀の記述と嘉麻市上山田の射手引神社社伝などの現地伝承を擦り合わせて[第2次東征]を解いた。

118年2月、神武は大船団を組んで東に進む。
速吸之門(はやすいのと)(関門海峡の西端)に至り、

※関門海峡の西端 → 豊予海峡に変更

珍彦(うずひこ)を海の道案内とし、豊国の菟狭(うさ)(宇佐)に至る。
菟狭津彦(うさつひこ)・菟狭津媛(うさつひめ)が菟狭(うさ)の川上に一柱騰宮(あしひとつあがりのみや)(宇佐市安心院(あじむ)町の妻垣神社)を造り、神武を供応する。

こうして、[1次東征]に大敗した神武は、宇佐へ大きく迂回し、
中洲(なかつくに)の[皇都]を「日を背にして影に従って討つ」2次東征に着手した。

数カ月、狭野嶽(さのだけ)(豊前市求菩提山 くぼてさん)に通い、「頭=英彦山大天狗[豊前坊]」および「八咫烏(やたがらす)=求菩提山八天狗」一族と同盟を結ぶ(求菩提山縁起)。
また、「吉野(大分県中津市山国町)の国樔(くず)(大分県玖珠、九重町)部らを巡回し安心させた」。

同年6月、「天皇独り、皇子手研耳命(たぎしみみのみこと)と軍を帥(ひき)いて進む。既にして皇師(みいくさ)中洲(なかつくに)に赴かんと欲す」。
八咫烏一族の案内で英彦山から帝王山(川崎町と嘉麻市の境にある摺鉢(すりばち))に至る。
東麓の川崎町木城の「大王」に降り、「菟田(うだ)の穿邑(うかちのむら)(川崎町天降(あまふり)神社辺り)」に入る。

8月には、「天皇、兄猾(えうかし)および弟猾(おとうかし)を徴(め)さしむ」。
菟田の県(あがた)の長だった2人のうち弟猾は参上したが、兄猾は来ず、神武を新たな宮に圧殺するしかけを造って待ち構えた。
これを察知した神武は、逆に兄猾をそのわなに追い込み、兄猾を圧死させた。
勝利の宴で「菟田(うだ)の 高城(たかき)に 鴫羂(しぎわな)張る」で始まる来目(くめ)歌が歌われた。「高城」という言葉から、その場所は、現在の川崎町にある田原遺跡を臨む台地ではないか。

神武は「9月、菟田の高倉山(田川、飯塚両市の境にある金国山(かなくにやま)。東西山麓に「高倉」の地名がある)の頂に登り、
国見丘(倭奴国の要衝、赤村の岩石(がんじゃくざん)。天忍穂耳(あめのおしほみみの)尊に由来する国見石がある)の上に、赤銅(あかがね)の八十梟帥(やそたける)の軍勢を見る」。
ここで天香山(香春岳)攻略の作戦を練り、
「10月に赤銅の八十梟師を国見丘に破り」、天香山を奪取した。

※ のち訂正 「天香山を奪取」は、まだ

神武は英彦山を降り、まず倭奴国の鷹羽(田川)を勢力下に収めたことが分かる。

※ のち訂正 上記もまだ



嘉穂、鞍手の決戦制す

帝王山に戻った神武は、西の馬見神社(嘉麻市足白)に入り、天神降臨の際に従った馬見物部の子孫、駒主命から足白の馬を献上された。
神武は彼を案内役とした。
11月には「皇師(みいくさ)大きに挙りて、磯城彦を攻めむとす」とあり、いよいよ倭奴国の主力軍との決戦を迎える。

神武は八咫烏(やたがらす)を派遣して、兄磯城を召すが彼は承知せず、弟磯城は帰順する。


※(古代に真実を求めて 第22集 倭国古伝 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2019.3月 P163)
 (古事記の神武東征には)「鵜養(うかい)」の「久米歌」もあります。・・・・・・(管理人注 そこに「伊那佐山」がでてきます)

奈良大和では「伊那佐山」はどこか不詳ですが、佐賀県有明海に面した杵島山地に「稲佐(有明町稲佐)・稲佐山」があります。奈良の吉野の山中で「島つ鳥鵜養が伴」に助けを求めるのは不自然ですが、糸島半島北端はウミウの捕獲地であり、怡土平野を平定して後の時代に、佐賀平定に進んだ時の歌なら自然なのです。
(管理人注) 佐賀の稲佐山には、百済の聖明王を祭る稲佐神社があります。


兄磯城との決戦となり、神武軍は烏尾(からすお)を越え、鹿毛馬(かげま)(飯塚市)を経て、
当時「沼田」と呼ばれた遠賀湾の湿地帯「鯰田」(同市鯰田)を迂回し南下。
勝負坂(同市の旌忠(せいちゅう)公園内)で兄磯城軍と交戦し撃破。
勢いに乗じて「熊野の神邑(同市熊野神社)」に進撃し、兄磯城らを討った。

神武は「天の磐盾(いわたて)(立岩神社)に登り」、天祖に東征成就の祈願をしたと伝わる。
境内には現在、天神降臨のモニュメントと考えられる「天の磐船」の船体が二つに折れた形で残っている。神武が制圧後に破壊した跡ではないか。
1964年に発掘された遺跡からは前漢式鏡・鉄戈・鉄剣・絹などが出土している。

12月には「皇師(みいくさ)遂に長髄彦(ながすねびこ)を撃つ」とある。
神武は再び遠賀湾の浅瀬を徒歩で渡り、飯塚市片島に上陸。
同市幸袋の撃皷(げきこ)神社で軍を整え、
鳥見野(直方市頓野(とんの))に進み、
倭奴国最後の王、長髄彦の軍を討ち、滅亡へと追い込んだ。


※(ニギハヤヒ 戸矢学 河出書房新社 2016.2月 P110)
 ニギハヤヒは降臨に際して、子の天香山命を同道していた。32供奉衆の第一に連なっている。

大王(おおきみ)ニギハヤヒが死ぬならば,アメノカグヤマがただちに後継として立つのが当然である。しかも異母弟のウマシマジは、父の死後に生まれた乳児にすぎない。
長髄彦(ナガスネビコ)は、妹をニギハヤヒと娶(めあわ)せ、子を産ませることで天神の王位を奪おうとしたのではないか。
生まれた子の名「ウマシマジ」とは「産ましまじ」であって、子が生まれる前にニギハヤヒが死んだことは、さらに疑念を抱かせる。
ウマシマジは乳児であるが、伯父、長髄彦が後見人となることで、大王位の継承者として立てられたのではないだろうか。天香山は、長髄彦の力の前に屈することになる。一度は天神に帰順した長髄彦が、みずからの妹に生ませた乳飲み子を立てて大王位を簒奪したのではないか。しかも、ニギハヤヒの死後に生まれた子によって。・・・・・
「父の死後に生れた子」という経緯に、胡散臭さを感じるのは多くの人に共通するものだろう。長髄彦による大王位(天皇位)の簒奪と、そのための偽装・カムフラージュは成功した。
しかしそれから時を経て神武が東征してきた際に、長髄彦はみずからが立てた子に殺されることになる。
ウマシマジが本当にニギハヤヒの子であったかどうか、きわめて疑わしいとすでに述べたが、少なくとも長髄彦の甥であることは間違いないだろう。みずからの手を汚してまで立てた血族の子に裏切られるという悲劇は、あたかもニギハヤヒの呪いのようだ。

