新説・日本書紀⑥ 福永晋三と往く - 古代史マガジン【KODAiZiNE】 (scrapbox.io)
2018年(平成30年)3月31日 土曜日
神武東征① 神武、九州西部を治める
菊鹿盆地から福岡平野へ
神代最後の王、鸕鷀草葺不合(うがやふきあえず)尊の第4子として、神日本磐余彦(かむやまといわれひこ)天皇(後の神武天皇)が菊鹿盆地の南方、山都町の奥で生まれたとの説がある。
記紀ともに母は海童の少女玉依姫とする。
磐余彦は菊鹿盆地に育ち、15歳で太子になる。
日向国の[吾田邑]の吾平津媛を妃とし、手研耳(たぎしみみ)命を生む。
磐余彦の祖父、いわゆる山幸(彦火火出見(ひこほほでみ)尊)は、兄の海幸(火闌降命)と戦い勝利した。
私はこれを、菊鹿盆地の国と福岡平野の国との戦いで、磐余彦がその長きにわたる戦いにけりをつけたと考える。
※(管理人注) 日本書紀の神武天皇条に、神武天皇の「諱(実名)は彦火火出見(ひこほほでみ)という」とあり、山幸彦の本名の彦火火出見(ひこほほでみ)と同じ名である。同一人物ではないか。
古事記には、[神武東征]の初めに「日向より発たして、筑紫にいでます」の一節がある。
通説は宮崎から福岡に進発したとするが、
山鹿市の日向村から進発し、筑紫に北伐したと解釈している。
お佐嘉の大室屋の決戦
日本書紀を読み解くと、その北伐の途中に「お佐嘉の大室屋」で一大決戦があったことが記されている。
神武は「大室を[忍坂邑]に作り、酒席を設け、敵をだまして殺せ」と家来に命じる。
合図に歌われたのが次の歌だ。
「お佐嘉の 大室屋に 人多に 入り居りとも 人多に 来入り居りとも みつみつし 来目の子らが 頭椎い 石椎いもち 撃ちてし止まむ」(原文は万葉仮名)
(お佐嘉の大室屋に、人が多勢入っていようとも、人が多勢来て入っていようとも、勢いの強い来目の者たちが、頭椎・石椎でもって撃ち殺してしまおう。)
[佐賀]は古くはサカと読んだ。
通常、奈良県の[忍坂]をオサカとするが、弥生時代の「大室屋」は、佐賀県の吉野ケ里遺跡の他にないことは、復元の様子からも推測される。
吉野ケ里遺跡からは、出雲系の銅鐸が出土しており、神武以前の時代は、出雲王朝の一国だったと推定される。
ただ紀元前に、糸島半島に上陸した瓊々杵(ににぎ)尊の率いる五部造(筑紫物部軍団)に襲われ、一度滅んだと考える。遺跡東側の逆茂木遺構がそれを暗示する。
日本書紀の紀年によれば西暦83年、瓊々杵尊の一族が再建した「お佐嘉の大室屋」を神武軍が攻略し、陥落させた。
※(古代に真実を求めて 第3集 平野雅廣 古田史学の会編 明石書店 2000.11月 P120)
私は、最近「ヤマトタケル物語」が史実であり、その舞台が佐賀県にあったことを知ることが出来た。新史料を手に入れたのである。『佐賀県史蹟名勝天然記念物調査報告』上巻中の佐賀郡鍋島村大字蠣久(かきひさ)に在る「蠣久府址」の説明に、
「往昔此地は九州一方の都会、肥州の国府長岡ヶ庄蠣久と云ひ、戸数三千、富家巨商軒を連ねし所、此地元斥鹵(せきろ 塩分を多く含んで耕作の出来ない荒地)の地、蠣殻多かりし。日本武尊河上村に熊襲追討、日向の国より兵船に乗りて蠣久津に到着し、蠣殻の上を歩みて河上村に至り給へり。文徳天皇天安二年(858)勅許を以て、肥前国府市、芸州宮島市、筑州宰府市を開けりとぞ」・・・・・・
