1)ギリシア
 戦争による神々の変化は次々に連鎖反応を生みます。神官が消滅するとさらには王権が消滅していきます。 ギリシアのアテネも初めは王政だったのですが、前8世紀ごろポリスが成立する時期には、アテネはすでに王権が消滅した社会になっています。 それは神官が呼び出した神を、王も信じていたからです。 スパルタには、例外として2人の王が存在するのですが(これは2つの部族が合体したからだといわれますが)、この王は以前の王と比べるとかなり弱体化された王です。政治の実権は貴族たちの長老会にありました。

 ポリス成立後のギリシアの歴史は、王と神官が滅ぶところから始まっているということがいえます。 そこでアテネでは王に代わって、アルコンと呼ばれる9人の執政官が選ばれるのですが、これを選ぶのが民会です。選ぶといっても抽選です。 ギリシアは民会をもつ社会です。この民会は、王制時代の戦士の総会に起源あります。 つまり、この社会は戦い中心、戦士中心の社会だということが言えます。 ローマの場合は貴族の総会と平民の総会が別々で貴族が力を持つようになりますが、アテネの民会は貴族も平民も一緒で民会が最も力をもつようになります。

 このように平民が力を持ってくると、平民の中には農業だけではなくて商工業に従事し富を蓄える者も出てきます。 その一方で農業従事者の中には没落する平民も出てきます。

 そうしたなかで貧富の差が拡大し、没落していく平民の中には貨幣経済(貨幣は紀元前8世紀にトルコ西部のリディアですでに発生しています)の発展のなかで借金に借金を重ねて、それが返済できずにやがて借金奴隷に陥っていく者がでてきます。 借金奴隷は紀元前594年に、ソロンの改革で禁止されますが、それは禁止しなければならないほど社会に悪影響を及ぼしていたと考えるべきことです。

 そのような社会は平民同士の激しい競争を生んでいきます。 人々は常に自己正当化・自己主張する必要があり、そこから発達してくるのが弁論術です。 民会でも裁判でも常に自分の主張を明らかにし、そして民衆を説き伏せる力が必要になります。そこでは声高な自己防衛が行われる社会であって、心理学者の中にはこれを躁鬱病の躁をとって躁的防衛という人もいます。

 それとともに、このような社会ではもはや神の声というのは聞こえなくなって、神の声より自分の気持ちや欲望が優先されるようになります。 それと同時に宗教的には「神々の零落」が起こります。 そして崇高な神々の神話がおもしろおかしく喜劇にアレンジされ、人々は神様を笑い飛ばすようになります。ギリシアの神々は人間と同じような感情を持ち、同じような失敗をし、時には滑稽なことをして人々を笑わせるのです。日本人はこのようなギリシア神話の気安さに好感を持つ人が多いのですが、その裏に潜む心の渇きにも目を向けなければなりません。 日本では古来の神々が社会の変化につれてお化けに零落する過程を、民俗学者の柳田国男が「妖怪談義」の中であとづけています。それと同じことがもっと過激な形でギリシアでは起こっているのです。

 そんななかで、紀元前5世紀にはギリシアに外国から敵が押し寄せてきます。これがペルシア戦争です。 ギリシアの民主政治は、専制国家ペルシアに負けて滅んだと勘違いしている人も多いのですが、ギリシアはペルシア戦争に勝利します。そしてこの勝利によって民会が政治の最高機関として位置づけられるようになります。

 このペルシア勝利によってギリシアの民主政治は絶頂期を迎えます。 それがペリクレスの時代であり、ギリシアがもっとも繁栄する時代ですが、しかしそのあとが問題なのです。ソクラテスが登場するのはこういう時代であり、社会に深い疑いを抱いた人たちが多く出現する時代です。

 そのソクラテスは民衆による裁判によって死刑に処せられます。 それを見ていた弟子のプラトンは、アテネの民主政治に深い失望感を味わいます。ソクラテスは弟子たちの逃亡のすすめを聞かず、自ら毒を仰いで死にます。ダヴッドが描いた「ソクラテスの死」はそのシーンを描いた作品です。

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              「ソクラテスの死」 ダヴィッド 1787年

 プラトンによれば、民主政治というのは無知な大衆の政治であって、無知な人々の自分勝手が通る社会だと言ってます。デモクラシーのデモは、デマゴーグ(扇動政治家)のデモであり、またデモ行進のデモです。それらは語源を共有しています。

 ではプラトンはどういう社会を理想としたかというと、これも少し問題があって、スパルタのような国家目的最優先の国家を理想とします。財産は共有性で、そればかりか妻も社会の共有制とする。そして結婚年齢も出産年齢も指導者が決定するような社会なのです。

 それも一面恐いと思うのですが、それはともかくプラトンが言った通り、ギリシア社会はポリス間の争いであるペロポンネソス戦争(前431年~前404年)によって、衆愚政治に陥っていきます。衆愚政治というのは「皆の衆が愚かな政治」と書きます。そういう民衆を、無能な扇動政治家(デマゴーグ)が率いていくようになります。 このペロポンネソス戦争によってアテネはスパルタに敗れて、ギリシアの黄金時代は終わります。 つまりギリシアの滅亡は、ペルシアという外敵によってではなく、ギリシア内の内部崩壊によって終わっていくのです。
 