※(オオクニヌシ 戸矢学 河出書房新社 2017.8月 P55)
 ニギハヤヒ裏切りのくだりは、「国譲り」の比喩であろうかと思われる。



日本書紀や現地伝承に現れる地名と、筑豊地域の地名や位置関係が、あまりに符号することに改めて驚かされる。
神武即位の約2年前、筑豊地域はまぎれもなく東征の主戦場だったと考えるのが自然ではないか。

(記紀万葉研究家)





新説 日本書紀「第9回(1/7) 神武東征③ 第二次東征①」(令和3年12月3日)(王城神社、テキスト⑧、美々津出港) 福永晋三

新説 日本書紀「第9回(2/7) 神武東征③ 第二次東征①」(令和3年12月3日)(菟狹への大迂回、菟狹から彦山・求菩提山へ) 福永晋三

新説 日本書紀「第9回(3/7) 神武東征③ 第二次東征①」(令和3年12月3日)(菟狹から彦山・求菩提山へ、菟田縣の血戦) 福永晋三

新説 日本書紀「第9回(4/7) 神武東征③ 第二次東征①」(令和3年12月3日)(菟田縣の血戦、菟田川の朝原の顕齋い) 福永晋三

新説 日本書紀「第9回(5/7) 神武東征③ 第二次東征①」(令和3年12月3日)(菟田川の朝原の顕齋い、質疑応答) 福永晋三

新説 日本書紀「第9回(6/7) 神武東征③ 第二次東征①」(令和3年12月3日)(質疑応答) 福永晋三

新説 日本書紀「第9回(7/7) 神武東征③ 第二次東征①」(令和3年12月3日)(質疑応答) 福永晋三



新説・日本書紀⑨ 神武東征④ 香春で即位、倭王朝成る 福永晋三

2024-08-04 06:36:33 | 旧日本史1 古代

新説・日本書紀⑨ 福永晋三と往く - 古代史マガジン【KODAiZiNE】 (scrapbox.io)

2018年(平成30年)5月12日 土曜日

神武東征④ 香春で即位、倭王朝成る

筑豊を平定、筑紫に凱旋

中国の正史に神武東征の記録はない。
ただ、「後漢書」東夷伝に次の一文がある。
「永初に逮り多難となり、始めて寇鈔に入る」。
永初元年に当たる107年は、「倭国王が安帝に生口160人を献上した」年。
その永初年間から多難となり、初めて「各地の反乱に対し攻撃」しなければならなくなったとの意味だ。
神武東征は、この安帝の在位期間(107~125)後半に起きた倭国内の反乱ではないか。

[119年]2月、「諸将に命じ士卒を選ぶ」。
倭奴国を滅ぼした神武は各地の残党を掃討する。
「層富県の波哆丘岬に、新城戸畔という者有り」。
添田町の畑・下の畑・畑川の先に[新城]という地名があり、近くの台地に[金ノ原弥生遺跡]が残る。
神武は「偏師(一部の軍)を派遣し、この土蜘蛛を滅ぼした」。
和珥の坂本の居勢の祝、
臍見の長柄丘岬の猪祝、
高尾張邑の各地の土蜘蛛も同様に誅殺しているが、場所は不詳だ。

同年3月、神武は「東征を始めてから6年、ようやく[中洲]の地が平和になった。あの畝傍山(=香春一ノ岳)の東南の地は、思うに国の中心か。皇都を開くべきだ」と言い、役人に命じて宮殿を造り始めた。

この後、[射手引神社社伝]によれば、神武は陸路で筑紫に凱旋する。
笠置山(宮若、飯塚両市の境)で天祖を祭り、
飯塚市伊岐須に降り、同市の潤野を経て、同市高田の高祖神社に入る。
ここで、筑紫から田中熊別が来て神武を迎えたとある。
さらに大分八幡(飯塚市大分)、同市山口(「皇軍戦勝休養の地」がある)を過ぎ、
米ノ山峠から宝満山(太宰府市の竈門山)に凱旋した。
神武は「登山して御母君(玉依姫)の霊位を祭った」とある。

次に、田中庄(大野城市王城山辺り。田中熊別を祭る王城神社があった)に入り、荒木武彦に迎えられ、
蚊田の里(宇美町の宇美八幡神社)に行く。
宇美八幡神社には「荒木の女志津姫が蚊田皇子を生み奉った地」との伝承が残る。
ここから篠栗町の若杉山を経て香春に戻ったようだ。


「おほきんさん」に眠る

[120年]8月、「天皇、正妃を立てむとす」。
9月に「媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)命を召し入れ正妃とする」。


※(「魏志倭人伝を解く」序章 福永晋三 同時代社 2021.9月 P392)
 120年 「ここに姫女あり。これを神の御子と謂う。その神の御子と謂う所以は、三島みぞ昨の女、名は勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)、その容姿麗美しかりき。故、美和の大物主神、見感でて、その美人の大便まる時、丹塗矢に化りて、その大便まる溝より流れ下りて、その美人のほとを突きき。ここにその美人驚きて、立ち走りいすすきき。すなわちその矢を将ち来て、床の辺に置けば、忽ちに麗しき壮夫に成りぬ。すなわちその美人を娶して生みし子、名は富登多多良伊須須阜比売命(ほとたたらいすすきひめのみこと)と謂ひ、亦の名は比売多多良伊須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ)と謂う。こはそのほとという事を悪みて、後に名前を改めつるぞ。故、ここを以ちて神の御子と謂うなり」とまをしき。(古事記)