後漢の永初三年(107)、委奴国が朝貢してから幾年経ったであろうか。国王は、脊振山脈を越えて南麓の佐賀平野へ進出した。山間に発する水脈が清冽な川上川となって南の平野を潤す地勢を、有望なりと見て取ったのであろう。かくして川上村を中心とする一帯は、委奴国の穀倉地として重要な都となり、河口に向け開けた蠣久の津は、南九州から大陸までも通ずる賑やかな港町として知られるようになったのであろう。この南方進出によって、当時の委奴国王、取石鹿文(とろしかや)は、豊かな財力と強固な権力とを併せ持つ「川上梟師(たける)」と称されたのであった。
だが人生夢幻、新宮殿も落成して目出度い祝宴の一夜、女装の童男、日本武尊の刃に倒れたのであった。
「大乱」の火種は、ここに発火したのである。東方程近い神埼郡の「吉野ヶ里」は、この大乱に巻き込まれた遺跡の一つではなかろうか。
※(管理人注) ヤマトタケルという名前は、熊曾建(クマソタケル 日本書紀では川上梟師(かわかみのたける))が名づけた名前であり、ヤマトタケルの本名は小碓命(おうすのみこと)です。名前を与える行為は、上の者が下の者に対して行う行為であり、下の者にとっては非常に名誉ある行為です。この名誉ある行為を、新築祝いの宴会の席での暗殺シーンとして『記紀』は描いています。この宴会の主催者は熊曾建(クマソタケル)であり、ヤマトタケル(小碓命)はその宴会に呼ばれた出席者にすぎません。(しかも女に扮して殺しています)。このことは、ヤマトタケルが地方の一支配者にすぎず、このときの本当の支配者は熊曾建(クマソタケル)であったことを意味しているのではないでしょうか。
神武軍の北伐は続き、博多湾岸までを領した。
糸島、福岡両市の境、高祖(たかす)山山頂にあったとされる高祖神社には、彦火火出見尊と玉依姫などが祭られている。
九州の西を領有した神武は、戦国時代の織田信長のように「天下布武」を志した統一への野望が「高千穂(高祖山)の東征宣言」となる。
「昔我が天神、高皇産霊尊・大日孁尊、此の豊葦原瑞穂国を擧(ことあげ)して、我が天祖彦火瓊々杵(ににぎ)尊に授けき。是に、火瓊々杵(ににぎ)尊、天關闢き、雲路披(おしわ)け、仙蹕(みさきはらい)駈(お)ひて以ちて戻り止まり、此の西の偏(ほとり)を治す。
鹽土老翁(しおつちのおじ)曰く、『東に美し地有り。青き山四に周り、其の中に亦天磐船(あまのいわふね)に乗りて飛び降る者(=饒速日尊)有り』と。
余、謂ふに、彼の地は、六合(くに)の中心か。何ぞ就(ゆ)きて都なささらん」
※ 書記には、この2行後に「天磐船に乗りて飛び降る者」の名として実際に饒速日の名が出てくる
諸皇子たちが答える。
「理実(ことわり)灼然(いやちこ)なり。我も恒に以て念(おもい)としつ。早に行いたまえ」と。
ちなみに、「いやちこ」は、大分の麦焼酎「いいちこ」と同じ豊前方言で、「いいことだ。もっともだ」の意である。
日本書紀ではこの年を114年、神武45歳の時としている。
こうして神武は、天神饒速日尊の末裔が治める筑豊への東征を開始した。
(記紀万葉研究家)
新説 日本書紀「第7回(1/7) 神武東征① 東征謀議」(令和3年11月5日)(通説の神武東征) 福永晋三
新説 日本書紀「第7回(2/7) 神武東征① 東征謀議」(令和3年11月5日)(通説の神武東征) 福永晋三
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