2)ローマ
 ギリシアと同様に、王権の消滅という事態は古代ローマでも起こります。 伝承によれば、ローマの建国はギリシアのポリス成立期とほぼ同時期の紀元前713年で、ロムルスという男が初代の王だと言われます。 このロムルスも勝手に王になったのではなくて、市民集会によって王に選出されました。 この王は終身ではありますが、決して東洋の王権のような世襲制ではありません。 これも家族の弱さというもの、つまり血筋の弱さというものと関係していると思われますが、日本のような世襲王権の伝統を持つ社会からみると、このような世襲制を取らない王制はどこか中途半端な印象を与えます。

 その後、紀元前509年にローマは共和制に移行し、2人のコンスル、これが執政官とよばれたり統領とよばれたりするのですが、このコンスルの任期は終身ですらなく、たった1年なのです。 そしてさらに、カエサル暗殺の後の紀元前27年、元首政に移行します。

 初代の元首はカエサルの養子であるオクタヴィアヌスです。彼はアウグストゥスという称号を受けるのですが、彼自身は決して自分を王とは言いいません。 あくまでもプリンケプス(これが元首と訳されます)、自分はあくまでも市民であって「市民の中の筆頭」にすぎないというスタンスです。これは暗殺されたカエサルの轍を踏まないようにするためなのですが、このことからローマ社会で王になることがいかに危険なことかがわかります。 しかしその業績によりこのアウグストゥスは初代の皇帝とみなされていきます。

 では実際にこの皇帝と見なされたアウグストゥスの本当の政治的肩書は、 「司令官・カエサル・神の子・アウグストゥス」、さらに「大神祇官・コンスル13回・最高司令官の歓呼20回・護民官職権行使37年・国父」とやたら長い肩書きです。 そのなかには「王」という言葉はありません。ここで言えることはアウグストゥスは従来からあった共和制の公職を多数兼任しているだけであり、決してこれは共和制から王制への過激な変化ではないことです。アウグストゥス自身は「王」と呼ばれることを極力避けていました。

 日本人から見ると絶大な権力を持っているいるように見える皇帝、つまり「エンペラー」という言葉は、先のアウグストゥスの最初の肩書である司令官、つまり「インペラトール」の英語読みです。 インペラトールは、「命令する者」といった程度の意味です。決して王ではありません。単なる戦争時の将軍を意味する言葉です。 ドイツではこの皇帝のことをカイザーといいますが、これは2番目の肩書きである「カエサル」をドイツ語読みしたものです。

 皇帝つまりエンペラーは、宗教的権威をまとった王ではなくて単なる司令官にすぎないということです。 中国の皇帝と違い、王は「天」や「神」の権威をまとってはいません。 そしてこの皇帝も世襲制とは限りません。 ローマの帝政が世襲制ではないことは、帝政時代の最も安定した時代とされる2世紀の五賢帝の時代を見るとよくわかります。 五賢帝というのはネルウァ、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニヌス、そして最後がマルクス・アウレリウスの五人を指しますが、彼らは親子でもなく、血がつながっているわけでもありません。 前の皇帝が有能と見込んだ次の皇帝を指名しているのです。 前4人の皇帝に子どもがないから、このように皇帝に血がつながらないのですが、皇帝4人も続けて子どもがいないというのが我々からみると不自然です。 ちなみにローマ帝国滅亡後のゲルマン社会は、それぞれの民族が移動先で国を建てて世襲王権を建てますが、ゲルマン国家の中心となるフランク王国の王権を見ても、その王権の世襲制は非常に不安定なものです。

 王に子どもがいないことの不自然さについて、前2世紀の歴史家ポリヴィオスは、「人々は結婚したがらず、結婚しても子どもを育てたがらないといっています。 当時のローマでは、捨て子の風習がますます広がっていきます。奴隷制社会ローマでは、捨て子はなくてはならない奴隷の格好の供給源になっています。 ローマ帝政期は見かけは華やかなのですが、どうも自分中心の社会で、自分の子どもさえ捨てて良心の呵責を感じない、いわば神の声が聞こえなくなった社会、しかも宗教的な退廃期であると言えます。 ローマ人貴族の宴会は、寝そべりながら、味を楽しみながら、食っては吐き、食っては吐き、そのために鳥の羽まで用意して、ノドをくすぐりながら吐き続けるのです。 こういう食事が一般化するということは、どこか社会が退廃しているのであって、その裏には精神的な渇きがあったと思われます。 この精神的な渇きの中で、ローマ社会に東方からのオリエント(現代の中東地域)系宗教が入り込み、様々な宗教が乱立しますが、やがてそのなかから東方オリエント系宗教の一つにすぎなかったキリスト教がどっかりと腰を据えていくのです。