ホトタタラとは「火処」と「たたら」を意味し、大物主の末裔は弥生時代の製鉄を担った一族ではなかったか。遠賀川流域には弥生時代の鉄刀と鉄鏃が確かに出土している。
121年、・・・
神武天皇は、大物主一族と八咫烏一族と同盟し、道案内を頼み倭奴国滅ぼした。直後に、美和の大物主神の子孫比売多多良伊須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ)正妃に迎えている。
邪馬台国(神武朝)は鷹羽の神を篤く尊崇している。この王朝下に、大物主神は、三輪山(香春岳)にも祭られた(川崎町大三輪神社社伝より推測)と思われる。鷹羽の神々は盛んに信仰されたようだ。
ずっと後の継体朝に
「③その後、豊前国の許斐山(このみやま)に移られました。
 ④この年は金光7年丙申年(576年)、敏達天皇御代のことでありました」
との大物主神の移座が行われたようである。
奈良県の大神(おおみわ)神社は9世紀の移座と思われる。

※ 媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)比売多多良伊須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ)
  前者は日本書紀、後者は古事記の表記です。



[121年]正月、「天皇、橿原宮に即帝位す。是歳を天皇の元年とす。
正妃を尊びて皇后となさる。
皇子神八井命・神渟名川耳尊をお生みになる」。

神武即位の月日を太陽暦に直すと2月11日。建国記念の日だ。
橿原宮が畝尾山(香春一ノ岳)東南なら、香春町高野の鶴岡八幡神社が有力候補地となる。
日本書紀では畝傍の橿原に即位した神武を「始めて天の下を馭しめしし(お治めになった)天皇を、号けて神日本磐余彦火火出見天皇と申し上げた」と記している。

[122年]2月、「天皇は手柄を定め袋美を下賜された」。
大来目を畝傍山西部の川辺(田川市夏吉辺り)に居住させ、珍彦を倭の国造とした。
弟猾には猛田邑(川崎町)を与え、
弟磯城を磯城県(飯塚市立岩)主とした。
頭八咫烏も賞の例に入る」とあり、添田町・赤村(飛ぶ鳥の明日香)を下賜されたのだろう。
[124年]2月、「霊畤を鳥見山(福智山、鳥野神社の前身か)の中に立て天神を祭る」。
倭奴国の王族の霊を鎮魂したようだ。
[136年]、神武崩御。享年67。
137年に「畝傍山東北陵」(香春町の「おほきんさん」)に葬られた。

日本書紀や現地の伝承を読み解き、筑豊での実地調査を重ねて導き出した神武天皇の香春即位と田川での倭王朝成立。

※(管理人注) 倭王朝=邪馬台国、となる。邪馬台国の成立である。所在地は、英彦山(日子山)を源流とする遠賀川の流域、豊国である。

定説からはほど遠い仮説だが、
筑豊各地にちらばる多くの情報の点は、それぞれ必然性のある線としてつながり、隠された真の歴史の姿を編み出したのだ。

(本文終)





新説 日本書紀「第10回(1/8) 神武東征④ 第二次東征②」(令和3年12月17日)(射手引神社社伝等+日本書紀) 福永晋三

新説 日本書紀「第10回(2/8) 神武東征④ 第二次東征②」(令和3年12月17日)(射手引神社社伝等+日本書紀) 福永晋三

新説 日本書紀「第10回(3/8) 神武東征④ 第二次東征②」(令和3年12月17日)(射手引神社社伝等+日本書紀) 福永晋三

新説 日本書紀「第10回(4/8) 神武東征④ 第二次東征②」(令和3年12月17日)(射手引神社社伝等+日本書紀) 福永晋三

新説 日本書紀「第10回(5/8) 神武東征④ 第二次東征②」(令和3年12月17日)(射手引神社社伝等+日本書紀) 福永晋三

新説 日本書紀「第10回(6/8) 神武東征④ 第二次東征②」(令和3年12月17日)(射手引神社社伝等+日本書紀) 福永晋三

新説 日本書紀「第10回(7/8) 神武東征④ 第二次東征②」(令和3年12月17日)(射手引神社社伝等+日本書紀) 福永晋三

新説 日本書紀「第10回(8/8) 神武東征④ 第二次東征②」(令和3年12月17日)(射手引神社社伝等+日本書紀) 福永晋三





新説・日本書紀⑩ 欠史八代 「倭国大乱」40年余君主なし 福永晋三

2024-08-04 06:35:47 | 旧日本史1 古代

新説・日本書紀⑩ 福永晋三と往く - 古代史マガジン【KODAiZiNE】 (scrapbox.io)

2018年(平成30年)5月26日 土曜日


欠史八代 「倭国大乱」40年余君主なし

相次ぐ皇位継承争い

初代の[神武天皇]に続く2代綏靖天皇~9代開化天皇は「欠史八代」と言われる。
古事記と日本書紀の記述に[帝紀](系譜)はあるが、[旧辞](事績)はない。
この時代は[後漢書]で言う「倭国大乱」、桓帝と霊帝の時代(146~189)に「倭国大いに乱れ、更相攻伐し、歴年主無し」と記された時期と重なる。

一方、欠史八代にはすべての即位前紀が書かれており、皇位継承争いが相次いだことを暗示している。
中でも、2代神渟名川耳尊(綏靖天皇)の即位前紀は過激だ。

[136年]3月、「神日本磐余彦天皇崩ず。時に神渟名川耳(かむぬなかわみみ)尊、特に心を喪葬の事に留む。其の庶兄手研耳(たぎしみみ)命、行年已に長けて、久しく朝機を歴たり」。
同4月、神武と東征を共にした手研耳命が2代大王に即位し、倭国を巡行した。
その際、「腋上(わきがみ)の嗛間丘(ふくまのおか)(福智山か)」に登り、国を望み
「ああ、良い国を得たものだ。内木綿(うちゆう)の狭い国だが、蜻蛉(あきつ)の臀呫(となめ)(トンボの交尾)のような形の山々に囲まれた国だ」と言った。
これが、「豊秋津島倭(とよあきつしまやまと)」という国の名前の始まりと日本書紀は記す。

[137年]、神武を「畝傍東北陵」に葬ったが、その2年後に事変が勃発する。

手研耳命は「二の弟を害せむことを図る」。
記紀ともに「手研耳命の乱」とする一節だ。
古事記では、神渟名川耳尊の母で手研耳命の妃だった伊須気余理比売(いすけよりひめ)が歌を詠み、神渟名川耳尊に危険を知らせたとある。
犀川よ 雲立ちわたり 畝尾山 木の葉さやぎぬ 風吹かむとす」

[犀川]は赤村から旧犀川町に流れる今川を指す。
赤村には今川の流路が直角に曲がった地点があるが、神武崩御のころは畝尾山(香春一ノ岳)に北流していたと指摘する地理学の専門家もいる。

神渟名川耳尊らは先手を取り、手研耳命を殺す。
「冬十一月、神八井耳命は手足が震えて矢を放つことができない。その時、神渟名川耳尊がその兄の持つ弓矢を取り、手研耳命を射る。1の矢が胸にあたり、2の矢が背にあたり、ついに殺した」。
3年間大王の位にあった手研耳命暗殺の記録だ。

※(管理人注) 手研耳命の乱は、腹違いの弟による天皇暗殺事件である。しかもその弟の母の伊須気余理比売(いすけよりひめ)は、神武天皇の妻であり、それを譲り受けた手研耳命の妻でもあった。さらに大物主の娘でもあった。
伊須気余理比売(いすけよりひめ)は、書紀では姫蹈鞴五十鈴姫(ひめたたらいすずひめ)のことである。この伊須気余理比売は、大便中に、矢に化けた大物主により女陰を突かれた勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)の娘であって(古事記)、つまり父は大物主ということである。それは物部氏の娘ということであって、ここで物部氏の力が復活する。
大物主について、記紀では直接語られることはないが、こうやってその子孫の系譜の中で、とつぜん顔を出すことがある。いくら隠そうとしても、ひょっこり顔を出さざるをえない神である。隠そうとしても隠し切れないもの、無理にそれを隠そうとするとどこかに矛盾が生じる。何かの間違いだろう、では済まないのである。それを何かの間違いで済ましたら、何も分からないのが古事記と日本書紀の世界です。




香春や田川に眠る天皇

2代綏靖天皇は[140年]に即位した。「葛城に都をつくり高丘宮(北九州市八幡西区上香月杉守神社)という」。
[143年]、クーデターにかかわった神八井耳命は死後、「畝傍山の北(香春町宮原の前方後円墳か)に葬られた」。
綏靖天皇の没年は定かでないが、「倭の桃花鳥田丘上陵に葬る」とある。香春岳一ノ岳の南西約5㌔に田川市(ほしい)天神山1~4号墳がある。この付近は「月の輪」とも呼ばれており、陵はこの中の1基と考えられる。

欠史八代の天皇には、奇妙な共通項がある。いずれも皇后が3人いるのだ。本文に1人、割注の一書に2人が登場する。
最も記述が多いのが「磯城(しき)県主の女」だ。磯城県は現在の飯塚市立岩周辺にあたる。
次が「十市県主の女」。十市県は旧若宮町[都地]だ。

2人はともに前王権の倭奴国に仕えた物部氏の一族。
[倭国の乱]は、神武朝の外戚(母方の親族)同士の主権争いの様相を帯びていた。

八代の宮や陵の所在が推定できるものを列記する。

3代[安寧天皇]=畝傍山南[御陰井上陵](香春町)

4代[懿徳天皇]=畝傍山南[繊沙谿上陵](同)

7代[孝霊天皇]=黒田の[廬戸宮](みやこ町黒田神社)

9代[開化天]皇=春日の[率川宮](田川市春日神社)

八代の天皇たちも、田川とその周辺に都を置き、近くの陵に眠っていると思われる。







新説 日本書紀「第11回(1/8) 欠史八代 倭国大乱」(令和4年1月7日)(第10回の復習編) 福永晋三

新説 日本書紀「第11回(2/8) 欠史八代 倭国大乱」(令和4年1月7日)(第10回の復習編) 福永晋三

新説 日本書紀「第11回(3/8) 欠史八代 倭国大乱」(令和4年1月7日)(第10回の復習編) 福永晋三

新説 日本書紀「第11回(4/8) 欠史八代 倭国大乱」(令和4年1月7日)(第10回の復習編、綏靖天皇) 福永晋三

新説 日本書紀「第11回(5/8) 欠史八代 倭国大乱」(令和4年1月7日)(テキスト⑩、東洋年表、日本書紀歴日原典) 福永晋三

新説 日本書紀「第11回(6/8) 欠史八代 倭国大乱」(令和4年1月7日)(暦法・方位、干支) 福永晋三

新説 日本書紀「第11回(7/8) 欠史八代 倭国大乱」(令和4年1月7日)(暦法・方位②) 福永晋三

新説 日本書紀「第11回(8/8) 欠史八代 倭国大乱」(令和4年1月7日)(質疑応答) 福永晋三






新説・日本書紀⑪ 崇神天皇 日本書紀に卑弥呼現る 福永晋三

2024-08-04 06:34:14 | 旧日本史1 古代

新説・日本書紀⑪ 福永晋三と往く - 古代史マガジン【KODAiZiNE】 (scrapbox.io)

2018年(平成30年)6月9日 土曜日

崇神天皇 日本書紀に卑弥呼現る

倭国の乱と疫病鎮まる

10代崇神天皇紀もまた、過激な巻だ。
そこには、疫病と反乱についてしか記されていない。

※(管理人注)
【10代崇神天皇の主な事績】 
・崇神天皇は「御間城(みまき)入彦(いりびこ)五十瓊(いにえの)天皇(すめらみこと)」といい、「みまき」とは「任那(みまな)」のことである。そのことは、次代の「垂仁紀」に記されている。
任那から来た天皇」という意味になる。
・疫病の祟りを恐れ、大物主神を祀る(書紀)
四道将軍(四人の将軍)を各地に派遣する(書紀)
・崇神天皇の姑(おば)倭迹迹日百襲姫(やまとととびももそひめ)命が大物主神の妻になり、死後、箸墓に葬られる(書紀)
・任那から蘇那曷叱智(ソナカシチ)が朝貢する(書紀)

崇神天皇の即位年を倭国大乱中の[174年]とすると、
崇神天皇3年(176年)に「都を磯城に遷す。瑞籬宮(飯塚市片島の若八幡神社か)という」。
同5年(178年)には「国内に疫病が多く、民の大半が死亡」し、同6年(179年)には「人民が流浪し、ある者は反乱した」。
天皇は天照大神と倭大国魂(=大物主神)の二神を宮殿内に祭り、神祇に罪を請うたとある。

同7年(180年)、天皇は八十万の神に尋ねると、大物主神が神明倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)命に「我を祭れば国は治まるだろう」と告げた。ただ霊験はなく、
同8年(181年)には、天下に大物主神の子の大田田根子を捜すよう求め、茅渟県の陶邑(宗像市須恵)に捜し当てて大物主神を祭らせた。
すると疫病は終息、国内が次第に静まり、五穀は実り、人民がにぎわった。

※ 朝鮮の歴史書である「三国史記」の「新羅本紀」には次のような記述がある。
173年、倭の女王卑弥呼新羅に使いを遣わして、修好した」

※(古代倭王の正体 小林恵子 祥伝社 P84)
 卑弥呼を含めた巫術者許氏一族は・・・・・・呉の支配する江南を一度出て南インド洋から東シナ海に入り、北上して奄美大島から北九州に亡命したと推定する。・・・・・・私は卑弥呼一族を受け入れたのは北九州で、大国だった奴国ではなく、卑弥呼の墓に比定されている平原遺跡のある伊都国だったと思う。


再び祭った神前で詠まれた歌がある。

「この神酒は わが神酒ならず 倭成す 大物主の 醸みし神酒 幾久 幾久」。

歌中の「倭を造った大物主」は素戔嗚尊の子だ。
書紀の一節には「大国主神、またの名は大物主神、または国造りの大己貴命と号す」とある。
大物主物部氏の真の祖先神とすれば、倭国の乱は、物部氏の祖先神を卑弥呼(=百襲姫)が祭ったことで終息したと考えられる。


※(ニギハヤヒ 戸矢学 河出書房新社 2016.2月 P139)
 三輪山の神こそは長髄彦である。崇神王朝に祟りを為した「神宝」こそは、長髄彦の御霊代である天叢雲剣である。


※(ニギハヤヒ 戸矢学 河出書房新社 2016.2月 P139)
 三輪山の神の名をオオモノヌシとするのは、尊称であろう。名前ではなく長髄彦の尊称だ。「偉大なる物部の主」という一種の代名詞である。それゆえに、本来は三輪山でしか用いられない呼び名であった。そしてウマシマジは神武に統治権を禅譲した。


※(オオクニヌシ 戸矢学 河出書房新社 2017.8月 P55)
 ニギハヤヒ裏切りのくだりは、「国譲り」の比喩であろうかと思われる。

※(ニギハヤヒ 戸矢学 河出書房新社 2016.2月 P140)
 オオナムヂを鎮魂するために杵築大社(出雲大社)を建立したように、長髄彦を鎮魂するために伊勢神宮を建立した。


(ニギハヤヒ 戸矢学 河出書房新社 2016.2月 P140)
 神武軍がヤマトに入る際に、各地で激戦があり、族長を殺害している。この時代、族長の多くは同時に宗教的権威でもあって、すなわちその一族の神である。・・・これらの神々を殺すことで、神武軍は征服を成し遂げていく。「神殺し」こそは、征服の証なのだ。・・・政治的には殺害する必要はなく、新たな神に代えれば、帰順したこととなるのだ。新たな神とは、アマテラスである。


同10年(183年)、武埴安彦と妻[吾田媛]が反逆の軍を興し、夫は山背、妻は大坂から都に侵入しようとする。
天皇は家来を派遣し、吾田媛の軍を大坂で破り、吾田媛とその兵を討った。山背にも軍勢を向けて[埴安彦]を射殺し、半数以上の兵を斬首。
同11年(184年)にようやく国内が安定したことが記されている。

この期間は、中国の史書の一つ「梁書」にある「霊帝の光和(178~184)中、倭国乱れ、相攻伐すること歴年」の時期と符合する。
古事記によると、崇神天皇は[198年]に没した。


箸墓伝説と卑弥呼の冢

崇神天皇紀には、大物主神と婚姻した[百襲姫命]の死を記した「箸墓伝説」がある。

大物主神の妻となった百襲姫命は、夜にだけ来る神に「朝に神の麗しい姿を見たい」と言った。
神は翌朝、「姫の櫛箱に入って居よう。私の姿に驚いてはならない」と答えた。
姫は翌朝、櫛箱にいた麗しい小さなを見て驚き叫んだ。
人の姿になった神は「お前は私に恥をかかせた。私はお前に恥をかかせてやる」と空に上り、三輪山(香春岳)に帰った。
仰ぎ見て後悔した姫がドスンと座ると、箸で陰部を突いて死んだ。
時の人はその墓を「箸墓」といった。


※(「魏志倭人伝を解く」序章 福永晋三 同時代社 2021.9月 P396)
 邪馬台国の女王卑弥呼は本を大物主を、つまり鷹羽の神々を祭った巫女王だった。狗奴国(くぬこく)卑弥弓呼(ひみくこ)に敗れたのだろうか、卑弥呼は責任を問われ自決したようだ(あるいは串刺しの刑に遭ったか。魏志韓伝には王は責任をとって殺されるとの記事が見える)。



この墓は、昼は人が造り、夜は神が造った。[大坂山]の石を運んで造る。山から墓に至るまでに、人民が列を作って手から手へ渡して運ぶ。
時の人が歌って言うには「大坂に継ぎ登れる石群を手ごしに越さば越しかてむかも(いや、手渡しで越すことは決してできない)」。

「石群」が[行橋市]と[みやこ町]にまたがる「御所ヶ谷神籠石」を指すとすれば、そこから西にある大坂山を越えた[赤村]付近に箸墓が造られたことになる。
私はそれを赤村内田巨大古墳型地形に見たのである。[魏志倭人伝]にいう卑弥呼の冢だ。

定説では、卑弥呼の共立は[200年]で、死去したのは[248年]ごろだ。
伝説によれば、百襲姫と卑弥呼との死去した時期にずれが生じる。この伝説が日本書紀の崇神天皇紀に挿入されたのが原因と思われる。

卑弥呼は[田川]に眠っているのだ。






新説 日本書紀「第12回(1/7) 崇神天皇 卑弥呼の影」(令和4年1月21日) 福永晋三

新説 日本書紀「第12回(2/7) 崇神天皇 卑弥呼の影」(令和4年1月21日) 福永晋三

新説 日本書紀「第12回(3/7) 崇神天皇 卑弥呼の影」(令和4年1月21日) 福永晋三

新説 日本書紀「第12回(4/7) 崇神天皇 卑弥呼の影」(令和4年1月21日) 福永晋三

新説 日本書紀「第12回(5/7) 崇神天皇 卑弥呼の影」(令和4年1月21日) 福永晋三

新説 日本書紀「第12回(6/7) 崇神天皇 卑弥呼の影」(太宰管内志、香春神社由緒)(令和4年1月21日) 福永晋三

新説 日本書紀「第12回(7/7) 崇神天皇 卑弥呼の影」(太宰管内志)(令和4年1月21日) 福永晋三


新説・日本書紀⑫ 垂仁天皇① 卑弥呼の時代、埴輪を創始 福永晋三

2024-08-04 06:33:32 | 旧日本史1 古代

新説・日本書紀⑫ 福永晋三と往く - 古代史マガジン【KODAiZiNE】 (scrapbox.io)

2018年(平成30年)月日 土曜日

垂仁天皇① 卑弥呼の時代、埴輪を創始

筑豊の「纏向」はどこに

11代垂仁天皇は、書紀の系譜に沿えば、[魏志倭人伝]中の卑弥呼と同時代の天皇に当たる。
この巻は数々のエピソードに彩られ、卑弥呼の時代の筑豊の姿がしのばれる。

※(管理人注)
【11代垂仁天皇の主な事績】

・殉葬を禁じ、埴輪をつくる
・皇后の兄、狭穂彦王(さほびこのみこ)の謀反(書紀)
・加羅の王子、都怒我阿羅斯等ツヌガアラシトが来る(書紀)

・新羅の王子、天日槍アメノヒボコが来る(書紀)
・天照大神を伊勢に祀る(書紀)

書紀によれば、垂仁は[212年]に即位。
翌年に[狭穂姫]を皇后とした。
同年、「纏向に都つくる」とある。
[邪馬台国近畿説]が強調する奈良県桜井市纏向遺跡と同名だ。
ただ、奈良県纏向は「古語拾遺」や「延喜神名式」などにはすべて「巻向」と記されている。後世、書紀に合わせて「纏向」と表記したようだ。
筑豊の「纏向」は未だ判明していない。

[215年]9月、皇后の兄狭穂彦王は謀反を計画し、皇后に「兄と夫とどちらが愛しいか」と迫る。
皇后が「兄が愛しい」と言うと短剣を渡し、「天皇の寝首をかけ」と命じた。
皇后は10月、高宮(飯塚市伊岐須の高宮八幡宮か)で膝枕に昼寝していた天皇を刺そうとするが、涙がこぼれる。
天皇は顔に落ちたその涙で目覚め、皇后から狭穂彦王の反乱を知った。

天皇はただちに軍を差し向け、[狭穂彦]も軍を興して防いだ。
稲を積み作った城は、堅くて破ることができない。
「稲城」と記された地は、嘉麻市漆生の稲築山だろうか。

1カ月を超えても降服せず、皇后は夫と兄との間で苦悩し、ついに皇子を抱いて兄の稲城に入った。
天皇は「皇后と皇子を出せ」と交渉するが出てこず、城に火を放った。
皇后は城を出て皇子を渡すと城に戻り、狭穂彦と燃え盛る城中で死んだ。

魏志倭人伝によれば、書紀にある狭穂彦の乱は、卑弥呼の在位中に起きたことになる。
垂仁天皇は、卑弥呼の弟に当たることも考えられる。


初の製造地は桂川町

垂仁天皇の時代に、野見宿祢という人物が活躍している。

[218年]、当麻邑に[当麻蹶速]という力自慢の者がいた。衆人の中で「生死を問わず、ただ力くらべをしたい」という。
天皇はこれを聞き、相手になる力士を捜し、[出雲国](飯塚市平塚出雲周辺)の勇士野見宿祢を選んだ。
書紀に「当麻蹶速と野見宿祢と捔力らしむ」とある。相撲の起源だ。
「各々足を挙げて相蹶む」とあるのはキックボクシングのようだ。
野見宿祢が当麻蹶速のあばら骨を砕き、腰を踏み折って殺した。
天皇は当麻蹶速の地を野見宿線に与え、野見宿祢は天皇に仕えた。

[239年]、天皇の弟の[倭彦命]が死んだ。
この際「集めた近習の者すべてを生きたまま陵の周囲に埋めて立てた」とある。
日を経ても死なない者が昼夜悲しげな声を上げて泣いたが、ついに死ぬと犬や鳥が遺体に群れた。
天皇はこれを悲しみ、以後殉葬を止めよと言ったとある。
魏志倭人伝には、卑弥呼の墓に「殉葬する者奴婢百余人」とあるが、倭彦命の記事と合致することは明らかだ。

その2年後、皇后[日葉酢媛命]が死んだ。天皇は殉葬を止めようと群臣に相談する。
野見宿祢が良策を思いつく。
彼は使者を派遣し、出雲国の[土部]100人を呼び寄せた。
自ら指揮して粘土で人、馬、家などを作り、天皇に献上した。
「今後、この土物を生きた人に換えて陵に立て、後の世のしきたりに」。
天皇は[土物]を皇后の墓に立てた後、人を傷つけてはならないと命じた。
野見宿祢には陶器を造る土地と土部の職を与え、[土部臣]とした。土物、つまり埴輪の起源だ。
埴輪を最初に造った場所は「桂川町の土師」で、古墳と埴輪の取り合わせは筑豊が発祥の地だ。
卑弥呼の墓が最後の殉葬墓とすれば、後継者の台与の墓からは埴輪を立てたことになる。






新説 日本書紀「第14回(1/4) 垂仁天皇① 倭国と東鯷国」(テキスト⑫、第13回の復習)(令和4年4月1日) 福永晋三

新説 日本書紀「第14回(2/4) 垂仁天皇① 倭国と東鯷国」(垂仁天皇紀 天日槍、神功皇后の系図など)(令和4年4月1日) 福永晋三

新説 日本書紀「第14回(3/4) 垂仁天皇① 倭国と東鯷国」(卑弥呼と呉・魏両国との関係、倭国と東鯷国の年表)(令和4年4月1日) 福永晋三

新説 日本書紀「第14回(4/4) 垂仁天皇① 倭国と東鯷国」(赤村内田の巨大前方後円型地形、埴輪の伝承:長明寺縁起)(令和4年4月1日) 福永晋三








新説・日本書紀⑬ 垂仁天皇② 任那の帰化人、外交で活躍 福永晋三

2024-08-04 06:32:46 | 旧日本史1 古代

新説・日本書紀⑬ 福永晋三と往く - 古代史マガジン【KODAiZiNE】 (scrapbox.io)

2018年(平成30年)7月7日 土曜日

垂仁天皇② 任那の帰化人、外交で活躍


香春に3年、敦賀へ

日本書紀の[垂仁紀]に、[卑弥呼]が治めた[邪馬台国]との関わりがうかがえる1人の渡来人が登場する。
香春町[採銅所]にある現人(あらひと)神社の祭神、都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)
豊前国風土記に、「昔、新羅の国の神、自ら渡り来たりてこの河原に住みき。すなわち、名づけて鹿春の神と曰う」とある神のモデルでもある。


※(管理人注) 百済仇首王(きゅうしゅおう、在位:214年 - 234年)が、九州北部に乗り込んできて、伊都国をつくり、邪馬台国連合をまとめたという説もあります。卑弥呼はその百済王の仇首王の妃ではなかったかとされています。このとき九州の各小国は、百済王を支持します。たぶんそれ以前から百済は九州の各小国と連絡を取り合っていたのでしょう。
そんななかで、吉野ヶ里王国は邪馬台国に圧迫されて国を譲り渡し、そのあと中国地方を経て大和へ移動したとされます。そしてその王権が、5世紀に畿内の巨大古墳を造営するまでに成長したというものです。

※【百済の仇首王】 仇首王は百済の第6代の王(在位:214年 - 234年)であり、先代の肖古王の長子。
蓋婁王・肖古王に引き続き、新羅との交戦が続いた。新羅へは218年7月に攻め入って獐山城(慶尚北道慶山市)を包囲したが、新羅王(奈解尼師今)の反撃を受け、敗退した。
222年10月には牛頭城(江原道春川市)に侵入して略奪し、迎え撃つ伊伐飡(新羅の1等官)の忠萱を熊谷(江原道春川市東南の甘渓)で大破した。
224年7月には一吉飡(7等官)の連珍が侵入してき、烽山(慶尚北道栄州市)で迎え撃ったが敗北を喫した。(ウィキペディアより)



記紀に沿って年代を補った垂仁紀の一節の要約はこうだ。

[200年]、額に角のある人が越国(こしのくに)の笥飯(けひ)浦(福井県の気比浦)に停泊した。
そこを角鹿(つぬが)(敦賀)と名付けた。
[意富加羅(おほから)国](任那。後の新羅)の王の子、都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)と名乗る男は、日本に聖王がいると聞き訪れた。
[198年]に穴門(あなと)(関門海峡)で会った伊都都比古(いつつひこ)に「私がこの国の王だ。私以外に王はいない」と言われたが、王ではないと思い、島々浦々を伝って角鹿に来た。

穴門で会った伊都都比古が崇神の後を継いだ垂仁天皇とすれば、
都怒我阿羅斯等は、崇神が死去する直前に穴門に着き、
垂仁に仕えて3年後、卑弥呼が共立された年に日本海を東に巡り敦賀の[気比]に至ったと考えられる。
都怒我阿羅斯等がこの3年間に滞在した場所こそ、香春町の現人神社だろう。
垂仁紀には、都怒我阿羅斯等と香春との由縁をうかがわせる話もある。

都怒我阿羅斯等は日本に来る前、寝室に置いていた[白石]が美しい童女となった。
喜んだが、留守の間に童女が消えた。
足跡を追って海を渡り、日本に来た。
童女は難波に行き[比売語曽神]となり、豊国[国前郡]に到り、[比売語曽社]の神になった。

豊国国前郡を豊後の比売語曽神社(大分県姫島村)とする説が有力だが、豊前の香春神社(香春町香春)とする説も古くからある。
縁起の一節に
「韓地に於ける[大姫命]の霊は、実に白石の玉と示し給う。しこうして、この三山は、白石幽妙の神縁なり。けだし、上古より、この山に臨座有り」とある。
真の倭三山(香春岳)はかつて白石の山だった。
「太宰管内志」には「香春ノ神は又比売語曽神社と号す」とある。



卑弥呼の遠交近攻策

香春にいた都怒我阿羅斯等は卑弥呼の側近だった可能性もある。

当時、邪馬台国は南の狗奴国と緊張関係にあった。
卑弥呼は後漢書にある近畿の「東鯷国(とうていこく)」と友好関係を結ぶため、
密使として都怒我阿羅斯等を派遣したのではないか。
[238年]、卑弥呼がの帯方郡に使者を送ったのは史実だが、共立された時からすでに外交政策として遠交近攻策を採っていたとも思われる。
垂仁紀には、東鯷国が倭国に使者を送った話も記されている。

垂仁紀には、都怒我阿羅斯等と同工異曲の伝説がある。

天日槍(あまのひぼこ)が但馬国(兵庫県)に定住した。
5代の孫が田道間守(たじまもり)である。
使者となり、1年を経て常世(豊)国から「八竿八縵(やほこやかけ)の非時(ときじく)の香菓(かぐのみ)」を携えて但馬に帰国したが、聖帝は死んでいた。
陵の前で「おらび哭き」、自死した。

八竿八縵の非時の香菓が、どうやら豊前の串干し柿・つるし干し柿のようだ。
田道間守は但馬国と豊前国とを往来したようである。
あるいは、卑弥呼は干し柿を大物主神にささげていたかもしれない。






新説 日本書紀「第13回(1/8) 垂仁天皇② 倭国と東鯷国」(崇神天皇紀、香春町鶴我家系図)(令和4年3月18日) 福永晋三

新説 日本書紀「第13回(2/8) 垂仁天皇② 倭国と東鯷国」(太宰管内志、万葉集228・229番)(令和4年3月18日) 福永晋三

新説 日本書紀「第13回(3/8) 垂仁天皇② 倭国と東鯷国」(垂仁天皇紀:天日槍、系図)(令和4年3月18日) 福永晋三

新説 日本書紀「第13回(4/8) 垂仁天皇② 倭国と東鯷国」(系図、田道間守)(令和4年3月18日) 福永晋三

新説 日本書紀「第13回(5/8) 垂仁天皇② 倭国と東鯷国」(播磨国風土記)(令和4年3月18日) 福永晋三

新説 日本書紀「第13回(6/8) 垂仁天皇② 倭国と東鯷国」(三世紀の倭国・東鯷国)(令和4年3月18日) 福永晋三

新説 日本書紀「第13回(7/8) 垂仁天皇② 倭国と東鯷国」(三角縁神獣鏡の誕生、氣長足姫尊天皇の征西)(令和4年3月18日) 福永晋三

新説 日本書紀「第13回(8/8) 垂仁天皇② 倭国と東鯷国」(質疑応答 製鉄について等)(令和4年3月18日) 福永晋三





新説・日本書紀⑭ 景行天皇① 卑弥呼の死後の乱の正体 福永晋三

2024-08-04 06:31:55 | 旧日本史1 古代

新説・日本書紀⑭ 福永晋三と往く - 古代史マガジン【KODAiZiNE】 (scrapbox.io)

2018年(平成30年)7月21日 土曜日

景行天皇① 卑弥呼の死後の乱の正体


豊国の土蜘蛛を北伐

[247年]、[帯方郡]の太守に王頎が着任した。
倭の女王卑弥呼は、狗奴国の男王卑弥弓呼(ひみくこ)と以前から仲が悪く、
使者をが治める帯方郡に遣わし、攻撃されている様子を伝えた。
この報を受けて、帯方郡からは国境警備の属官が、女王への使者に詔書と黄色の旗を持たせて、倭へ派遣した。

ただ[248年]、事態は悪化する。世に知られる[魏志倭人伝]の一節だ。

「卑弥呼以て死し、大いに冢を作る。径百余歩なり。殉葬する者奴婢百余人なり」

魏志倭人伝には、卑弥呼の死後、代わって男王を立てたが、国中が従わず殺し合い、当時千余人が死んだ。
そこで卑弥呼の一族の娘、台与(とよ)という13歳の少女を王とすると国がようやく治まったと記されているが、
この乱を表しているのが、景行天皇紀にある「熊襲と土蜘蛛の反乱」であろう。

(古代史 闇に消えた謎を解く 関裕二 PHP P200)
 北部九州の一帯には、「豊比咩(とよひめ)(豊姫)」を祀る神社が方々にある。特に、筑後川流域に多い。・・・・・・「豊比咩」とは、卑弥呼に次いで邪馬台国の女王となった台与のことと考えられる。

※(古代に真実を求めて 第22集 倭国古伝 古賀達也 古田史学の会編 明石書店 2019.3月 P53)
 本稿では『風土記』と地方伝承の多元史観による分析で、ある人物の同定を試みた。その人物とは、『肥前国風土記』に「世田姫」と記され、同逸文では「與止姫(よとひめ)」あるいは「豊姫(ゆたひめ)」「淀姫(よどひめ)」とも記された、肥前国一宮河上神社(與止日女神社)の御祭神である。ちなみに、近畿の大河淀川の名はこの與止姫神を平安初期に勧請したことに由来しているという。そして、この『肥前国風土記』や地方伝承に現れた與止姫に比定した人物は、卑弥呼の宗女邪馬壹国の女王に即位した壹與である。『魏志倭人伝』に記された倭国の二人の女王。その一人、卑弥呼が『風土記』に甕依姫(みかよりひめ)として伝えられているなら、もう一人の女王壹與が『風土記』に記されていたとしても不思議ではない。幸いなことに、壹與に比定を試みた與止姫は現在も地方伝承として、あるいは後代史料に少なからず登場する。

※(管理人注) 「トヨの国」がどうなったか。「トヨの国」といえば「の国」で、「豊前」と「豊後」ですが、北九州から大分まで全部「豊の国」です。奈良時代の道鏡事件にみるように、「豊前」の宇佐八幡宮がなぜあんなに力をもっているのか。宇佐八幡には神功皇后とその息子の応神天皇が祭られています。


記述に沿うと、大分県から田川地域に残る地名と符号しているのが分かる。

垂仁天皇の皇子、景行は日向国(宮崎県)から碩田(おおきた)国[速見邑](大分県速見郡周辺)で速津媛を帰順させ、現地の土蜘蛛を退治して北上する。
菟狭(うさ)の川上(大分県宇佐市の駅館川周辺)の鼻垂(はなたり)
御木の川上(同県中津市、豊前市、上毛町を流れる山国川周辺)の耳垂(みみたり)
緑野の川上(添田町深倉の深倉川周辺)の麻剥(あさはぎ)
高羽の川上(田川市の彦山川周辺)の土折猪折(つちおりいおり)の各土蜘蛛を退治した。

田川市[夏吉]の[若八幡神社]に祭られる神夏磯媛(かむなつそひめ)も、
磯津山(香春町鏡山四王寺ケ峰)の賢木を抜き、「八握剣・八咫鏡・八尺瓊」を枝に掛けて、帰順した。



景行は狗奴国の王か

景行が進んだ宇佐から香春に至るルートは、不思議と神武天皇の[第2次東征]とほぼ同じだ。
また、神武の死後、後を継いだ[手研耳命]はわずか3年で暗殺された事実もある。
狗奴国が邪馬台国と対立していたことや、北伐の地が邪馬台国の領土だったことと重ね合わせると、景行は狗奴国の男王卑弥弓呼ではないか。

景行は香春を治めた後、豊前国の長峡県(ながおのあがた)(行橋市の長峡川周辺)に進み、行宮(かりみや)を建て(みやこ)と呼んだ。
現在の京都(みやこ)の起源となったその行宮は、行橋市とみやこ町にまたがる[御所ヶ谷神籠石]にある[景行神社]だ。

北伐はさらに続き、
海石榴市(つばきち)(行橋市長尾の椿市小学校付近)、
祢疑山(ねぎのやま)(北九州市小倉南区の貫山)の土蜘蛛を滅ぼす。
柏峡の大野(同区の朽網)に宿った。そこに大石があり、天皇は誓いを立てる。
「私が土蜘蛛を滅ぼすことができるなら、この石を蹴る時に柏の葉のように上がれ」と。
蹴ると石は大空に上がり、「踏石」(ほみし)と名付けた。現在の朽網の[帝踏石](たいとうせき)だ。北伐のルートにはまさに足跡が色濃く残っている。

ところで、「緑野の川上」の土蜘蛛については、日本書紀と異なる現地伝承がある。[添田町史]にある「緑川の話」だ。

景行天皇の皇子[日本武尊]の軍勢が、彦山川の上流に勢力をはる土折居折の軍を破って、[血みどろ川]と呼ばれるようになったという。
土折居折が日本武尊から討たれた伝承は田川市猪国の[猪膝]地区にもあり、土折居折を斬った太刀を洗った太刀洗の井戸が同地区の道路脇にある。

土折居折を退治した人物が、なぜ日本書紀景行紀では景行、これらの伝承では日本武尊なのか。
この謎については、次回で明らかにしたい。



新説 日本書紀「第15回(1/7) 景行天皇①・② 卑弥呼と臺與と日本武尊」(テキスト⑭・⑮)(令和4年4月15日) 福永晋三


新説 日本書紀「第15回(2/7) 景行天皇①・② 卑弥呼と臺與と日本武尊」(通説のヤマトタケル)(令和4年4月15日) 福永晋三


新説 日本書紀「第15回(3/7) 景行天皇①・② 卑弥呼と臺與と日本武尊」(二人の日本武尊、川上神社)(令和4年4月15日) 福永晋三


新説 日本書紀「第15回(4/7) 景行天皇①・② 卑弥呼と臺與と日本武尊」(川上神社、日本武尊は伊都国王=一大率)(令和4年4月15日) 福永晋三


新説 日本書紀「第15回(5/7) 景行天皇①・② 卑弥呼と臺與と日本武尊」(大足彦忍代別天皇の豊国北伐)(令和4年4月15日) 福永晋三


新説 日本書紀「第15回(6/7) 景行天皇①・② 卑弥呼と臺與と日本武尊」(伊吹山=足立山、葛原八幡神社、能褒野(のぼの) → 上野)(令和4年4月15日) 福永晋三


新説 日本書紀「第15回(7/7) 景行天皇①・② 卑弥呼と臺與と日本武尊」(三基の白鳥の御陵)(令和4年4月15日) 福永晋三